月に咲くプリムローズ

音無哀歌

エリシオン編

月下のアムネジア

Prologue

 自分はいままでなにをしていたのだろうか。

 気がつけば人気ひとけのない交差点の中央で、月明かりを浴びるかのように満月を見上げていた。

 どうして交差点にいる?

 思い出せない。

 ここがなんて名前の街なのか、それすらもわからない。

 それどころか自分の名前すらも……

 これはいわゆる記憶喪失というやつだ。

 自分が人間であることや、ここが日本のどこかであることはわかるが、自分に関する

情報は一切思い出せない。

 街は高さ二十メートルほどのビルが建ち並んでおり、大都会とまではいかないものの、ある程度発展している街にみえる。にもかかわらず人通りはゼロだ。

 信号機や電光掲示板は動いているのに人が住んでいる気配は全くない。

 おかげさまで自分が記憶を失っていることよりも、街の一種異様な雰囲気の方に不安を覚えていた。

 そのうちホラー映画の世界にでも迷い込んでしまったような感覚に陥り、

「これはいつ化け物が出てきてもおかしくはないな」

 なんて冗談混じりにそんなことまで呟く。そのときだった。

 いままで物音一つなかった街に少女の悲鳴が響き渡る。

 突然の出来事に思わず小動物のような動きで辺りをキョロキョロと見回す。

 沼だ。

 黒い沼がある。

 少し離れた道路上にある直径十メートルくらいの陥没穴の中に、蠢くように真っ黒な物質が波打つ。

 石油やタールにも似ているが穴の中の黒い物質はそれらと比べても光沢がなく、地球上のどの物質よりも黒く淀んでいた。

 さらに目を凝らして見えてきたのは沼の中で必死にもがく小学生くらいの少女。

 その少女は別に沼に足を取られて溺れているわけではない。

 沼から生える無数の触手によって沼の中に引きずり込まれていたのだ。

 触手に全身を縛られた少女は途中までは悲鳴を上げていたが、そのうち口元すらも塞がれて無抵抗のまま体が丸呑みにされていく。

 それを見ていた自分は……

 どうすることもできない。

 そのおぞましい光景にただ戦慄するしかない。

 すぐにでも目の前の化け物からできるだけ遠い場所に逃げないといけない。そんな恐怖が心の底から込み上げていた。

 少女が沼の中に消えてから間もなくして、黒い沼は数本の触手を使って付近に倒れていた別の人間、高校生くらいの少女を襲い始める。

 見たところその少女は気を失っており、このままでは為す術なく触手に捕まり、沼に喰われてしまうだろう。

 そう、誰も助けに入らなければそうなる……

 でも自分には助けに行く勇気なんてない。

 どうせ助けに向かったところで死者が一人増えるだけ……

 と、心の中で言い訳をして、一歩、また一歩と後ろに下がっていく。

 そんな自分に嫌悪すら覚えたが、いまはどの感情よりも恐怖という感情が勝っていた。

 目を逸らし、見て見ぬふりをし、その場から走って逃げだそうとした……

 そのときだ。

──助けて──

 少女の泣き叫ぶような声が聞こえてきた。

 咄嗟に逸らしていた目線を少女に戻す。が、少女は依然として気を失っている。その少女が叫んだように聞こえてきたのだが、少女はピクリとも動く気配がない。

 幻聴だったのだろうか。

 記憶を失っている以上、脳になんらかのダメージがあったとみるのが自然。それなら幻聴の一つや二つ聞こえてきてもおかしくはない。

 とにかく俺は自分の身の心配を第一に考え……

 次の瞬間、少女のほうへ走りだす。

 先ほどまで逃げることだけ、自分のことだけに集中していたはずなのに、無意識のうちに体が動いていた。

 なぜ体がそんな反応を示したのか自分でもわからない。

 ただ彼女を救うことがなによりも重要なことであると、脳から全身へと指令が行き届く。

 そして少女のもとに駆けつけたとき、少女はすでに触手によって体の自由を奪われていた。

 すぐさま救出しようと彼女の腕を掴み、触手から引き離そうと引っ張るが、それを拒むように黒い沼から新たな触手が次々と生え、それらは少女を引っ張るとともに自分にも絡みついてきた。

 触手はロープのように硬く、抵抗できないほどの強い力で手足を締めつける。

 そしてクレーンにでも持ち上げられたみたいに体が軽々と浮き、全く歯が立たないまま沼の中へと放り込まれてしまった。

 黒い沼は氷のように冷たく、体力が見る見るうちに奪われていく。

 もうだめだ、もう死んだ。

 そう諦めていたときにまたもあの声が聞こえてきた。

──助けて──

 いまにも泣きだしそうな……いや、すでに泣いているのかもしれない。そんな声で訴えかけてくる。

 少女はいまだに気を失ったままだが、自分にはその声の主が目の前の少女であるとなぜかわかっていた。

 まるでなにかに駆り立てられるように、少女を縛っている何本もの触手を力づくで引き剥がす。そして残った力を振り絞り、沼からできるだけ遠い場所に少女を放り投げる。

 彼女は宙を舞い、硬いアスファルトにお尻を打ちつけて悲痛な声を上げながら目を覚ました。

 もしこれで目を覚ましていなかったら、少女は再び沼に襲われていただろう。だが幸運なことに意識を取り戻した少女は沼の存在にいち早く気づく。

 どうかそのまま遠くに逃げ、生き延びてくれ。

 でないと自分が犠牲になった意味がない。

 最後に少女の無事を祈りながら俺の体は沼の底へと沈んでいった。

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