7

 翌朝、電話のベルで目が覚めた。阿部だった。

 「やっぱり、ここにいたのか。自宅に何度かけてもつながらないんだ。こっちにいるんだから、たまには実家に帰ったほうがいいんじゃないのか?」時計を見ると、まだ8時前だ。多くの動物たちは残り少なくなった夏を惜しむようにその活発な活動に入っているが、どうやら僕はその動物たちの中には含まれていないようだ。

 「海へいかないか?ほら、もう夏も終わりじゃないか。夏への別れに、水平線を見に行こう。どうせ、何も予定はないんだろう?」予定が無いのはそのとおりだったが、彼女がどこにいったのか、わからなくて少し不安にも思った。しかし初めてのことではないし、置き手紙を置いて出かけた。


  海を、見てきます。


 僕たちの住む町に、海は無い。だから、海へ行く、というのは僕らの感覚でいうと、ちょっとしたことだ。高速をかなり急がせても3時間はかかる。阿部は父親の所有するトヨタ・カローラの回転数をかなり上げながら走行したが、それでも3時間と少しかかった。新潟の海についたころには太陽は西にその進路を変えようとしていた。ついたのは、高校生のとき、夏になると決まって電車を乗り継いでやってきた、懐かしい浜辺だった。海の家のうちのいくつかは営業をやめていたが、僕たちが決まって足を運んでいた浜茶屋は、元気にアップビートの曲を流し続けていた。

 一瞬、おかしな気持ちに襲われた。なにかを見落としている。それがなんなのかは、わからない、しかし、よく考えればわかることだった。僕は、何かを見落としている。それは、ほんの些細なことだ。今は、些細なこと。しかし、取り返しのつかない問題に発展するかもしれない。ちょうど、蝶の羽ばたきが空気の流れに変化を起こし、竜巻にまで発展するように。奇妙な感じがしばらく続いていたが、阿部に声をかけられて服を脱ぎ、海に足がつかる頃にはほとんど忘れてしまっていた。

 同じようなことを考えてか、海水浴客は多かった。いたるところにビーチパラソルがあり、人々は熱心にクリームを塗り、そして熱心に昼寝をしていた。海に入って泳いでいるものもいたが、どちらかといえば浜で寝そべっている人のほうが多いだろうか。

 阿部も僕も、泳ぎは得意だ。幼い頃からスイミング・スクールに通っていたし、選手として選ばれたこともある。海で泳ぐことにはさすがに慣れてはいないが、それでも水は水だ、ただ少しばかり塩辛くて、浮力が違うだけだ。僕たちはテトラポッドまで懸命に泳ぎ、上に昇って寝そべった。やや西に傾きだした太陽はしかし確実に我々を捉え、惜しみない光を注いだ。太陽の光は、いつも平等だ。裕福であろうが貧乏であろうが変わることなく僕らを照らしつづける。いや、そんなことをいうと極に近い国は怒るかもしれない。しかしここは極ではない。暑すぎず、寒すぎない国に生まれた利益を、しっかりと享受すればいいのだ。

 僕はそこで気持ちよくなって、しばらく寝てしまった。阿部は長時間の運転で疲れていたはずだが、水面スレスレまで降りて水と戯れていた。彼の体力にはやはり勝てない。僕は、というと、昨日思い立って西洋哲学史をソクラテスからずっと読んでいたため、あまり寝ていなかったうえに、道中は阿部を気遣って寝られなかったせいで、ひどく眠かったのだ。そんなわけで、目が覚めてすぐ隣に女の子が座っているのを見て少なからずびっくりした。

 「ねぇ、海、荒れそうに見えない?」まだ意識がおぼろげな僕は彼女がそういっているのをなんとか聞き取れたが、それが僕に対してなのか、それとも他の誰かに対してなのか、またはただの独り言なのか、区別できなかった。

