第58話・器の気持ち

 太陽センセーが渾身の力で丸太をかち割ってから、ちょうど一年が過ぎていた。オレは再び太陽センセーの前にいた。信じられないほどいい顔で、センセーは微笑んでいた。完全にやりきって、満ち足りた人生だったのだ。

ー笑ってる・・・ー

 こんな死に顔は見たことがない、と、しみじみ感じ入った。センセーの生涯は、きっと楽しさにあふれていたにちがいない。まるでいたずらに成功した子供のような、そんな無邪気な笑顔だ。

 オレは訓練校を卒業すると、東京にもどって工房を構えた。念願だった陶芸教室を開いたのだ。膨大な準備と手続きに走りまわり、開業してからも、生徒さん集め、レクチャー、自分の作品づくり、窯焚きなど、工房運営に忙殺された。そのために、遠く離れた地方の山ふところに住むセンセーに会いにいくこともままならなかった。それでも機を見ては、せっせと長い手紙を書いたり、おいしいものをお贈りしたりした。するとセンセーは必ず電話をよこしてくださった。

「干し柿、うまかったぞ」

「母の手づくりです」

「一日で食うたわい」

「20個も?」

「火炎にはいっこもやらんかった」

 からからから、と、いつもはしゃいだ声だった。

 話しだすと毎回、長電話になる。太陽センセーは耳が遠いので、オレは大きな声で話す。ほとんど叫ぶように。するといつも、周りにいる教室の生徒さんたちから怪訝な目で見られた。だけど気にしない。相手は大切なひとなのだ。センセーの愉快そうな話しっぷり、時おりまざる重い言葉、拍子抜けするオチ、そして品位あるエロ話は相変わらずだった。

 ところが半年もたつと、急に声に張りがなくなり、奇妙な弱音が漏れるようになった。どうしたことかと息子の火炎さんに事情を聞くと、口ごもりつつ打ち明けてくれた。

「すい臓にガンが見つかってさ、それ以来元気なくしちゃって・・・」

 だけどたまたま別の箇所の検査を受けたときに発見できたんでラッキーだったよ、だいじょうぶだいじょうぶ、だと思う・・・という火炎さんの声も、ひどく沈んで聞こえた。

 正月にやっとまとまった休みがとれたので、オレは矢も楯もたまらず挨拶に伺った。恐れ多くも元日の訪問だ。

 タクシーで庭先に乗りつけると、山を覆う竹林が枝先に雪をのっけて、しずくを落としていた。晴れた日だった。破れバケツの中で鬼板が凍っている。散らかった庭は相変わらずだ。久しぶりの若葉家の風景。ほんの一年前にすごした場所なのに、なぜか遠い少年時代の日のようになつかしい。

ーかわってないな・・・ー

 あたりまえだ。整頓されることもなければ、これ以上荒れ果てることもない。この場所が変わるはずがない。・・・ただ、いつも外で雑用をするふりをして出迎えてくれた太陽センセーの姿だけがなかった。

 母屋に通される。

「おー、よう来たの・・・」

 センセーはわざわざ病床から起き出してきてくださった。からだを火炎さんに支えられて、ヨロヨロとやっと歩ける状態だ。話をはじめても、その声は聞き取るにも難儀するほどにか細い。

「まあおせちでも食えや・・・」

 中央のテーブルには、デパ地下なんかで見る豪華すぎるおせち料理が並んでいる。奇妙にかしこまった雰囲気。窯焚きのときに雑魚寝する場所として使われ、酒ビンやビール缶が散乱していたこの居間も、きれいにかたづけられていた。なんだか居心地がわるい。

「なんでもお食べ。わしゃもう食えんで・・・」

 センセーの衰弱ぶりは著しいものだった。丸々と血色のよかった頬はげっそりとこけ、目も落ちくぼみ、痛々しいかぎりだ。火炎さんが小皿に取り分けてくれる伊勢エビやアワビなど、その蒼白な顔の前ではつつくのもはばかられる。あの頃、もりもりとようかんをほおばり、生き生きと笑みをこぼしていたセンセーは、今や薄く呼吸をするだけの植物のようになっていた。食事制限があると聞いて、お見舞いには食べ物でなくカーディガン形のセーターを持っていったのだが、苦痛でその袖に腕も通せないという有り様だ。

「あとで着てみるけん・・・ありがとうよ・・・」

 そんなひと言をしぼり出すにも苦労するサムライの姿に、胸がつまった。

 休みたい、とおっしゃるので、面会はすぐに打ち切られた。ベッドに横になると、ことりと寝ついてしまう。このわずか三日後に天に召されるはずのセンセーだが、愚かな弟子の顔を見るために無理をして起きてきてくださったのだ。感謝の気持ちでいっぱいになる。

 眠りに落ちたセンセーにそっと別れを告げ、庭に出た。

 ふと思いつき、雪を踏みしだいて窯場に向かった。愛おしいかぶと窯と再会したくなったのだ。白い息を吐いて山をのぼった。周辺には相変わらず、窯出しされたままの陶器が散らばっている。その中に、自分がつくったものを何点か見つけた。ここで修行した一年前につくり残しておいたものを、センセーと火炎さんが焼いてくれたらしい。今となっては笑ってしまうようなへっぽこな形に、ほろ苦いものをおぼえる。こんなド素人に、よく太陽センセーのような大人物がつきあってくださったものだ。自分はセンセーを何度がっかりさせたことだろう。あまりの下手さに、あまりのバカさ加減に、きっと呆れられていたにちがいない。

 ただ、ふと思い返す光景がある。

 筒形の唐津式の挽き方を教えてもらい、センセーに見つめられる前でろくろを回したときのことだ。何度も何度もくり返し筒を挽くオレの手元をにらみつけながら、センセーはなにも言葉をかけてはくださらなかったのだった。できあがったものに関しても、なんの批評も、感想も頂戴できなかった。ただ、あの日の夜、お茶室でふたりきりでお茶をいただいているとき、太陽センセーはぼそりと切りだした。

「毎夜欠かさずろくろを挽いておるのか?」

「はいっ!」

 即答する。センセーはオレの瞳に見入った。素直に発声された返答にウソはないと知ると、センセーは目尻に満足そうなしわを刻んでくださった。

「そうか・・・そうか・・・」

 オレはほめられも、けなされもしなかったが、あの笑みで十分だったんじゃないか、と今では思う。師はそのときすでに、弟子にゆく道を示唆してくださっていた。そうか、そうか、とセンセーは何度もつぶやき、しみじみと笑う。そしてそれきり押し黙る。沈思しつつ、ふたりでお茶をすすった。

 あのときみたいだ。今、棺の中に横たわる太陽センセーは、どこにも影が差していない完全な笑顔だ。

ー満足満足、おなかいっぱい。俺は休ませてもらうが、おまえは精進をおこたるでないぞ・・・ー

 そう言われているような気がした。

 花に満たされた棺は閉じられ、葬儀場の焼き窯におさまった。重い扉が閉まり、火が入れられる。

 あぶり・・・攻め焚き・・・還元炎・・・ねらし・・・

 太陽センセーは山吹色の炎に包まれて、天に昇っていった。陶芸家はそのとき、初めて器の気持ちを知ったかもしれない。

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