第156話 悪意 -stare from abyss- 13

「おい、待てよ!」


 ファレルは、人混みを走り抜けていた。彼は、行き交う人々の間を最短ルートで潜り抜け、凄まじい勢いで歩道を駆け抜けていくセレナを追っていた。

 敵の気配を捉えたセレナに従って、ルイーズたちのいる貴賓館を後にしたのは、十分以上前だったが、貴賓館の前で警戒を続けていた時、セレナは突然、どこかへ走り出し、ファレルは仕方なくそれを追いかけていた。

 それにしたって早い。ファレルとて対人部隊の一員としてかなり鍛えている。だが、セレナには追いつける気配がなかった。

 人の意識の合間を縫うように、人と人とのわずかな隙間を縫うように、そうやって走るセレナには、いちいち人とぶつかりそうになっているファレルでは追いつけないのだ。

 とはいえ、紛いなりにも、見失っていない辺り、ファレルの身体能力の高さがうかがえる。

 しかし、だからこそ、ファレルは、突然のセレナの凶行を見ていながら、止めることができなかった。

 見ていなければ、見なかったことにできたし、追いついていれば止められた。しかし、ファレルはそのどちらでもなく、中途半端だった。

 セレナは、抜き放った二本のナイフを、道を歩いていた、金髪の若い女性に向かって突き立てたのだ。

 若奥様、といった程で、どこかふんわりとした雰囲気を持ち、メリハリのある体型をしたスタイルの良い女性だ。

 当然、戦闘訓練など積んでいるようには見えない。セレナが突き立てたナイフをどうこうできるはずもない。

 すなわち、待っているのはただ、死のみである。


「おい、テメェ、待ちやがれ!」


 叫ぶが遅い、しかし、ファレルの目に映ったのは、予想された惨劇ではなく、オレンジの火花を散らして弾かれたナイフだった。


「はあ?」


 思わず間の抜けた声を漏らしたファレルの前で、女性の赤い唇が、蠱惑的に吊り上がった。

 そして、その女性は、髪を掴むと、引き抜くようにして、金色のそれを地面に投げ捨て、どこからともなく取り出したフード付きの黒いマントを羽織り、顔を隠した、

 血でも吸ったかのように赤く、妖しい魅力を漂わせ、揺らめく唇。目元を隠した顔から読み取れる情報はそれだけ。

 しかし、ファレルはその女性に、否、黒ずくめの女に心当たりがあった。左腕に残った傷跡が疼く。こいつは──


「はっ、またテメェか、イカレ女!」


 ファレルが吐き棄てると、女はますます口元を愉快げに歪めた。

 そして、追いついてきたファレルの叫びに続くように、セレナは、人形のように変わらない表情の中で、唯一、瞳だけを憎々しげに細め、


「……ねえさん、今日は逃さない」


 そう宣言した。

 遅れて、周囲から悲鳴が聞こえ、人々が散っていく。いつの間にか、周りには、恐怖より興味が買った、わずかな見物人しかいなくなっていた。

 そして、殺気を漲らせるファレルとセレナを前に、女は本当に楽しそうに、声に出して笑った。


「ははっ……はははははっ! 面白くなってきたじゃないかい!」


 そして、どこからともなく、2本のナイフ取り出すと、構えをとった。

 約3ヶ月前。このヴィクトール領に現れ、セレナに重症を負わせ、ファレルとカエデを一方的に打ち倒し、姿を消した隠密の女。それが、あの金髪の女性の正体だった。


「はっ、思わず、笑っちまったぜ。テメェのコスプレにはよ」

「なんだい? アンタ、あんなのが好みなのかい? くくっ、セレナ、アンタじゃ足りないってさ」

「……関係ない、殺す」


 ファレルが皮肉めいて口角を上げて言った台詞は、なぜかセレナに打ち返され、話をする気の無いセレナによって、一方的に場外へ消えた。

 この女は、腹が立つことに話に通じない女ではない。だからこそ、会話で時間を稼ぎ、あわよくば緩い口から情報を奪おうという考えだったのだが、相方セレナの方はといえば、殺る気満々だったらしい。

