第078話 蛸
友人のKから電話がかかってきた。なんでも、頼みがあるらしい。私とKは、とりたてて仲が良かったというわけではないが、かといってお互い険悪だったというわけでもなく、いうなれば、道でばったりと会ったならば、一呼吸を置いて名前を思い出して、久しぶり、と名前を無事に思い出せたことに安堵した苦笑い交じりに挨拶ができる、という程度の間柄だった。Kからの頼みごとに、私にできることなら、まあ、と曖昧に返事を返し、Kの家へと向かった。
鍵は開いていると伝えられていたので扉を開けて部屋へ入っていくと、Kの姿は見えない。Kを呼ぶと、奥の部屋からKがはい出てきた。体を奇妙にくねらせ、蛇のような、蛸のような動きで床を這いずり回った。Kの頭や前身は水で濡れていて、先ほどまでKがいたのは浴室か洗面所のようだった。こちらを見上げ、やあ、よくきたね、とKは言った。Kは私に椅子を勧めた。Kは這いつくばったまま腕を器用に伸ばして椅子をつかむと、ナメクジが壁をつたうようにして、ゆっくりと椅子へのぼった。私はテーブルをはさんで向かいの椅子に座った。Kはテーブルから首だけ出して、不安定そうに首を揺らしていた。
「助かるよ、断られると思ったから」とKは言った。
「いや、よくわからないけど、まだ引き受けたわけじゃないよ」と私は答えた。
「助かるよ」とKは続けた。「いや、なにもそんな大層なことじゃないよ、海に連れて行ってほしいんだ」Kは自分の依頼を明らかにした。海、なるほど確かに頼み事としては別に大したことじゃない……。
「海まで頼むよ。なにせ、車も運転できなくなってしまったんだ」Kは真剣な様子で言った。
「それは、きみがさっきからグニャグニャしてるのと関係があるのかい」私は尋ねた。
「そう、まさにそのせいなんだ。もっとも、事故や不幸な出来事でなくて、これは自分が望んだことなんだけれど」Kは相変わらずテーブルの向こうでゆらゆらと動きながら語り始めた。
Kは海洋生物の研究をしており、その中でも、軟体の生物、例えばタコやイカのような生き物を中心に調べており、軟体生物の遺伝子に働きかけ、体組織を海洋生活に適応させ、関節や骨格を除去する作用を持ったものを突き止めた。そして研究の進展により、その遺伝物質を活性化させることに成功したのだった。動物実験を経て、それを自分に適用したらしい……。
「別にいいよ、海」私はKに言った。
「ありがとう」Kは嬉しそうだった。私は車にKを乗せ、海へと向かった。海辺は、まだ海水浴などの季節ではないため人影はなく、車の窓を開けると、エンジン音にのって波の音が聞こえるのだった。Kがドアを開き、車から這い出た。海亀の赤ん坊がよたよたと歩いていくような危うさで、Kは砂浜を進んだ。私はKに寄り添って歩き、Kと話をした。Kはこれから、海の中で暮らすらしい。体の適応はもう終わって、あとは海に入るだけらしい。住んでいた場所はきれいに片付いていた。Kは自分が人間でいることにもう耐えられなかったこと、海の中こそが、自分の生きる場所であること、頼みを聞いてもらえてうれしかったことを語った。
「ありがとう、本当に」私たちはもう波打ち際に来ていた。気にすることはない、と私は言った。
「これはお礼だよ、要らないかもしれないけど」Kはそう言って、粉末の入った白い小瓶を手渡した。
「これは軟体動物になるための薬だよ。これさえあれば、もう骨格なんてものに縛られなくてもいいんだ」そう言うとKは海の中に入っていった。
「それじゃあ、本当に、ありがとう」ときおり、波に押し返されながら、Kは海へと進んでいき、やがて見えなくなった。私は車に戻って、しばらくの間、エンジンを切ったまま波の音を聞いていた。ポケットから、先ほどKから受け取った小瓶を取り出して眺めた。たぶん、私がこの薬を飲むことはないかもしれない。私のような人間を、何も言わず、海まで運んでくれる友人が必要だろうから。
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