第080話 手首
自分自身が、本当に人間なのか確かめたくて、ある日、私は手首を切り裂いた。
刃物を肌に当て、すっと引くと、一瞬だけ、燃えるような感触がした。傷口から流れ出た血は緑色で、信じられないというよりはむしろ、ああやっぱり、と思う気持ちが強くて、どこか他人事のような気がして、しばらくそれを見ていた。ぼんやりとした違和感は、今やはっきりとした色彩を持って現実として突き付けられたことになる。今までの生活、今までの人間関係、今まで自分が感じていたこと、見たこと、聞いたことすべてが嘘っぱちだった。それらすべてこそが偽物だった。緑色の血。私は悪い夢から覚めて、また夢の中へ迷い込んでしまったような気がした。私は、自分がだれかということが明らかになった瞬間に、ますます自分がわからなくなっていった。
手首からどくどくと流れ出る血は止まる気配がなかった。腕から滴り落ち、床を満たした。その鮮やかな色とは裏腹に、私が希薄な印象しか受けていないのを咎めるように、血は止まるどころか、ますます勢いを増していくようだった。ほとんど噴水さながらの勢いで傷口から血は噴き出し、あっという間に膝下まで血に浸かってしまった。災害から逃げ出してゆく鼠の群れのように、ドアの隙間から外へ外へと血が流れ出ていた。
呼び鈴が鳴った。私はすでに腰の上まで血の海に沈み、家具のいくらかがその中に浮かんでいた。扉をたたく音がする。誰かが声を張り上げている。遠くで叫んでいるように現実感のない声だった。扉をたたき、声をあげ、再び扉をたたき始めた。大丈夫、私はここにいる。そう言って、誰かを安心させてやりたかった。
ただ、ドアの向こうにいるのは、私を糾弾しにきた人間たちなのか、それとも私を助けに来た、緑色の血をした者たちなのか私にはわからなくて、どうにも扉を開けかねていた。
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