第090話 流れ星
流れ星が落ちてきた。だから祈った。一つだけ。
朝、目覚まし時計の電子音が響いている。半分寝ぼけたままで、差し込んだ光に眼を細めながら目覚ましを探し、電子音を止めた。少しの間、といっても数秒間程度だけれど再び目をつむり、起きることを決心してもう一度眼を開けた。時計に目をやり、あまり余裕がないことを確認すると、手早く着替え、リビングへ降りた。いつもは父と母、そして弟が食卓に座って食事を囲んでいるが、今日はいない。もう先に済ませて、父は会社に行ってしまったのかもしれない。弟も、この時間では遅刻しそうなことが分かっているのだから、声くらいかけてくれれば良いのに、と思う。冷蔵庫を開けてみようかと思ったが、朝食を食べている時間はない。おはよう、と、誰もいない食卓に向かってつぶやくと、学校の支度をしに、再び自分の部屋へ戻った。
雲一つない青空だった。いつもの、じめじめした熱気に包まれた空気はどこかへ行ってしまって、からりと爽やかな風が穏やかに吹いていた。通りに植えられている街路樹が風にそよぐ以外には何も聞こえなくて、いつもは道路から溢れそうなほどいた、通りをせわしなく走る車も不思議とみかけなかった。足早に歩いていると、声をかけられた。
「きみ、ちょっと」振り返ると、黒いスーツに身を包み、帽子を目深にかぶった人物がそこに立っていた。
「きみだろう、昨日、願い事をしたのは」その人物は妙なことを訊ねてきた。願い事……昨日、窓から夜空を見ていた。泣き出したいようなみじめな夜だった。あのときは、涙をこらえていた。夜空に流れ星が光った。だから……だからその時の自分の思いを、その星にぶつけたような気がする。
「そうそう、その星のことだよ」心の中を読んでいるかのように、会話が引き継がれた。
「せっかくだから、叶えてあげようと思ってね。なに、君が消し去りたいと思っていた人間たちは、ちゃんと皆殺しにしておいたよ」少しの間、何を言っているのか分からなかった。。
「もちろん、君の家族たちも残らずね。だから安心するといい。もうこの星には君一人さ」どういうことだ?願い?殺した?
「そうさ、君が願っただろう」
「願ってない」否定する。昨日の願い。覚えている、いやまさか。
「いや、確かに君が願ったよ。君に害を成す人間を殺すことを。それを見て見ぬふりをする人間を殺すことを。この世界の人間を残らず殺すことを。」
「そんなこと、願ってない」震える声で反論した。
「いいや、確かに君が願ったよ」非難するような口調ではなく、淡々と事実を告げるようなその言葉になにか言わなければと口を開こうとしたが、どうしても、何も言い返すことができなかった。
「まぁ、サービスだと思ってくれていい。私も人の願いを叶えるのは久しぶりだからね。役に立ててうれしいよ」そう言うと、その人物は踊るような足取りで通りを曲がっていった。急いで追いかけたけれど、先ほどの人物はもう、煙のように消えてしまって見つからなかった。辺りを見回すと、通勤や通学の時間帯のはずなのに、人っ子一人いなかった。車一台さえ走っていないことの異常さにいまさら気づき、その激しい違和感が背筋を這い回った。街路樹たちは、風に揺れている。誰もいなかった。学校にも、商店にも、どこにも。誰も。
何かから逃げるようにして、急いで家に帰ってきた。弟の部屋も、父の部屋も、母の部屋も見たがいない。隣の家も、その隣の家も、その隣も隣も、呼び鈴をいくら鳴らせど気配はない。ドアや窓を力任せに叩いても返事はない。それからもう一度、家に戻った。震えるほどに寒かった。暖房を入れて布団にくるまったけれど、寒気は収まらなかった。
数日間、人間を探した。誰もいなかった。どこにもいなかった。この星で、本当のたった一人になってしまった。それを理解した。やがて、夜が来た。布団にくるまり、震えながら、夜空を見ていた。流れ星が落ちてきた。だから願った。神様、どうかわたしを殺してください。
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