第02話 07

『続き……、ですか……』

『そうよ、ちさとさん』

『あっ』

 耳朶がお姉さまの柔肉やわにくふくまれます。外縁がいえんを舌でなぞられ、思わず声が洩れてしまいます。濡れそぼった椿お姉さまのそれは、驚くほど的確に、わたしの弱い部分を責められます。お姉さま、こぼした声がました。気道が、かわいています。はしたなく口を開いて呼吸を繰り返すうちに、すっかり湿り気が喪われてしまいます。

 時折わたしの名前が紡がれます。煮立てられ、ゼラチン状になった脳細胞は、耳もとでささやかれているはずなのに、それを巧く処理できません。今言われたのか、それとも反響しているだけなのか、判断できません。ですのでわたしは、返答を諦めます。夢うつつのさかいに身をまかせて、ただお姉さまの愛撫に専心するよう努めます。反射以外の反応は、わたしは抛棄することにいたします。

 そして結局、わたしがお姉さまから解放されたのは、相当な時間が経ってからでありました。

 焦点を喪い、ぼやけた視界に、人影が出現なさいます。それが椿お姉さまであることは、疑問の余地を持ちません。いくら正常ではなくとも、それくらいはわたしにも判ります。

 わたしは椿お姉さまに呼びかけようと試みます。ですが形をなしません。言葉ひとつ発せられません。精魂せいこん尽き果てた現状では、喘ぐような呼吸音を吐き出すのが関の山でした。

 そんなわたしに、温かな波動が降り注ぎます。お姉さまが、お微笑わらいになったのでしょう、まだ輪郭が滲んでおりましたが、わたしは確信いたします。いつもわたしが浴びている、お日さまの光のような、温かい笑顔。それを想起して、わたしも頬を緩めます。声が出せない代わりに、表情で応えます。

『やはり可愛いですわ、ちさとさんは』

 わたしの額にが当てられ、前髪が搔き上げられます。さえぎるものがなくなって、お姉さまの目にになってしまいます。髪を上げると、幼さが殊更に強調されてしまいます。それを知っているわたしは、(何しろほかならぬ、自分の顔なのです。)お姉さまのお瞳にどう映っているかを想像して、頬を赤らめます。さらに実際、椿お姉さまにそう言われてしまい、いよいよ火照りをきつくいたします。

『ねえ、ちさとさん』

 お姉さまはおっしゃいます、半睡から脱しきれていないわたしに。

『ちさとさんが、心身ともに円熟したいと望んでおられることは、わたくしも理解しておりますわ。そしてそれに反対するつもりもございませんわ。むしろ“姉”であるわたくしは、ちさとさんがそうなれるように、援助しなければなりません、この学園の、方針に従って。ですからわたくしは、ちさとさんが日日成長できますよう、労を惜しまぬつもりです。そのことは、ちさとさんにも、了承していただきたいの。

 ……ですが、お一つだけ、わたくしと約束していただきたいの。宜しくて、ちさとさん』

 微笑を保ちつつも、真摯な声音を用いるお姉さまに、わたしはただ頷くしかありません。

 その肯定の合図に、椿お姉さまは雰囲気を和らげます。そしてお顔をお寄せになり、ささやくような声量で、ですが凛乎りんことしたお言葉つきで、再びげんを紡がれます。

『ありがとう、ちさとさん。

 ……でしたらね、ちさとさん、……わたくしに、

 わたくしに、余計なお気づかいは、しないでいただきたいの。

 もちろん、おとしの上下は否定できないものとして存在しておりますから、ちさとさんがそれをご考慮に入れて、そしてそれに沿われた行動をおりになっても、わたくしもそれを拒むことはいたしませんわ。それはむしろ褒められるべき態度でございますから。

 ……ですが、ですがもし、もしちさとさんが、何か悲しまれたときや、困られたとき、また寂しくなられたときには、それを遠慮しないでいただきたいの。感情のに窮されたときには、わたくしを頼っていただきたいの』

『…………』

『わたくしに対して、余分なお気づかいは不要ですわ。なぜなら、わたくし自身、そうされることを望んでおりませんもの。ですからたとえ、ちさとさんが良かれと思ってそうしてくださったとしても、そのお心づかい自体につきましては、大変素晴らしいものとして受けとめますが、それでもわたくしは、少し寂しくなってしまいます。ちさとさん、わたくしには、胸襟を開いて接してくださらないのね、って』

