第14話・道

 低くたれこめた雲が頭上をおおい、うっとおしい梅雨の時期がやってきた。朝、しとしと雨をチャリで突っ切って学校に向かうとき、いつも遠く田園の小道をゆくふたつの影があった。暗く沈んだ景色の底に咲いた二本のカラフルな傘は、駅から学校までの長い距離をのんびりと移動する。クラスのマドンナ・なおこさんと、用心棒役のトリーちゃんはとてもなかよしだ。彼女たちの小さな影は、華やいだ声といっしょに周囲にまばゆい光彩をちらして、陰鬱な風景を一掃してくれる。オレはうっとりとそれをながめて、よくチャリごとあぜ道に転げそうになった。

 学校ではあいかわらず基礎訓練がつづいていた。自分をほどいては編みなおしていく地道な作業だったが、やりたいことをやっているという充実感があった。無我夢中で土をこねる手をふと休め、窓ガラスをのぞくと、そこに映った自分の生き生きとした顔色にハッとしたりした。ここにはいる前の悶々とした生活が、遠いむかしのことのように思える。

 春先までのオレは、血液がどんよりとよどんで腐りそうなほどに停滞していたのだ。自分の力で動くこともできなかった。「なんとかしなきゃ」という思いはあっても、意思は神経のどこかで遮断されてしまい、足が前に出せない。かるくノイローゼだったのかもしれない。マンガの仕事は性に合わず、年齢がすすめば瑞々しさもあせてイラストの仕事も減っていく。なのに本人は自信満々でいるのだからタチが悪い。

ー時代よ、早くオレに追いついてくれ・・・ー

 なかば本気でそんなことを祈ってしまうお気楽っぷりだ。こういうバカは、一度死ななきゃなおらないのだ。

 そんなドへこみな時期をすごすオレの、唯一の救いが陶芸だった。変幻自在な土とのたわむれは、頭を空っぽにしてくれる。みすぼらしい自分をそんな純粋な時間の中で洗ってみると、心身がかろうじて健全でいられることが確認できた。なにより楽しく、のめりこめた。

 自分には、二次元よりも三次元の造形のほうがあっていたのだろうと思う。二次元の表現は、一カ所からの視点で相手にすべてを感知させる必要がある。マンガなどはその最たる例だ。マンガは、ページをめくったその一瞬時で、読者に「登場人物の置かれた状況」「感情」「反応」「動きの方向」「距離」「スピード」などなど、すべての情報を受信させなければならない。その上で「セリフ」を読ませ、物語を進行させていく。読者は一コマを1秒で駆け抜ける高精度受像機なのだ。そんなテキを相手にするには、一コマ数cm四方というわずかなスペースに効果的に記号をちりばめ、読み解かせる技術がいる。しかも過去に描かれた世界観を凌駕する作品世界を提供できなければ、すぐにそっぽを向かれる。読者はじつに目が肥えているのだ。そんな彼らをおもしろがらせるのは、深刻な苦難だった。「もっとしぼり出せ」「もっと描きこめ」「情報量を増やせ」「同時にムダをそげ」・・・そんな闘いが、毎週デスク上でおこなわれる。そうして生み出されるのは紙の上の「画」ではなく、紙の奥にある「世界」なのだが、やがてそこに商売に絡んでくると、創作は「サービス」へと変質していく。煩雑なうえに、編集部からの干渉もあり、非常に窮屈な仕事でもあるのだった。

 身をけずって鶏ガラのようになったオレには、もっと実体のある手作業が必要だった。その点、陶芸はうってつけだった。おおらかな気持ちで土に接すると、自分の感性に栄養がゆきわたっていく手応えがあった。マンガ世界の構築は思考の凝縮といえるが、土を相手にした手仕事は、逆に思考にひろがりを与えてくれた。開放があった。危うくなっていく精神を土遊びがすくってくれたのだと、今では思う。そうしてときどき毒素を中和しつつ、オレはなんとか生き延びることができていた。

 デスク上の平面世界への情熱は失われる一方だった。それと反比例して、能登半島で種がまかれて以来あたためつづけてきた陶芸への想いは、土をこねるほどにいよいよ深まっていく。オレはある頃からついに、突拍子もない考えにとらわれてしまった。ただし、芽生えはするが果たせるわけがない、とも思っていた。夢を描いたり消したり、逡巡して毎日をすごした。打ち消すほうに理性は動いていたが、心はむしろその思いつきを成長させるので、そこが悩ましいところだった。空想の芽はのび、幹となって枝葉をつけ、具体的な実までむすびそうになっていた。

 そうして小さな陶芸教室で土をいじりながら夢見ているうちに、とうとう頭の中に響くささやき声にかどわかされたのだった。

ーゆくべきは陶芸の道しかないー

 それは唐突にして最終的な裁決となった。いや、唐突に見えたのは周囲からだけだろう。自分としては能登での一件以来、人生の半分近くをこの企画の立体化に費やしてきたのだ。そのときがきた、と、ただそれだけのことだった。

