竜歴11年
第6話 初めての生徒/Apprentice Wizard
「おかえり、なさい。せんせい」
私が森の入口に降り立つと、アイは喜色を顔いっぱいに滲ませて駆け寄ってきた。
「ただいま。駄目じゃないか、森の中にいないと」
「あんたを出迎えるって聞かないのよ。一応ギリギリ森の中だから大丈夫」
アイの後ろからニナが姿を表し、呆れたように溜息をつく。
この世界は危険な動物でいっぱいだ。
鎧熊ほどの猛獣はそうそうはいないとはいえ、森の中にも草原にもアイくらいなら一呑みにしてしまえそうな獣がたくさんいる。
森の中ならニナの力で危険を避けることができるけど、こんなに森と草原の境に近い場所だと心配になってしまう。しまうのだが――
「だめ、でしたか……? せんせい」
「いや、駄目じゃないよ。出迎えてくれてありがとう」
アイのしゅんとしょげた表情を見ると、ついつい強くは言えずに許してしまう。
すると、アイはにぱっと笑顔を浮かべて、私の鼻先に抱きついた。
「『オヤバカ』っていうんだっけ、こういうの?」
ニナが鼻を鳴らして、からかうように言う。
一度ぽろりと漏らしただけなのに、よく覚えてるもんだ。
彼女が喋っているのも、アイに教え込んだのも、エルフ語ではなく日本語だ。
言葉を持たないアイに言語を教える時、どちらにするか少し悩んだ。
日本語にする場合は、ニナにも覚えて貰わなければならないからだ。
だがそのデメリットをおしてなお、私は日本語を教える事にした。
エルフ語と日本語では、語彙の数が段違いだからだ。
エルフ語は素朴で、日本語に比べると表現の幅がものすごく狭い。
例えば「言葉」を意味する言葉がない。他の言語を知らないからだ。
「魔法」も「学校」も、それどころか「エルフ」や「人間」すらない。
こんな状態では学校どころではない。
今まではエルフ語にない言葉は日本語で代用してきたが、それならいっそ日本語自体を学んで貰った方が手っ取り早いという事に私は気づいた。幸い文法自体は日本語とエルフ語はかなり近かったので、単語さえ覚えてもらえばなんとかなる。
私が所謂『翻訳機世代』より前に生まれた人間で、若い頃には外国語を習っていたのも良かった。
そんなわけで二人に日本語を教え込み、多少片言ながらも最近ようやく日常会話には困らないようになってきた。私がエルフ語を覚えた時のように数日でとはいかなかったが、教え始めて数ヶ月。二人とも驚異的な学習スピードだ。
「ニナさん。せんせいは、ばかじゃないです」
頬を膨らませて怒ってみせるアイ。
あの恐怖に震えていた少女が、わずか数ヶ月でよくここまで懐いてくれたものだと思う。
「いや結構アレよ、コイツ」
一方、ニナは相変わらずだ。
これはこれで懐いてくれているような気もするが。
「アレって、どういういみですか」
「はいはい、喧嘩しない。昼飯にしよう」
いいながら、私は前足に抱えた魚籠を軽く持ち上げた。
意外と器用な竜の前足だが、流石に魚籠を編めるほどではない。
これはニナが作ってくれたものだった。
「じゃあ、家に戻るよ」
私は二人の背中を押して、我が家へと向かわせる。
そう。森の梢を屋根にして暮らしていた時代は既に終わった。
私達には粗末ながらも、家が出来たのだ。
森の入口からほど近く。まばらな木々に囲まれるようにして、それはあった。
木で組まれた、簡素だが丈夫な家だ。私が入っても壊れてしまうことはない。
まあ竜の成長というのは母を見ている限り際限なく続くようだからいずれは入れなくなるだろうが、少なくとも馬より一回り大きいくらいの今の私であれば、動くのに不自由しない程度の大きさだ。
しかもそれだけではない。
木製とはいえ家具もあり、土器のたぐいも幾つか作ってみた。
ニナは手慣れた様子で素焼きの壺やらを取り出し、アイも皿をテーブルの上に並べていく。
なんと文化的な光景であろうか。
鹿を丸焼きにして露天で食べていた頃からは考えられない進歩だ。
「はい、焼いて」
「ああ」
枝に突き刺された魚に、軽く炎を吹きかける。最初の頃は何度も炭の塊を作ったり、折角作った家を燃やしてしまいそうになったが、もう手慣れたものだ。
魚はあっという間にじゅわっと焼き上がり、香ばしい匂いが家の中に漂う。
そこに、ニナが壺から取り出した塩をふりかけた。海水を汲んできて、炎で蒸発させることにより作り出した海塩だ。
「じゃあ」
「では」
「はい」
頂きます、と声が三つ揃う。
指先で串を摘み上げて舌先に乗せ、こそぎ取るようにして一尾丸ごと口の中に入れる。噛みしめれば程よく乗った脂がじゅわりと滲み、そこに塩が絡んで何とも言いがたい旨味が口内一杯に広がった。
「旨いっ!」
「ちょっと気をつけてよ!」
「おっと、失礼」
思わず漏れた炎の欠片に、ニナが怒鳴る。
炎の制御はほぼ出来るようになったのだが、感情が昂ぶったりすると漏れることがある。
