第25話・停滞

 一方、学校での授業は実に退屈なカリキュラム帯に突入していた。職業訓練校では建前上、自由な創作というものができない。学校側の目的は、職人の質を決定づける「機械的精密性をもった技能」の注入が第一なのだ。つまり図面通りの正確な仕事をこなせる人間を輩出するのが学校の役割なので、生徒には個性の徹底的な排除が求められる。オレたちが学校でつくるものは作品でなく、製品なのだ。だから授業には当然、まったく面白みのない作業もふくまれてくる。

 「動力ろくろ」とよばれる、自動的にそろいの器をつくってくれる機械の操作は、心底退屈だった。くるくる回る石膏製の外型に粘土玉をぽこんと放りこみ、内型を打ちこむ。すると数秒で、寸分の狂いもなく切っ立ち湯呑みができあがるのだ。ろくろ訓練で苦労に苦労を重ねてついに体得したあの切っ立ち湯呑みと同寸同形のもの、である。そのお手軽さには、驚異と嫉妬をおぼえた。逆に、侮蔑と嘲笑も禁じえなかったが。機械でつくられたものにはまったく表情がない。色気がない。人間味がない。つまりおもしろみがない。まさしくそれは「製品」だった。オレたちは動力ろくろを操りながら、それをつくってさえいない。つくらせているのだ、機械に。次から次へと石膏型から吐き出される製品のあまりの手応えのなさに虚脱しつつ、その魅力のなさに安堵しつつ、しかし逆にその体温のない画一性と制作スピードに恐怖もした。こんなものと自分の手仕事とをコストで比較されたら、太刀打ちできないからだ。

 また「鋳込み成型」というカリキュラムも体験した。石膏型にドロドロの泥を流しこみ、しばらく待つ。石膏はよく水を吸うので、泥は石膏に接した部分だけが先に乾き、固形化する。その厚みが3~5ミリほどになったところで、余分な泥をすてる。そして完全に乾いたら、石膏型からぽこっと抜く。するときれいな土の器ができあがっているというわけだ。実によく考えられた、画期的かつ効率的、かつバカバカしい成型方法なのだった。

 猛暑はつづく。プレハブづくりの作業場の薄屋根を、連日炎天が焼いた。煮え立つような湿気が部屋内によどみ、その重い空気を扇風機が心もとなくかきまぜる。オレたちはそんな天然サウナの中で、脳の機能を停止させ、手足を自動的に反復させた。成長のない毎日にあせり、いきどおり、それでもなんとかそんな授業に意味を見いだそうとした。しかし機械操作は、ひとの手のひら、わざ、きもち、が生み出す創作物のすばらしさを反面的に教えてくれるだけで、作業自体はいかなる刺激をも心に打ちこんでくれることはなかった。

 オレたちは昼休みの部活動にいそしんだ。猛烈な日差しの下、上半身はだかで、青々と芝のしげるグラウンドを走りまわった。その運動量は、ストレスの裏返しだ。成長のはかどらない現実に鬱屈した気持ちは、こうでもして吐き出すしかない。みんな高校球児のようにまっくろに焼け、白い歯をむき出しにして、汗を散らしながら大きなフライを追った。

 野球部には、訓練校の事務方の長である「カチョー」が加わり、メンバーは充実した。このえらい役職のおっちゃんは、軽快な内野守備とすばらしいバッティング技術でオレたちの度肝を抜いたが、なんといってもその人柄のよさが周囲をひき寄せた。ほがらかでお人好しで涙もろく、面倒見がいい彼は、いつもポケットマネーでニューボールを差し入れてくれた。たまに巨大なスイカなども振る舞ってくれて、そんなときはクラス総出で「種飛ばし大会」をした。オレはわざとマドンナ・なおこさんに向けて種を飛ばしたりしてひんしゅくを買い、その脇で常に待機する用心棒・トリーちゃんから報復をうけた。お気楽でたのしい日々でもあった。