 「たぶん、この防波堤は、乗り越えちゃうと思う。」彼女は10代後半か20代前半くらいで、海から上がったとは思えないくらいまっすぐな、乾いた髪をしていた。しかも水着ではなく、水色のワンピースを簡単に着ている、というような身なりをしていた。おそらく、水着でこの防波堤まで来て、それからワンピースを着たんだろう。いや、そうであるならば、どうやってワンピースをここまで運んだのだろう。それに、それほど長い髪を濡らさずにくることはなかなか難しい。僕は少しばかりあれこれと考えをめぐらせてみたが、あきらめて再び目を閉じようとした。いずれにせよ、彼女は僕の横にこうして腰掛けているのだ。どうやってたどり着いたかなんて、それほど重要ではない。

 夕暮れが近づいていたが、まだ暖かい。僕はうとうとと2度目の眠りへ落ちようとしたが、彼女はそれをさえぎった。

 「ねぇ、聞こえてるでしょ?海が荒れるの。こんな防波堤、すぐに水の中になっちゃうのよ?あなた、テトラポットに叩きつけられたいの?」

 びっくりして僕は起き上がった。やはり彼女は僕に話しかけていたのだ。

 「ねぇ、君は誰…」起き上がりざまにそう言おうとしたときには彼女は僕の腕を取って立ち上がり、僕の腕を抱えたまま海へと飛び込んだ。とっさのことだったし、いささか強引だったので、僕は水中メガネをつける暇さえなかったし、夏とはいえ、もう夕暮れに近く、海の水は少なからず冷たくなっている。しかし彼女の手の温度は高く、そこに触れている僕の腕はなんだか僕のものじゃないみたいに暖かく感じられた。しばらくすると彼女は僕の腕を離し、そして手招きをしながら僕の前を泳ぎだした。ゴーグルをつけていなかったのでどちらが浜なのかよくわからなかったが、とにかく僕は彼女についていくことにした。彼女は水色のワンピースを着たまま海に入ったので、僕はいちいち水面から顔を出して彼女の姿を確認しないといけなかった。泳ぐときは青や水色の着物なんて着るべきではないのだ。

 うっすらと浜のようなものが見え出したとき、後ろからかすかなざわめきがした。いまだ聞いたことの無い種類の音だ。遠くから飛行機がやってくる音に似ているかもしれない。しかしあんなに高い音ではない、もっと鈍くて、低い音だ。大きなかえるが遠くで鳴いているような、そんな音。僕たちはなんとか浜へたどり着き、彼女は再び僕の腕を取った。

 「あなたのお友達は、ちょっと込み入った事情ができて、一緒にいることが出来なくなってしまったの。泊まるところもないんでしょう?こっちに来て。」まだ鈍い音は続いていた。さっきよりも少しばかり大きくなったような気がする。しかしそれが現実の音なのか、耳鳴りのようなものなのか、区別がつかない。僕には聞こえているが、彼女の耳に届いているかはわからない。結局のところ、我々が世界を認識する手段は自分でしかないのだ。いくら言語が発達しても、どれほどコミュニケーションをとったとしても、それは変わらない。自分という不完全な体を抱えて、まるで目にハンカチを当てて歩くように、赤い、不透明なサングラスをかけているように、一歩一歩、周りを確かめながら進んでいくしかない。そうして、我々の不完全な認識の世界が出来上がっていくのだ。

 彼女に腕をとられて少し速いペースで歩いていると、彼女の長い黒髪が何度か僕の顔をかすめる。そのたびに、僕は、なんだかなつかしい匂いに襲われた。日の暮れかかった商店街を歩いていると遠くからやってきた少し年上の女性が置いていくような香り。圧倒的に無害で、しかし僕の心のどこかに確実に居場所を見つけていく香り。そしてまた、僕はここについたときに感じた、奇妙な感覚に襲われた。何かを見落としているような、もう二度と戻ってこない何かを失いかけているような、感覚。僕は手を伸ばしてみるが、それは僕の手の少しだけ先で、僕を待っているようにじっと僕を見つめている。しかし、僕は、それを捕まえることが出来ない。なぜだかはわからないけれど、それははっきりしている。 僕はそれを捕まえることが出来ない。理由も原因もなく、しかしそれだけははっきりしているのだ。

