3・入部

 オレが拉致されたのは「楽苦美部」という奇妙な看板を掲げたせまい一室だった。コンクリート打ちっぱなしの壁で四面を囲んだ、吹きっさらしの小屋だ。

 部屋の中には物干しロープが四方に巡らしてあり、顔をそむけたくなるような異臭を放つ靴下や、青かびをはびこらせたシャツなどが掛かっていた。野積みにされたスパイクから立ちのぼる悪臭もすごい。部屋内の空気は色味がかって見えるようなよどみ方で、それは鼻を突くというよりも、脳にくるタイプの濃密さをもって体内に殺到してきた。

 オレを囲んで立ちはだかっていた男たちは、さっきまでの渋面を、一転してやみくもな笑顔に変貌させていた。

「いやー、部員が足んなくてさ、もう今年はどうしようかっつー話だったのよ、だっはっは」

 厚い胸筋に短い首をめり込ませた男が陽気に笑った。新入生誘拐の首謀者であるこのオサは、コバヤシと名乗った。前歯のない乱杭歯をむき出しにして笑うと、意外に可愛らしい。

「ま、これからは仲間だ。よろしくたのまー」

「な・・・な、仲間って・・・」

「よろしくな」「ありがとう」「助かったよ」「がんばろうな」・・・

 周囲の男たちが次々に握手してくる。そんなつもりはないのだが。とっとと既成事実をつくってしまおうという戦略にちがいない。口車に乗ってはならない。しかし、この野人たちのキラキラした瞳を見ていると、なんだか妙に心を開きたくなってしまう。

 この手の話は耳にしていなかったわけではない。体育会に捕らえられたが最後、二度と足抜けできないのだという。夢や友情をベースとした洗脳教育によって絡めとられ、取引された肉体は労働力として酷使される。全うすべき本分たる学業もそこそこに、ブカツにすべてをささげることになるはずだ。恐ろしい・・・

 ところが、盗賊の親分・コバヤシの話を聞いているうちに、オレは本当にまじないにかかってしまった。彼は瞳に意志を満たし、言葉に愛を詰めこみ、身振りに情熱をほとばしらせた。そのラグビーへの一途な想いは、オレの胸深くに突き刺さり、体細胞に浸透し、かたくなな心をほどき、現世をあきらめるようにささやき、そして彼岸へ踏み込むように焚きつける。オレは術に脳を侵され、考えはじめてしまった。仲間や勝利といった曖昧な価値のために、自分の時間を割いてみるのもいいかも・・・と。 

 コバヤシの熱演が終わると、周囲のザコ部員までが呪文にかかったように恍惚とした面持ちになっていた。彼らの中には、うっすらと涙を浮かべる者さえいた。その雰囲気が伝染し、オレもうっかりと心打たれてしまった。

「じゃ、さっそく」

 コバヤシは、物干し竿から最も汚れた一品を選り抜き、そろそろ観念しそうな新入生に手渡した。それに着替えよ、ということらしい。

「えっ?・・・こ・・・これを・・・?」

「さあ」

 有無も言わさず突きつけてくる。オレはしかたなく受け取り、そっとにおいをかぐ。

「ぐあっ・・・!」

 いったんは決めかけた覚悟が揺らぐ。渡されたジャージーは土をこびりつかせてパリパリにかたまり、イカみりんのせんべいみたいになっている。短パンはビリビリに破れていて、尻が半分見えそうだ。ソックスに至っては、ねっとりじっとりと湿って、微生物培養の温床とするにぴったしの小宇宙と化している。

「あの・・・やっぱりやめま・・・」

 やめられるわけがない。逃げ場を失ったオレは羽交い締めにされ、身ぐるみはがされた。しかたなくそのゴワゴワシャツに細い首を通し、表面の皮革をズタズタに踏み刻まれたスパイクを履いた。

 ところが上から下までをすっかり戦闘服に着替えると、不思議とキモがすわった。もう、なるようになれだ。

「ヨーシ、いくぞ!」

 コバヤシのかけ声があがり、オレたちは、オウッ、と応じた。コントロールの埒外の気合いがみなぎり、ハイになっていた。もういいや、やってやろう、という開き直りだ。

 部室を出ぎわに、あらためて看板を見直した。

「楽苦美部・・・」

 ラグビー部、を洒落たつもりらしい。実に、頭の悪さをあからさまにしたアテ字ではないか。オレはしかし不意に、そこにある種のいとおしさをおぼえた。これからは仲間と「苦楽」をともにし、「美」しく闘うのだ。

 大勢の仲間たちの背中を見つめた。今までに見たこともなかった、人類の原始的なたくましさ。そこに頼もしさを感じると同時に、つくづく自分がみすぼらしく見えてくる。彼らの肩の梁は鉄骨のように渡り、筋肉は巨樹の幹のように割れ、バネのような脚は野生動物のように生き生きと運動した。目の前のその肉体から放出されるエネルギーを思うだけで、目がチカチカする。この肉体とぶつかってもまれるうちに、自分もそんなハガネの生物になれるのだろうか?この連中の仲間に。仲間、仲間、ナーカーマー。

 仲間たちは、力強く部室を飛び出していった。オレもその後につづく。

ー負けるもんか。グラウンドでは全力でやつらと渡り合ってやるー

 グラウンドには、シロツメクサのおぼろなラインが引かれていた。なんと幻想的な風景だろう。オレはこれから、この場所で放課後を過ごすことになるのだ。スパイクの爪が軟らかい土肌を噛む感触が心地よかった。

 ところが、わが仲間たちはそのグラウンドをまっすぐに素通りしていった。さらにアスファルトの構内路へと飛び出していく。なおも隊伍を組んだまま、大学キャンパスを流す。

ーまさか・・・ー

 わずか半時前の記憶がよみがえった。そして連中の企てに気づいた。

ーまた獲物をさらいにいこうというのでは・・・?ー

 気づけばその陣形は、さっき自分が飲みこまれたあのフォーメーションそのままではないか。しかもこの悪辣な企てには、被害者であるオレ自身も荷担することになっている。なんてことだ。

 コバヤシは、無意志にキャンパスをさまよい歩く新入生を見つけると、いきなり咆哮しながら襲いかかった。

「ふぁいとー、ぜっ」

「おう」

「ぜっ」

「おう」

 いつの間にか、オレも声を出している。誘拐されたのち、洗脳されて強盗団に加わったハーストの娘の苦悩が理解できた。

 その後一週間もの間、ラグビー部員の膨大なエネルギーは、ひたすらニンゲン狩りに費やされた。オレもまたラグビーボールに触れることもなく、キャンパス内に独り歩きの新入生を発見しては捕縛するという作業に没頭した。

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