043 黄昏の教室で㈠





 翌朝早く、いつも通りに登校した亜衣を呼び止めたのは、陽子だった。

「今日の放課後って空いてる?」

「空いてるけど、なんで?」

「勉強して帰ろうよ」

 昨日以来ずっと変わっていない暗い顔のまま、陽子はそう提案した。

──ああ、そっか。ヨーコって確かこの前のテスト、物理以外の全教科でけたんだっけ。昨日、色々騒いでたなぁ。

 納得した亜衣は頷く。もちろん、亜衣だって陽子のことを馬鹿にできた立場ではない。赤点とは言わないまでも、悲惨としか言えないような点数ばかりだったからだ。

「じゃあ決まりね」

 陽子はなんだかホッとしたように表情を崩した。

「あたし、文系の科目は誰かに教わらないと厳しいからさ……。アイはけっこう得意分野にしてたでしょ?」

「……私は、理系教科が課題かな。お互い教え合いね」

「分かってるよ」

 ふふ、と二人は目を見交わし、含み笑いを吹き出した。

「聞いた? あたしたちがみんな大失敗してる中で、ナツミだけ春休みも勉強させられてたから点数高かったんだってよ?」

「私も聞いた。なんかあれ、ずるいよね」

「ロボットにかかりっきりだったあたしたちの気持ちも汲みなさいっての」

「そうだよ。大体そのロボットにしたって、自分から望んでたわけじゃなくてハルカが────」


 その瞬間、口にしてはいけない言葉を吐いてしまったような気がして、二人は黙り込んだ。

 悠香のことには、今は亜衣も陽子も触れたくなかった。喧嘩別れして以来、まだあの後味の悪い感触がちっとも消えないでいたから。

 天井から噴き出す空調の音が、普段以上に煩わしく感じた。


「……ハルカ、やっぱりまだやってるんじゃないかな」

 先に言ったのは陽子であった。

「昨日、ああいう言い方をしてた訳だしさ。前から頑固っていうか、これって決めたら絶対に譲らない性質たちの子だったし」

──確かに、そんな気がするなぁ。意地の張り方が、どことなく子供っぽいっていうか。

 ぼんやりと亜衣はそう思った。まだ続けているという結論に帰着したのは、亜衣も同じなのだ。

「そもそもそうだとしたら、どうして意地を張る必要があるんだろう。ロボット作りにそこまでこだわる理由って、なんだろう?」


 三方に取り付けられた窓から、朝の光が燦々と教室の床に降り注いでいる。

 眩しいのだろうか。顔をしかめながら、陽子はカーテンをさっと閉めた。

 そして閉め際に、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「……前にあたし、ハルカの話を聞いたことがあるんだ。ロボット作るって決まってから、しばらく経った後のことだったと思うんだけど。

ああ見えてハルカって、ぼうっとしながら考え事をしてることが多いらしいのよ。で、ずっと悩んでたって言ってた。自由を尊重してくれるこの学校に入学したっていうのに、まだそれを活かしたことを何もできてない。せっかくの機会を無駄にしてる気がする。そんな風にさ。

だから、ロボット作りに携わるっていうのは、そういう過去の怠惰な自分の打破でもあって、だからこそ頑張りたいってハルカは思ってるらしいんだ。本気マジでね。だから、よっぽどの理由がない限り、あの子はあの目標を手放さないんじゃないかなぁ」


 色んな悠香の表情が、台詞が、泡沫のように亜衣の脳内に浮かんでは消えた。

 最初の最初、何かやろうと決めた時の顔。初めてロボットが完成した時の顔。どれもこれもが鮮烈な印象を伴って、記憶に焼き付けられている。

──なんか、納得いかない。

 亜衣は声には出さずに、陽子の意見に物を申した。

──確かに、それなら続ける理由にはなるよ。だけどそれなら、そもそも一人でやればいい。それに意固地になる必要だってない。自分の信念を曲げないのなら、誰かに意地なんて張る理由がないんだ。だってそんなの、お互い気分悪いだけじゃん。あの穏健派のハルカが、意図して私たちを悩ませたりするとも思えないよ。