 彼女が僕を連れて行った先は、海にほど近い民宿だった。そしてそこには、高校時代によく通った浜茶屋のおかみさんがいた。

 「ずいぶんひさしぶりじゃない。背丈は変わっていないけれど、なにかこう、大人になったような気がするね。」おかみさんは海らしく水色のエプロンをして、髪をうしろでかんたんに結んでいた。おぼろげではあるけれど、4年前とほとんど変わらない格好だ。そして、おぼろげではあるけれど、4年前とほとんど変わらない笑顔で、僕を迎えた。

 「あなたのお友達がうちの店に来て、ちょっと用事が出来て帰らなくちゃならなくなった、って。それであんたを頼むように言われたのよ。一緒に帰らないの?って聞いたんだけど、あの、阿部くん?だっけ?なんでも、あなたはここにいたほうがいいから、って。あなたたち、仲でも悪いの?」

 そんなことはない。しかし、僕にはわかる。阿部は、なんというか、人が(少なくとも、僕が)何を考えているか、何を求めているのか、わかるところがあるのだ。昔からそうだった。無理をすれば実家から通うことだってできた僕に、大学の近くに住むことを勧めたのも阿部で、結果的に僕は今の彼女と出会う(正確にいえば、再開する、ということになるが)ことになり、そして休みになると帰ってくる町に、前とは異なった愛着さえ感じ始めている。しかし最近は、町に帰っても実家にはもどることがなくなってきた。もっぱら、彼女の家に泊まりこんでいる。いつからだろう。もしかすると気づかないうちに僕の中で小さな何かが変わり始め、そして大きな波となっているのかもしれない。やれやれ、なんだって彼は、僕がわからないことまでわかってしまうのだ。僕という人格の主体性はどこへいってしまったのだろうか。

 「ところで、海は大丈夫だったの?大きな波が来るって言ったけど」シャワーから出て、着替えを終えて戻ってきた彼女に尋ねてみた。彼女は今度はうすい黄緑色のスウェットに着替えていた。

 「波は、もう過ぎたわ。かなり大きかったけど、ここまでは届かなかったみたい。でも、もう駄目ね、この浜辺も。あんなに大きな波が来たあとだっていうのに、みんななんとも思っていないんだもの。」彼女は濡れた髪をタオルで拭きながら、僕のほうを見ずにそういった。あの、懐かしい香りが再び僕を包んだ。

 「この娘にしか見えない波が、あるのよ。」おかみさんは笑って言って、奥のほうへ消えていった。

 彼女のことは、うっすらとしか記憶に無い。多分、会っていても、1回、2回。おそらくそのくらいにしかならないだろう。おかみさんの経営する浜茶屋に、手伝いに来ていた、当時はまだ中学生か、高校生、の女の子。こんな顔立ちだっただろうか。わからなくても、無理は無い。女の子が一番変わる時代を超えて、僕の前に現れているのだから。

 「その波によって、なにかが変わってしまったり、するの?」僕は彼女のいう“波”にいささか興味を覚えて、そう聞いてみた。彼女は不思議そうに僕の顔を見つめた。いや、そうではない。なんというか、そのとき彼女は、僕と彼女の間にある空気の塊を、まずは半分に分け、そしてそれをまた半分に分け、また…と永遠に分割でもしそうな、まじめな顔つきで僕をそっと見つめていた。そしてふっと軽く微笑み、空気の塊の分割に満足すると、おやすみなさい、といって自分の部屋に消えてしまった。やはり、僕はなにかを見落としている。それも、とても重要な何かだ。それがないと、僕のなかの何かが確実に失われてしまいかねないほどの何かを、僕は見落としている。しかしそれがなんなのか、見当もついていない。今、僕が感じるキーフレーズは、音楽、浜茶屋で流れていた、アップビートの音楽と、そして、波、だ。それは大きなうねりとなって、僕の中でいつまでも渦巻いていた。

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