『…………』

『ねえ、ちさとさん。“姉妹”って、そういうものではございませんわよね。“姉妹”の間に、他人行儀なお振る舞いなど、存在しませんわよね』

『…………』

『でしたらちさとさんも、“姉”であるわたくしに、距離を置いたようなお振る舞いをなさることなんて、ございませんでしょう。ね、そうでしょう、ちさとさん』

 凛凛しかった当初のそれは、今や消失しておりました。椿お姉さまは、もはや哀願に近いお言葉で、わたしを揺さぶろうとなさいました。……いいえ、実際わたしは、椿お姉さまに劇しい共感をいだきました。椿お姉さまの裡に存在する、孤独の念に共振しました。

(椿お姉さま、お寂しかったのだわ……。)

 誰もがそのあまりの完成度から、完璧な存在だと信じて疑わなかった、椿お姉さま。ですがお姉さまだって、当然の感情を有する、一個の人間なのです。他者を必要とされても、それはまったく自然なことなのです。ほかの誰かの支えを欲したとしても、それは果たしていけないことなのでしょうか。非難に値するようなことなのでしょうか。

(そんなはずっ、そんなはずないじゃないっ!)

 全身が、灼熱に侵されました。烈しい感情に呑まれました。椿お姉さまの抱えておられるご心痛を想って、わたしは胸が張り裂けそうになりました。ご自身の願望を圧し殺して、他人のそうであってほしい理想像を、そのとおりに反映しておられるお姉さまに、わたしは哀切の情をいだきました。そして、わたしは先ほど感じた決意を、今一度表層に浮き上がらせました。

(お姉さまのお心をお慰めできるのは、わたししか居ないのだわ!)

 そうです、一番お姉さまと出逢って日の浅いわたしが、最も適任なのです。ほかのお姉さま方には、今さら態度を変えることは、難しいでしょう、なぜなら、椿お姉さまという像が、すでにお心の中に形作られているからです。そしてきっと、それは聖人君子のようなものであることでしょう。完全に完結しておられる、他人に依り頼む必要など微塵も感じない、菩薩さまのような像を想い描かれておられるのでしょう。それを知らず知らず、椿お姉さまに圧しつけてしまったのではないでしょうか。自身の理想像と、齟齬を来すことのないように。

 その無言のご期待に、椿お姉さまは首尾よくお応えになったのでしょう。ほかのお姉さま方のご期待を裏切ることをせず、皆のお心の支えとなってこられたのでしょう。

 椿

 椿お姉さまだって、お辛く感じられるときや、お苦しみに泪を流されることだって、あるというのに。

 でしたら。

 でしたらこのわたしが。

 椿お姉さまの“妹”である、このわたしが応えなくては!


『……椿、お姉さま』

 わたしはお姉さまの名をお呼びします。甘えた声音を用います。今までは、礼を失すると思い、そのような態度は控えておりました。ですがこれからは、そうはいたしません。“姉妹”にふさわしく、気心が知れた、睦ましい間柄を築こうと、わたしは心の壁を取り払いました。

『わたし、甘えっ子ですよ。甘やかされて育ったので、とっても手のかかる、“妹”ですよ。椿お姉さまに、ご迷惑、おかけしてしまうかもしれませんよ』

 言外に伝えました。それでも構わないのですかと。

 それに対するお姉さまの反応は、わたしの想定を遥かに凌駕するものでした。

『っっ!』

 どんっ、と心臓が飛び跳ねました。まるで直接、臓器に掌底しょうていを打ち込まれたかのようでした。……ですがそれは正しくありません、わたしの胸に実際に叩き込まれたのは、てのひらではなく、

 ――椿お姉さまのお顔、でした。

 椿お姉さまは、わたしの胸の上に、お顔をお沈めになりました。そしてそのまま静止なさいます。まるで意識を失ってしまわれたかのように。

 お姉さまという圧が加わって、呼吸が困難になりました。呼吸いきをするたびにお姉さまの頭が上下します。それに気づいて、わたしは活動をはばかります。むやみにお姉さまを揺り動かしてしまうことに、躊躇いを覚えます。ですがそれは畢竟ひっきょう、酸素の供給量を狭めるだけにしかならず、息苦しさが限界を越えて、またお姉さまを一層おおきく揺らしてしまうという、悪循環でしかありませんでした。

 細胞が抗議を叫びます。酸素が足りないと要求します。深呼吸しろ、深呼吸しろと ます。わたしもできるならそうしたいです。ですがそうはまいりません、なぜなら、お姉さまがわたしの上に乗っていらっしゃるから。椿お姉さまのお邪魔をするわけにはいかないのです。……でも、でももう、もうわたし、限界――――。

『――良くってよ、ちさとさん』

『えっ』

 白濁の色がいよいよ濃くなり始めた意識を、その声はまるで間を縫って通したかのように貫きました。えっ、とわたしは顔を向けます。お姉さま、起きていらっしゃったのですかと。