 結論をだしてしまうと人間不思議なもので、次第に今まで自分が進んだり、立ち止まったり、間違ったり、道草をくったり、右往左往してさまよい歩いてきた未舗装路が、すべて意味をもって「陶芸」という一本の道に帰結しているように思えてならなくなった。美大の彫刻科で学んだ立体造形の素養、素材の重要性の理解、美術教師時代につちかった理論の組み立てと知識の展開法、マンガやイラストの制作現場で身につけた細かい手作業と感性、物書き仕事でおぼえた創造性や表現力、さらにはジャッキー・チェンにあこがれて毎日つづけてきた指立てふせ、カツオブシけずりの正確な反復(実家ではダシ係のよしたか少年だった)、川辺にいくたびに流木を集めて火をつけたがる焚き火癖、そしてツメの噛みすぎによる深爪や、女子を悦ばせるためにみがいたデリケートな指テク・・・にいたるまで、なにもかもが焼き物をつくるための準備段階であったと思えてきたのだ。かるいノイローゼが、当初とは別の方向に向かったのかもしれない。しかし内向きになった自分の中でその考え方は、ひどく説得力のあるものになっていった。

 ある物の本で「陶芸職業訓練校」のことを知ると、ここで人生が変えられるはず、という想いにたちまちのめりこんだ。これは自分がいかねばならぬ道である、と確信した。そして試験による3倍の競争率を勝ちのこり、ついにオレはゆくべき扉をこじ開けた。思えばおろかな決断かもしれない。マンガを描いてさえいれば、そこそこ食べていけるのだ。陶芸など覚えたところで、一度失敗すればどうにもツブシがきかない(マンガだって同じようなものだが・・・)。それでも、どうしてもそこを目指さずにはいられない自分がいた。その扉の向こうにあるのがクッションなのか泥水なのかはわからないが、とにかくオレは飛びこんだのだった。

 ゆくゆくは作陶家として独立したい。しかしとりあえずは、このだれからも愛されるキャラクターとすばらしい機智(←自信家)を資本にして、陶芸教室を開くところからはじめたかった。キュートな未婚女性や美しい人妻たち、それに少々の男どもが行列をなす、町で人気の教室となるにちがいない。そのためには一年間の猛勉強で、ひとに教えられるだけのものを身につけなければならない。卓越した技術の体得、化学や歴史など専門的な知識の吸収はもちろん、いろんな表現の引き出しも必要となる。この魅力的な人間性にもさらに磨きをかけなければ。「先生」になるということは、ずばぬけて優れた存在になるということなのだから。その存在に説得力をもたせるためにも、この一年間は陶芸のことだけを考えてすごそう、と心に決めた。将来の自由のために、今ある時間を拘束するのだ。

 こうして遊びを捨て、人間関係を捨て、テレビもラジオもオーディオもゲームもマンガも無い禁欲的な六畳一間で、半人前陶芸家の修行ははじまったのであった」・・・とまあ、こんな書き方をすると切実で悲壮に聞こえるけど、陶芸自体が楽しいどろんこ遊びのようなものだから、ちっとも苦にはならないのだった。

 オレは自分が「意欲」というもの自体に飢えていたのだと知った。やるべきことさえ見つければ走りつづけることができ、走りつづけているかぎりは幸福でいることができる、という人間本来の生き方を思い出した気分だった。

 入校して以来、どこにも寄り道のしようがないところに自分を追いつめると、実際に四六時中、陶芸のことを考えるようになった。空白が発生すれば陶芸が殺到する、という、少々おぼれ気味の状態だ。ただ、楽しくて夢中だったことも確かだけど、一方、自分の将来への恐怖に突き動かされていたことも事実だ。「今年ダメだったらアウト」「失敗すればこれからの人生まっくら」という厳然たるものが背後に張りついて、つねに尻をつつきまわした。意欲は、必死さの裏返しでもあった。

 午前中は講義室で学科の知識を叩きこみ、午後は粘土を使った実技の訓練に打ちこんだ。放課後は陶芸技法の講座や講演会にかけこみ、また美術館、資料館、ギャラリーをまわって見聞をひろめた。週末は登り窯づくりだ。そしてアパートの自室にたどり着くと、自分で買いこんだ土を練り、手びねりで作品(「製品」とは別なのだ)をつくる。自炊の食事をとりながら教本で学科の復習をし、湯舟につかりつつ陶芸関連本を読みあさる。眠っては夢の中で土人形に追いまわされ、早起きしては前夜に成形した作品の底ケズリに追い立てられ、それが終わると始業時間に追われてチャリに飛び乗り、田園に咲くマドンナの傘をうっとりとながめた後、「午前の学科」のコマにもどる・・・そんなゴールのない双六の周回をつづけた。

 恐怖に背中を押されて走りつづける男。なのにそれを楽しむ男。かるいノイローゼは治っていなかったのかもしれない。ただ以前とちがって、オレは満たされていた。

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