第3話 邂逅/Chance Encounter

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」


 少女は荒く呼吸をしながら、森の中を必死に走っていた。

 まばらに立ち並ぶ木々を縫うようにして蛇行し、まるで門のように弧を描いて大きく張った巨木の根の下を潜り抜ける。

 その次の瞬間、巨木が揺れて幹に大きくひびが入った。かと思えば、巨木は粉々に弾け飛んで、赤黒い色合いの獣が姿を現した。


 その獣は、一見すると熊に似ているが、その体躯は五メートルを軽く超えていた。丸太のように太い腕の先についた爪はまるで剣のように鋭く長く、毛の代わりに全身を覆う鱗はまるで鎧のようだった。

 必死というのは文字通りの話だ。足を止めれば、食われて死ぬ。あの太い腕で薙ぎ払われれば、華奢な少女の身体は簡単に二つに千切れ飛ぶだろう。


 少女が走りながらも振り向いて手を振ると、木々がざわめき枝葉を伸ばして鎧熊の行く手を遮った。

 少女は明らかに木々を操り、木々は骨も筋肉もないのにひとりでに動いている。


 それはまさしく、魔法という他ない現象だった。


 己を遥かに超える巨躯を持つ鎧熊から少女が何とか逃げおおせているのは、この魔法のおかげだ。しかしそれも、鎧熊が軽く前足を振るうだけで粉砕されてしまう。時間稼ぎ以上の意味は無かった。


 徐々に少女の足は動きを鈍らせ始め、それと反比例するかのように鎧熊が木々を破壊する時間は短くなっていく。

 早晩、彼女が鎧熊に捕まってしまうのは確実なことと思われた。


 ……仕方ない。


 私は翼を広げ、覚悟を決めてはためかせた。あっという間に豆粒のように小さかった少女の姿は眼前に迫り、バキバキと木の枝を折りながら私はそこへと降り立った。


「ひっ」


 少女は息を呑んで立ち止まり、へなへなとその場に崩れ落ちる。まあ、後ろから鎧熊に追われていたかと思えば、前からドラゴンだ。そうなってしまうのもわからなくはない。


 しかし当の竜と鎧熊には、もはや少女は眼中になかった。


 ……思っていたより、ずっと大きい。

 相手がほぼ二足歩行で、こちらが四足歩行であるというのを差し引いても、初めて間近で見る鎧熊は大きかった。体高で言えば私の二倍半以上はある。


 出てくるんじゃなかった。

 私は今更になって、少し……いや、正直に言おう。

 心の底から、後悔していた。


 元々、争い事は苦手なたちだ。前世では喧嘩の一つもしたことはなかった。

 その初陣がこれほど強大な森の主とは、いくら今の身体が竜とは言ってもあんまりだ。


 だが、と私は傍らに座り込む少女を一瞥する。この世界で人間を見るのは初めてだから正確なところは分からないが、前世の基準で言えば十ニ、三歳だろうか。こんなに幼い少女を……そして何より貴重な魔法の使い手を、見殺しにするわけにはいかない。


「早く逃げるんだ」


 私は鎧熊を見据えたままそう言ってみたが、言葉が通じてないのか、それとも動けないのか、少女はぴくりともしない。それどころか、私の声を威嚇とでも見たのか、鎧熊の方が襲いかかってきた。


 違う、お前じゃない。


 そんな事をいう暇もなく、鎧熊は恐ろしいほどの俊敏さで間合いを詰めると、その鋭い爪を私に向けて振りかぶった。


 突然の事に、避けることもできない。それどころか、思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。

 首もとを狙って振るわれたその一撃に、鈍い音を立ててへし折れる。


 私の首がではない。鎧熊の、爪がだ。


 その場にいた誰もが呆然と、鎧熊の爪を見つめていた。私が何かしたわけではない。ただ単純に、その爪が鎧熊の膂力と私の鱗の硬さに耐えられなかったのだ。


 最初に忘我の堺から我に返ったのは、やはり鎧熊であった。


 両腕で私の肩を抱くように、がっしりと掴む。熊に限らず殆どの野生生物で、最も力が強い筋肉は顎のものだと聞いたことがある。爪による斬撃が効かないと見るや、すぐさま最強の攻撃方法に切り替えてきたのだ。