 瞬時に景色に溶け込むようにして消えたセレナが、ナイフを振るう。

 しかし、死角からのはずに一撃を、女は片手間に弾き返し、続く連撃もあっさりと両手のナイフで捌くと、先制攻撃を防がれたことで一時的に距離をとったセレナを尻目に、呆れたような溜息を吐いた。


「やれやれ、我が妹ながら、なんでこんな話を聞かない子に育ったんだい?」

「……あなたに育てられた覚えは、ない」

「まったく、冷たいもんさね。昔はもっと可愛げがあったってのにねえ」

「姉妹の感動の再会はそれくらいにしやがれ。今度は何の用だ、イカレ女」


 軽い口調ながらも、言葉の端々に殺気を乗せる女と、修羅でも宿ったのかと思わせるほどに、怒りを溢れ出させるセレナ。

 2人の関係がなんなのかは知らないが、あの女の戦闘力の高さは理解している。セレナとファレルの2人がかりでも、勝てるかは微妙なところだ。


「ははっ、アンタ、聞いて教えてもらえると思ってるのかい? それ」

「さあな。だが、隠密にしちゃ、口の軽い犬がいるのは事実だろうが。なあ、エスメラルドのワンコロ女」


 ファレルは、いつかのように女の主人と目される人物の名を口にする。

 ジンは確信はない、と言っていたが、なぜかティナや《テルミドール》は確信しているらしく、それを元にいくつかの作戦が組まれたと聞く。

 しかし、一方の女はといえば、ナイフを手に握ったまま、肩をすくめ、首を左右に振って、呆れを示しただけだった。


「やれやれ、そんな聞き方しても無駄さね。守秘義務ってものもあるからねえ。それに、アンタも狙いは分かってるんじゃないかい?」

「答え合わせはしてくれるってか? はっ、笑わせんじゃねーよ。テメェこそ、さっさと吐いた方が身のためだぜ? おれら2人を相手に、勝てるとでも思ってんのか?」

「ふふっ……相変わらず強気だねえ。まあ、そうこなくっちゃ面白くないさね!」


 そして、女はその場でナイフを振るった。会話の最中に素早く移動していたセレナが、そのナイフを受ける。しかし、不意を突かれた形になり、受けが甘くなる。

 隙とも言えないような小さな隙。その一瞬があれば、女には十分だった。ナイフを突き出す。

 セレナは、それが自身の柔らかい腹を抉る寸前に、もう一本のナイフでそれを逸らした。

 しかし、同時に放たれていた蹴りに反応できず、鳩尾を蹴り飛ばされて、転がりながら吹き飛ばされ、近くの商店の壁に叩きつけられ、むせ返り、嘔吐えづく。


「アンタたちじゃあ、2対1でもアタイは殺せないさね」

「そいつはどうかな? 試してみようぜ!」


 セレナに対応するわずかな間に、ファレルは、女との距離を詰めていた。手首に仕込んだナイフを女の顔めがけて投擲。

 女は、首をわずかに傾けて避けた。しかし、その視線はナイフにわずかながらに引きずられた。

 ファレルは、懐に隠していた拳銃をクイックドロウ。女に向けて数発発射する。

 女は、ダンスのステップでも踏むように、銃弾を避けながら、ファレルに接近する。

 互いの距離がゼロになった瞬間、2人のナイフがぶつかり、赤い火花を散らした。


「アレに正面から突っ込んでくるとか正気かよ」

「はっ、やっぱりアタイ好みだねえ、アンタ」

「言ってろ、クソ女! 少なくとも、テメェはおれの好みじゃねーよ!」


 高速で振るわれる2本の白刃を、ファレルは片腕のナイフで捌く。そして、途中幾度か射撃を挟み、女を牽制する。

 だが、女は、放たれる銃弾など、豆鉄砲であるかのように、容易くすり抜け、自らの得意とする距離レンジから、ファレルを逃さない。

 複雑な舞を舞うかのように、戦う2人だが、どちらかと言えば、押されているのはファレルの方だった。

 直撃はない。しかし、掠めたナイフが、皮膚を薄く切り裂き、血が滲んでいた。

 以前、正面からやり合えば、十分対抗できると踏んでいたが、女はまだ本気ではなかったようだ。ファレルは、自分の見立ての甘さに舌打ちをこぼした。