 きっとそこには、亜衣も陽子も気づいていない別の理由がある。

 その自覚だけは、はっきりと心中ここにあった。けれどそれが何なのか、亜衣にはさっぱりなのだった。その不可解さが、まだ信じたくないという気持ちの基礎をしっかりと支えている。

「大体さ、まだロボット製作を続けてるっていうのだって、所詮は無根拠な憶測でしかないんだよ?」

 亜衣の言葉に、陽子は小さく首肯した。

「まだそこまで決めつけて考えるっていうのは、さすがに気がはやりすぎなんじゃ────」




 その時だ。

「おはようー」

 間延びした声で言いながら、件の悠香が教室に入ってきた。

 咄嗟に亜衣と陽子は距離を開けた。訳は、知らない。

 その目が、悠香の容姿に吸い寄せられる。なんだろ、と亜衣は思った。底知れない違和感を感じるのである。

「おは…………!」

 挨拶を返そうとしたクラスメートたちの声が、軒並み裏返った。


 それもそのはずだろう。悠香の指には、包帯がぐるぐると頑丈に巻かれていたのだ。

「ハルカ、その指……」

 クラスメートに言われて、初めて見たように悠香は目を丸くし、そしててへっと笑った。

「あ、これねー。いやぁちょっと色々あって、火傷しちゃったんだ」

「火傷って、そんなに……?」

 首を大きく振って頷きながら、その真っ白になった手で悠香は椅子を引こうとする。途端、

「痛あっ⁉」

 すごい形相で飛び退いた。

「大丈夫?」

 悠香は横とも縦ともとれる向きに首を振る。どっちか分からない。

「てか、そんなに痛いの?」

「バカだねー」

 口々に言いながら悠香の周りに集まる野次馬たち。そりゃ、火傷した手で下手にモノを触れば痛いに決まってるでしょ。呆れて笑いすらも出てこなくて、二人は何も言わずにそこに佇んでいた。どこかに置いてけぼりでも食らっているみたいな、この気分はいったい何であろうか。




 その時までに、心のどこかでは亜衣も陽子も、分かっていたのかもしれない。


 ハンダ鏝を盗むような可能性のある生徒がいるとしたら、悠香しかいないと。

 そして、高温になるハンダ鏝のことだ。初心者が軽はずみに使ったら、火傷なんて十分に負いかねないと。







 授業も全て終わった、午後三時半。

 誰もいなくなった教室の窓際で、悠香は今日も紙袋の中身を机の上に出した。

 からんからんと軽い音がして、広げた新聞紙の上に部品や道具が散らばった。その中には、昨日借りていったハンダ鏝もちゃんと含まれている。

「……ここまで終えたんだよね、昨日」

 設計図を確認する左手が、ずきずきと痛い。包帯にくるまれた憐れなこの手を、今日一日で何回うっかり使ってしまった事だろう。いや、痛いのはあくまで悠香だからいいのだが。

 昨夜までの必死の努力の結果、電気配線は何とか済んだ。後は最終工程、全体の組み上げを残すのみだ。オレンジ色に照らし出された机の上、並んで置かれた悠香の力作の完成部品たちが、早くホンモノになりたいってわくわくしているみたいに、悠香には思えた。

「結局、電池は解決しないままだけど」

 重たい大型鉛シールド電池バッテリーにコネクターを押し込みながら、悠香は呟く。

「仕方ないよね。お金もないし、みんなもいないもん」


 ……ふとした瞬間に口をつく『みんな』とか『仲間』とかいう言葉が、今の悠香は嫌いだった。

 必要もなく暗い気持ちになるからだ。前は楽しかったな、なんて懐古趣味に浸ってしまうから。


──忘れよう。夢中になれば、少しは忘れられるよ。

 そう考えた悠香は、図面に目をちらりちらりと遣りながら少しずつ部品を合体させ始める。四つ隣り合わせになった机の上に、一抱えもありそうな大きなロボットができるまで、さほど時間はかからないはずだ。