 果たして視線の先には、お顔を横向きになされた椿お姉さまが、おふたつの明眸めいぼうでわたしを包んでおりました。視線が交わると、ふんわりとお表情かおを和らげてくださいました。そしてそのまま、長い睫毛を揺らされます。そっと瞑目なさいます。ああ、椿お姉さま、なんて安穏な表情を、なされるのでしょう。まるで、まるで貝殻にお耳を寄せておられるかのように。幻想の波音を、聴いておられるかのように。そんな安らいだ表情で、お姉さまはわたしの胸に、お耳を当てておられました。

 そしてそのままのご姿勢で、お姉さまは再びお声を奏でられます。

『ちさとさんが、なさりたいように、どうぞなさって。わたくしは、まったく構いませんわ』

『……お姉、さま』

『好きなだけ甘えても良いのよ。わたくしは、遠慮されるよりも、そちらのほうが、よっぽど嬉しいですわ』

 お瞳を閉じられたまま、まるで独り言をつぶやいておられるかのように、お姉さまはお言葉を紡がれます。ですが、お耳を気配が、それを否定します。椿お姉さま、視覚に頼らずに、わたしと対話しておりました。

『…………』

 それでは、せっかくですので――、お姉さまのご許可をいただきましたので、わたしはと、ですがいっぱい、呼吸を再開いたします。新鮮な酸素を全身に送ります。それはどんな美食よりも満足感をもたらします。胸いっぱいに吸い込んで、堪能し尽くします。

 お姉さまの、お笑い声を聴くまでは。

 ふふ、とお姉さまは笑みをこぼされます。とわたしは覚醒します。お姉さまの存在を思い出します。視線を二たび転じます。するとそこには、童心に返られたかのような笑みを浮かべる、楽しそうな椿お姉さまが居りました。

『あら、どうなさったの?』

 小康状態に戻ったわたしの上下運動に、お姉さまはお瞳を開かれ、無邪気にそうおっしゃいました。あ、いえ、もう充分ですと、わたしは答えます。とりあえずの息苦しさは解消されましたから、と。

『そう……、それは残念ですこと』

『残念、ですか?』

『ええ、わたくし、大変たのしんでおりましたのに』

『そっ、そうですかっ、ならもう少し――』

 もう少し続けましょうかとのそのせりふは、でも椿お姉さまにさえぎられてしまいます。わたしの胸からお離れになった椿お姉さまは、そっと人差し指を差し出され、お指の腹でわたしの唇をお塞ぎになりました。お姉さまに触れられて、わたしは上方を仰ぎます。新たに坐りなおされたお姉さまを見上げます。わたしと視線がぶつかると、椿お姉さまはお目を細められます。しいっ、と唇の形だけでお伝えになります。それを受けて、わたしは唇を結びます。分かりましたと瞳で頷きます。

 椿お姉さまは、またもや笑みの質を変えられます。わたしの了承をお認めになって、嫣然えんぜんと笑みをたたえられます。その理由に、思いが及びません。お姉さま、どうしてそのような笑みをお浮かべになったのかしら、そう頭を働かせようと努めましたが、唇から送られてくるお姉さまのお指の感触に、考えは一向にまとまりません。思いのその大半を、柔らかなその感触に奪われておりました。

 と。

 再び耳がわたしの名を捉えます。鼓膜がお姉さまのお言葉を捕捉します。わたしも再度、網膜に意思を注ぎます。理性を宿した瞳で、お姉さまを映します。

『ちさとさん……、――動いてはいけませんよ』

 椿お姉さまは、そうわたしに釘をお刺しになりました。こくこくと、二たびわたしは頷きます。目顔で了承の意をお伝えします。ですがこのたびも、お姉さまのご心中には至れません。お姉さまのお考えの、その影さえも、わたしは踏めずにおりました。

 お姉さまの片腕が、わたしの上をなめらかに滑っても、それでもまだ。

 ふっと浮き上がるような感覚を覚えました。でもそれは錯覚でしかありませんでした。本当に浮き上がったわけではもちろんありません。開放感からそう勘違いしただけでした。開放感――? と、わたしは思いました。この状況で、どうしてそんな感想をいだいたのかしら、と。

 ですが肌寒さを感じる段になってようやく、一連の疑問が、まるで絡まった紐をほどいたかのようにして、一斉に解を与えられました。

 椿お姉さまが、わたしの服を脱がしておりました。

 片腕でご器用に、ブレザーのボタン、そしてワイシャツのボタンを、お外しになっておりました。それら拘束から解き放たれて、わたしは錯覚をいだいてしまったのです。

(――お、お姉さまっ?!)