「ははっ、なかなかどうして、付いて来るじゃないかい。もう一段、上げるよ!」


 その言葉と共に、剣舞の速度が上がった。ナイフ一本では捌ききれないと判断したファレルは、射撃を囮に、銃を女の顔に向けて投げつけた。

 当然、当たらないが、ナイフを抜く時間があればいい。逆手持ちで抜きうちにナイフを払い、相手のそれを受ける。

 いかに女が優れた戦闘能力を持ち、体重が軽いセレナとはいえ、を吹き飛ばすほどの膂力を持っているといっても、女であることには違いない。男とは本質的な部分で力の差がある。

 それゆえに、女は鍔迫り合いになることを嫌っていた。純粋な力勝負では、ファレルに分があることを理解しているのだ。

 獲物に喰らいつくネコ科の肉食獣のように、しなやかに、そして大胆に、剣を振るう。一撃の重さではなく、一撃から一撃への繋ぎを重視した、連続剣。それが、女の剣術だった。


「速えーな、おい」

「なんだい、まだいけそうじゃないかい!」

「つか、テメェは1つ忘れてんよ」

「へえ、なんだい?」

「女は執念深いもんだぜ? テメェも大概だが、よ!」


 ファレルは、ナイフを受けずに、その場にしゃがみ込む。頭のすぐ上をナイフが通り抜け、遅れた髪が数本切り裂かれる。

 そして、その場で、足を伸ばし、女の足を払う。女が取った選択肢は跳躍。ただし、前へ。ファレルの頭を飛び越えるように。

 しかし、ファレルの狙いはそこではない。

 直後、銃声が響いた。女は、跳躍した状態で半回転。ナイフで弾丸を払う。


「チィッ!」

「……ちぇっくめいと」


 舌打ちをこぼした女に向けて、セレナが投擲したナイフが飛ぶ。回転しながらそうとうな速さで投げつけられたそれに、銃弾を弾く女は、対応できない。

 しかし、女は、予想を超えた動きを見せた。足を伸ばして、ファレルの頭を踏み台にし、空中で回転し、ナイフの柄を正確に、蹴り上げたのだ。

 さらに、ついでとばかりに、ファレルの後頭部に、サマーソルトめいて放たれたつま先が吸い込まれ、ファレルは前のめりに大きく飛ばされて、倒れる。

 周囲の観客から、悲鳴とも歓声とも付かぬ声が聞こえる。


「ぐふっ……」


 すぐに、立ち上がろうとするファレルだったが、脳を思いっきり揺らされたせいで脳震盪を起こし、ふらついて膝を付く。

 着地した女は、余裕の笑みを浮かべるが、無理にナイフを防いだせいか、弾丸が掠めたらしく、黒いマントには、じんわりと赤い血が滲んでいた。


「意識を切ったつもりはなかったんだけどねえ。やるじゃないかい、セレナ」

「……ねえさんは遊びが過ぎる」

「まったく……蹴られた……おれの、身にも、なれよ……」

「そうそう、また命拾いしたねえ、アンタ。さすがに時間がなくてねえ」


 そう言った女は、軽く足を振った。すると、女の履いている靴の爪先から、刃渡り10センチほどのナイフが現れる。

 あれで蹴りを食らっていたら、ファレルの命はなかっただろう。しかし、あんなものを頭に突き刺せば、その反動で、女の動きも阻害されるに違いない。回避を優先して、元から使う気がなかったのだろう。

 まあ、どちらにせよ、大きなダメージを負ったのは事実である。状況の悪さは大して変わらない。


「ぐっ……どこが、だよ……」

「……寝てて、邪魔」

「くくっ、じゃあ、まずは、セレナから血祭りに上げてやろうかねえ」

「……それは──」


 セレナが素早く踏み込み、ナイフを叩きつける。


「こっちのセリフ」


 瞬時に4本の白刃が閃光のごとく、軌跡を残し、交わる。

 数合の後、2人は、互いに飛び退くと、再度構えを取った。


「いいねえ。アタイを楽しませておくれ! セレナ!」


 先ほど剣を交わした際に付いたのであろう切り傷から垂れた血を、妖艶に舐め取り、女は、魅惑的に笑んだ。

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