「わっ!」


 迷いなく最善手を打ってくる森の王者に対して私が出来たのは、情けなくもただ叫び声を上げることだけだった。


 だというのに、鎧熊はギャンと鳴いて慌てたように私から離れる。その胸の辺りが焼け焦げて、白い煙をたなびかせていた。いったい何が起こったのだろう、と一瞬混乱したが、すぐに理解する。私の息が、かかったのだ。


 前世で見た創作では、竜の吐息ドラゴン・ブレスといえばドラゴンの必殺技といったイメージだったが、私が転生したこの身体に限って言えばそれは正しい認識ではない。


 技でも何でもない。呼吸そのものが、高熱の炎なのである。人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すのと同じ感覚で、私も母も炎を吐き出す。普通に呼吸をしているだけで口元から炎が漏れる。ドラゴンとはそういう生き物のようだった。


 しかし、あの巨大な鎧熊が悲鳴を上げて飛び上がるほどとは、私の体内にある炎は思っていたより遥かに高温らしい。


 息をするだけでダメージを与えられるのなら、私でも何とかなりそうだ。一歩踏み出して間合いを詰めると、鎧熊も四足になって突進の構えを見せた。王者の意地か、痛手を負っても退く気はないらしい。


 まるで弾丸のように突っ込んでくる鎧熊に、私は口先をすぼめて鋭く息を吐いた。こうすれば細く長い炎を吐き出せる事は、ずっと前に確認していた。竜に転生してすぐの頃は、色々と炎で遊んだものだったのだ。


 だが。


 まさか、ここまでの威力があるものだということは、初めて知った。生き物に向けて吐いたことなどなかったのだ。上半身が真っ黒に焼け焦げ、頭など骨すら残さず吹き飛んだ鎧熊の香ばしい匂いを嗅ぎながら、私は自身が引き起こしてしまった結果に震え上がった。


 視線を横に向ければ、金髪の少女も鎧熊の死体を見つめてガタガタと震えている。次は自分の番だとでも思っているのだろうか。真っ青に染まったその表情を見ていたら、こちらはかえって冷静になってきた。


 私の視線に気づいた少女がこちらへと目を向け、自然、私達は見つめ合う。


『た……助けてくれたの……?』


 不意に、少女が口を開いて何事か私に言った。何かを尋ねるような声色だったが、やはり聞いたことのない言葉で何を言っているのかはわからない。


「怖くないよ、大丈夫だ」


 ゆっくりとした口調で言いながら、顔を地面に伏せる。人の体なら武器を下ろせば敵意がないことを表現できるだろうが、残念ながら今の私は全身兵器みたいなものだ。せめて牙と炎が見えないように、顎を地面に押し付けた。


『助けてくれた、みたいね』


 さっきと似てるが少し違う言葉を口にしながら、そろそろと少女は私に近づいてきた。そこでようやく、彼女が私の知る人間とは少し違うことに気がついた。


 腰ほどまである金の髪の間から覗く耳の先が、ピンと尖っている。

 まだあどけなさを多分に残した顔立ちは、ちょっと信じられないほど整っていた。


 北欧系の人種を思わせる白い肌に青い瞳、高い鼻に花びらのように可憐な唇。すらりとしたスレンダーな体型に、細く長い手足は幼いながらトップモデルのような出で立ちだ。一連の逃走劇で多少薄汚れてはいたが、そんなものでは覆い隠せないほどの美しさが溢れている。

 前世の創作でよく出てきた、エルフという種族を思わせる外見だった。


 私はあえて彼女の言葉には答えずに、相手の行動を待つ。


『暖かい……』


 私の鼻先にそっと手のひらを当てて、ぽつりと彼女はなにか呟いた。


「アッタカイ?」


 彼女の言葉を真似て、口にする。


『うん、そう。あんたとっても、暖かい』


 にっこりと、彼女は笑う。

 それが彼女――ニナとの初めての出会いだった。

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