 いつの間にか、すっかり前がはだけています。首もとのループタイを残して、白いワイシャツも左右に押しやられています。子供っぽい下着がにされています。そして外気にさらされたわたしの素肌のその上を、お姉さまは五つの絵筆を用られ、心のおもむかれるままに、文様をお描きになりました。

 お姉さまの五指が、自在にわたしの上を跳ね躍ります。ときに強く、ときに優しく。あたかも楽器を奏でるかのように。……いいえ、奏でる、というよりは、いまは調律のほうが、しっくりといたします。すうっと素肌の上をなぞられては、わたしが敏感に反応するところを探しておられます。んんっ、と思わず声を挙げてしまうと、お姉さまはその一帯を集中的にお責めになります。くすぐられたり、 、と弾かれたりなさいます。もとが弱いところですので、巧みにそうされると、我慢ができません。いまだお姉さまの人差し指によって封をされている唇から、くぐもった声を洩らしてしまいます。

 椿お姉さまは、わたしという楽器を、実に巧みに演奏なさいます。わたしの横に坐し、お指を用いて奏でられるそのお姿は、ちょうどお琴をお弾きになっておられるかのようです。(わたしの歓迎会をお姉さま方が催してくださったときに、実際にお弾きになっておられるお姿を、わたしは見ておりました。それはなんと雅で、お美しいお姿だったのでしょう。初見のわたしはもちろん、居並ぶほかのお姉さま方も、皆一様に、うっとりと瞳を潤ませておりました。)

 お姉さまの愛撫に、わたしはすっかりと息が上がってしまいます。外気に触れた素肌も、今では逆に、より熱を帯びています。そんなわたしに、お姉さまはご自分のたなごころをお当てになりました。とくん、とくん。お姉さまのそれを反射板としまして、わたしの鼓動が波紋を描きます。全身に行き渡ってのち、跳ね返ってまた響き合います。その律音の穏やかさを、意外に思います。呼吸いきをするのもでしたのに、それに反して心臓は、きわめて正常に稼働しています。どうしてかしら、わたしは不思議に思います。もっと心音が乱れていても、おかしくはないはずなのに――。

 と。

『ちさとさんの心音おと、大変ここちよいですわ』

 椿お姉さまがそうおっしゃいました。宛がうてのひらに、全神経を集中しておられるかのようでした。

 唇の封が解かれました。ずっとそうされていたお手を、今度は頬に添わせます。慈しむように撫でられます。真心の込められた所作に、わたしは陶酔いたします。熱い溜め息を洩らします。

 それをご覧になって、お姉さまも笑みをこぼされます。そして、卓抜したお指づかいで、わたしを 深い快楽へと導かれます。お姉さまにいざなわれ、わたしも身をよじらせます。無抵抗でそれを受け容れます。

 そうして二人、じゃれ合って時をすごしました。双方とも、存分にお互いを堪能し合いました。

 ……やがて、椿お姉さまは、ご自身の動きを止められます。再びてのひらを、わたしへと密着なさいます。一方のわたしはといえば、もう状態です。を嗅がされた猫みたいになっています。

『……最初から、こうしていれば良かったのですわ』

 椿お姉さまはつぶやかれます。しみじみと、感慨深く。

『相手に求めるのではなく、まずこちらから、行動を起こすべきでしたわ』

『お姉さま……?』

 椿お姉さまの独言に、不穏なものを嗅ぎ取ったわたしは、それを声色に織り交ぜます。どうかされましたか、そうお尋ねいたします。

『なんでもありませんわ、ちさとさん』

 迷子の子猫みたいな表情のわたしをお瞳に映されて、お姉さまはうそぶかれます。大したことではございませんわと、安堵させようと微笑わらわれます。

『今さらしても、詮なきこと、気に病んでも仕方ありませんわ』

『…………』

『ただわたくしが、愚鈍でしただけ。それだけですわ』

 そうおっしゃってから、お姉さまはふっと表情をお和らげになりました。そして、頬に当てておられたを、首筋へと移動なさいます。そのままわたしをくすぐられます。

(ちょ、お姉さま――。)

 真面目なお話をしておられたのに、急にになるお姉さまに、わたしは抗議しようといたします。お話を逸らされないでくださいと、お諫めしようと試みます。ですが、躰は正直です。お姉さまの絶妙なくすぐりに、尖った感情は丸くなっています。気がつくと、まるで本物の猫のように、わたしはごろごろと、咽喉のどを鳴らしておりました。

『……ちさとさん』

『……はい』

『……わたくしは、あなたに、遠慮はいたしません。わたくしのしたいように、いたしますわ』

『…………』

 お姉さまはわたしの頬をお撫でになりながら、そう紡がれます。

『ちょうどあなたがわたくしに、そうおっしゃってくださったのと、同じように』

 まるで肩の荷を下ろされたかのような、そんな穏やかな表情で、そう紡がれます。

(そんなっ、したいようにするだなんてっ?!)