 基礎となる木の板の下に駆動モーター、前部に『積み木』を掴む機構、後部に論理回路コンピューターと電池。

 たったそれだけのシンプルな構成ながら、必要な条件は全て満たしている。頑張れば悠香一人でだって大半を作れてしまうのは、立派な設計図があるから。動かせてしまうのは、プログラミングがしっかりしているから。現段階の悠香では、その設計図もプログラミングも決して自作などできない。

 みんなのお陰であることは、誰より今は悠香自身がよく分かっていた。


 だからこそ。


「……みんなで一緒に、完成の瞬間を迎えたかったな……」

 悠香はぽつり、そう言った。

 左手に負担をかけないように、慎重にゆっくりと。揺れるシルエットは切ないくらい長く遠く、静寂に包まれた教室の入り口にまで伸びていた。




 そのドアが、がらっと開いた。

「!」

 悠香は慌てた。まずい、クラスメートならともかく先生だったとしたら……!

 ささっ、と組み立て中のロボットの前に立ち塞がった悠香の瞳に、開いたドアから中にそっと踏み込んでくる麗の姿が映る。

 麗はこちらを見て、こくっと小さく首を垂れた。

「……なんだ、レイちゃんかぁ────っっ!」

 ホッとしたあまり、悠香は左手を後ろに突いてしまった。痛みのショックが膝を折り、がくがくっと座り込んでしまう。はっと麗が息を呑んだのが聞こえた。

「もう、やだ……」

 涙ぐみながらぼやいた悠香の前に、麗がそっとやって来た。

「立てる?」

 そう言って麗は、手を差し伸べた。今や悠香の全体重を支えている右手にではなく、左腕にだ。

 首を振ると、麗は左腕の手首を掴んで引き上げてくれた。包帯の巻かれた部分には一切触れようとしない。その配慮に、悠香は思わずじんとしてしまった。

「ありがとう、レイちゃん……」

 頭を下げた悠香に、麗は尋ねてくる。

「……この、火傷は」

「ああ、うん。大丈夫だよ」

「答えになってない」

「ううん。ほんとに大したことないの。ただ、──」


 悠香は一瞬言い淀んだが、思い直した。

 面と向かって見た麗の視線は、悠香を通り越して背後に置かれた未完成のロボットに注がれている。当然そこには、悠香が昨日懸命になって作った論理回路コンピューターがあったはずだ。麗は電子工作担当だったのだから、すぐに何が起きたのかを悟るであろう。だが、それを待っている理由もない。

「……間違えて、触れちゃったの」

 正直に白状した。

「昨日の夜、家で配線部分に取りかかったんだけどね。私、ハンダ鏝なんて使うの初めてで、レイちゃんがやったのを見よう見まねでやるしかなかったから、手加減とかよく分からなくって。ハンダの溶けるスピードが予想外に早くって焦っちゃって、何を思ったか本体を握っちゃったんだ」

 麗の頬に赤みが差した。痛みの想像ができるのだろうか。

 左手の掌が金属に挟まれたような、強い強いあの痛み。深夜の玉川家には救助してくれる人は誰もおらず、焼けるような激痛に必死に堪えながら悠香は一階に下りて手を冷やし、薬を塗り、包帯を巻いたのである。

「そっか……」

 そう言うと麗は、悠香の左手に手を伸ばした。反射的に痛みを予感して目を閉じた悠香だったが、麗はただ解けかかっていた包帯に少し力をかけ、よりきつくしてくれただけだった。

「……あり、がとう」

 どぎまぎしながら悠香は言った。麗がその時、握ったままの悠香の左手を自分の胸の前に持ってきて、祈りを込めるように組んだからだった。


「私が──」


 麗はしばらく黙っていた後、口を開いた。

 そして、反対に言葉を失った悠香を、正面から見上げた。


「──私がいなかったから、ハルカは無茶をしたの?」





 夕暮れの光に横から照らされた麗の目付きに。

 悠香はまるで、飲み込まれてしまいそうだった。





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