 事務方でいちばんえらいのはカチョーだが、その上に校長がいた。しかし校内で最もえらいのは、掛け値なしに「弁当」だった。この学校では、お弁当さまだけは特別待遇をうける。作業場はもちろんのこと、学生課や教官室、校長室までがこの猛暑を扇風機でしのいでいるというのに、生徒が各自に持参する弁当があつめられた一室だけは、クーラーがキンキンにきいて冷えひえに保たれているのだ。保健所出身の校長の指示で、食品の衛生管理には奇妙に気が使われていた。

 神経質な食品管理体制の恩恵で、作業場にも真新しい冷蔵庫が買いあたえられた。そこでオレはさっそく「麦茶つくり部」を立ちあげ、毎朝せっせと水出し麦茶をみんなのために用意した。さらに自腹を切って、ひゃっキン(百円均一専門店)でカゴや布地などの備品をそろえ、作業場の一角に喫茶スペースをつくったりした。オレはこういうくだらない雑務が大好きなのだ。しかしこの楽屋仕事はだれにも評価されず、なのにつくり置いた麦茶だけはいつの間にか消費されつづけ、オレはひたすらお茶をチャージ&容器洗いに走りまわる係となった。「いったいだれがこのお茶をつくってるんだろう?」「自然に増えてくんじゃなかろーか?」という声を聞いたときは、腰が抜けそうになった。後発の「カスピ海ヨーグルト部」が、勝手に増えていくヨーグルトをみんなに振る舞ったりしていたので、無知なワカモノたちは「麦茶も自然に増殖・膨張していくのだ」と考えたのかもしれない。心が自由な芸術家たちを相手に立ちまわるのは、むずかしいものだ。

 グラウンド、卓球台、スポーツ用具・・・校内の設備をフル活用し、休み時間は充実したものとなった。しかし日々つづく意味のない訓練内容に、虚無感は増すばかりだ。将来必要としないこの場かぎりの体裁仕事に、身など入れようがない。夏休みを前に、クラスは完全な停滞におちいった。

 ところが、それは学校内だけのことだった。水面下(課外)で、ひとつの企てが着々とすすめられていたのだ。それは「夏休みに日数を盛大に費やして、越前でマキ窯を焚こう」という計画だった。

 越前は、六古窯(中世に稼働していた窯業地の代表格六地。瀬戸、常滑、備前、信楽、丹波、と越前)のひとつに数えられる焼き物の産地で、焼き締めたツボやカメが有名だ。その越前で、陶芸を生業とするある人物が、寝ぐら、窯、マキなど込みの一切タダで、我々学生に焼成合宿の機会を提供してくれるという。それは裏をいぶかしみたくなるような、なんとも奇特かつ不可思議、かつ唐突に浮上した話だった。

 だがこんなおいしい話にノらない手はない。オレはよろこび勇んで飛びついた。ついに自分の作品をマキ窯で焼くことができるのだ。アパートでの作品づくりにも精がみなぎり、魂がこもるというものではないか。

 意味の見いだせない時間を垂れ流しに浪費する学校からもどると、オレは自室で濃密な時間をたのしんだ。せまい部屋には、手回しろくろとよばれる小さな回転台がひとつあるきりだ。それに粘土を据え、結構な腕前となったヒモ積みの技法で思う存分に創作する。ツボ、片口、ビアジョッキ、急須、抹茶碗、徳利・・・思いつくままにつくった。図面通りでなくていいのだ。完成しても割かなくていいのだ。自分の責任において、つくりたいものをつくる。そんなクリエイターの根源をしばらく忘れていた。次から次へとつくりたいものが浮かんでくる。それはなにものにも代えがたい至福の時間だった。

 テレビもゲームも音楽もない空間は、オレを創作に集中させた。モチベーションのピーク状態が数週間、病的につづいた。抑圧が意欲を爆発させる。これもまた、自分にとって意味をもたない学校の授業の空しさの揺りもどしであり、魂をこめようのない機械やお手軽技法による大量生産の、反面的な効果なのかもしれなかった。

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