「ニナが塩をかけてくれた魚は、火が出るほど旨いってことだな」
「適当なこと言って、もう」
ぷくりと頬を膨らませるニナ。
そんな私達のやり取りを見て、アイはクスクスと笑った。
「ところでアイ、魔法の調子はどうだい?」
食事を終え、デザートにニナが取ってきてくれた果物を口に入れながら尋ねる。
リンゴに似た丸い果実を皮も剥かずにしゃくりと頬張れば、甘酸っぱい蜜が口いっぱいに溢れ出た。見た目はリンゴのようだが食感はむしろミカンに近い。
私はこれを、水琳檎と呼んでいる。
「ごめんなさい……まだ、できない、です」
「いや、気に病むことはないよ」
しゅんとしょげてしまうアイを、慌ててフォローする。
そもそも私だって、火を吹く事とちょっと浮く事以外は全然できていない。
生活自体は順風満帆ではあったが、魔法の研究の方は全く進んでいなかった。
「っていうか火を吹くのも空を飛ぶのも、あんたしか出来ないんじゃないの」
ニナの指摘に、私はうっと言葉に詰まる。
確かに、その可能性も考えないではなかった。
だとすればアイには色々試してもらっているが、全くの徒労ということになる。
「だいじょうぶです、がんばります」
しかしアイは健気にそういった。
有り難い一方で、すこしばかり心苦しさもある。
だがしかし、私がこの世界の人間に出来ることは、魔法を伝えることしかないのだ。
私の生きていた時代の科学は高度に分業化されていて、その全貌を知っているものはほとんどいない。ましてや、材料もインフラもないところから再現できる人間など一人もいないだろう。
木を組んで小屋を作るくらいなら何とかなっても、私には鉄を溶かす炉の作り方もわからなければ、石油の精製方法も、電子回路の設計方法も、量子コンピュータの作り方もわからない。
だが、魔法なら。
魔法のことなら、世界の誰よりもわかっているつもりだ。
二十世紀のSF作家の言葉に、「高度に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない」という物がある。
これが真であるとすれば、魔法もまた高度な科学技術と見分けがつかないはずだ。
事実として、竜の巨体をふわりと浮かせる魔法は近年開発されたばかりの反重力技術と区別できない。
魔法でなら、私でも文明を発達させることが出来るはずなのだ。
「こっちの方がまだ出来るんじゃないの。アイは私と見た目も似てるしさ」
ニナの掲げた指に、窓から入り込んできた蔦がするりと巻き付く。
「どうだろうなあ……植物操作よりは、火を出す方が楽な気がするけど」
それに、ニナは魔法を使う感覚をほとんど説明できないというのも問題だ。
「ショクブツってなに?」
しかし二人は別のところで引っ掛かったようで、揃って首を傾げた。
「木とか、草とか、花のことだよ」
そう答えると、二人はますます首を捻る。
「どう言うこと? なんで別のものを同じ名前で呼ぶの?」
そんなニナの問いに、私の方が面食らった。
そうか。総称と言う概念が、まだないのか。
「そうすると、便利だからだよ。同じ性質を持つものや、似たもの全部に名前をつけると。例えば、私やニナやアイみたいに自分で考えて動けるのは生き物だ。鹿や魚も生き物。石や水は、生き物じゃない。物質だ」
ふむふむ、とニナは頷く。
アイの方は真剣な顔つきで、なんとか私の話を咀嚼しようとしているようだ。
「じゃあ、私が動かせるのは植物じゃないよ。『冬の葉を落とした木』や『切り落とされた枝』は動かせないもの」
ニナが並べ立てたのは、エルフ語での木の名前だった。
エルフ語には植物に関する言い回しが無数にあって、それぞれ細かなニュアンスの違いを持つ。
日本語に雨の名前が沢山あるようなものだ。
「そうか。じゃあ、動かせるのは生きた木だけなんだな」
「いきた? きも、いきてる、ですか?」
「あったりまえじゃない」
アイの素朴な問いにニナが鼻を鳴らし、私は頷く。
「木も……植物も、生き物の一種なんだよ。冬の葉を落とした木は死んでるわけじゃなくて……寝てるようなものか」
「いきもの……しょくぶつ」
私の言葉をしっかりと噛みしめるように、アイは言葉を繰り返す。
「しかしそうなると、地面に生えたりしてる草も動かせなかったりするのかい?」
「そりゃあそうよ。あれ、骨がないじゃない」
ミズリンゴを齧りながら、当たり前のようにニナ。
骨……まあ、言わんとすることは何となくわかるが。
「木にも骨は無いと思うんだけどなあ」
「じゃあ、あの燃やしたら残るのは何?」
「炭だよ、それは」
「あの、せんせい」
そんな、益体もない話をしている時の事だった。
「これ……で、いいんでしょうか」
アイの手の平の中で、樹の枝の葉っぱがぴょこぴょこと動いていたのは。
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