 そこまで不敬なこと申し上げたわけではございませんと、わたしは慌てて弁明いたします。ですがお姉さまは動じません。宜しいのですよと、馬耳東風に聞き流されます。ちさとさんも、お望みでしたら、同じこと、わたくしにしても、構いませんのよ、にっこりと微笑んで、そう付言なされます。

『そのようにして歩み寄れば良いと、ちさとさんが教えてくださったのですから、ご遠慮する必要はなくってよ』

 さあ、と椿お姉さまはご誘惑をなさいます。わたしの胸に当てていた腕をお引きになり、片腕でご自身を抱きしめられます。ただでさえこぼれ落ちそうな豊満な膨らみを、さらに強調なさいます。思わず釘づけになりました。一緒にお風呂に入っておりますので、お互いの裸は見慣れておりました。でもそれは、衣服を脱ぐのが当然の場でのお話です。今みたいな状況には、まったく当てはまりません。昂奮に呑まれ、全身が紅潮いたします。造形美の極致にあるかのようなお姉さまのお躰を、白日のもとで観賞したくなる欲求に包まれます。お麗しいお姉さまの肢体を、心ゆくまで瞳に納めてみたいと、そんなよこしまな願望が萌芽します。

(それに、そう、それに――。)

 わたしがお姉さまみたいにできるかどうかは分かりませんが、わたしがしていただいたみたいに、わたしも椿お姉さまをお悦ばせできたら、そんな想いに貫かれました。“受けるより与えるほうが幸福である”という、聖書のある一句を思い出しました。それは間違いなく、正鵠を射た格言であることしょう、先刻のお姉さまの、ご満悦なお表情かおを想起して、わたしは実感としてそう確信をいだきました。

(だからきっと、椿お姉さまはわたしにもお譲りくださったのだわ――。)

 与える幸せをご存じである椿お姉さまは、その特権を、わたしにも下げ渡してくださったのです。……“姉”であられるお姉さまは、それを独占なされたとしても、まったく不思議ではありません。“姉”であることをご理由にすれば、“妹”は押し黙るしかありません。それが年上であるお姉さまの有する当然の権利なのです。

 ですがお優しいお姉さまは、ご自分の有している賜物を、寛大にも分け与えてくださいました。わたしにも、同等の権利をお与えになってくださいました。自分が相手を心地好くさせているという喜びを――それは自負心と置き換えられるかもしれません――それをわたしもいだけるよう、機会を与えてくださったのです。他人に必要とされている、そのことを確信できるよう、能動的に動く機会を差し伸べてくださったのです。

『…………』

 寸時、葛藤が涌き起こりました。椿お姉さまの甘いささやきに、これ幸いと乗ってしまおうかとも思いました。お姉さまの心身と、より親密になれる誘惑は、抗しがたいものがありました。椿お姉さまという美酒に酔いしれたくもなりました。それでも寸前で思いとどまります。わたしがお姉さまにするべきことは、それではないような、そのような気がしました。もっとほかに行なえそうなことがあるように思えました。でもそれは、一体どのようなことなのでしょう、思考にがかかったように、明晰な解はその姿を浮き上がらせはしませんでした。

 結局まよった末に、わたしはお姉さまのご指示を仰ぐことにいたします。お姉さまを見上げます。するとそこには、仄かに照れておられる、お姉さまのお姿がありました。行動を起こさないわたしに、先走った感が否めないと、そう恥じらいに染まっておられます。それは先ほどのお姿――お姉さまがわたしに贈ってくださった、あのお言葉を聴き違えたとわたしが勘違いしてしまったとき――そのお姿に、ちょうど良く似ておりました。

 瞬間、天啓が閃きました。

 答は分かってみますと、拍子抜けするほどに単純なものでした。難しく考える必要なんて、少しもありませんでした。そうです、今わたしが、一番していただきたいことを、お願いすれば良いだけでした。屈託なくお姉さまに接すること、それを何よりもお姉さまは、お喜びになるはず――、その一念に衝き動かされ、わたしは咽喉を震わせました。

『でしたらお姉さま、わたし、お姉さまに、一つお願いがあるのですけど』

 言いながら、弛緩させていた両腕に、を込めました。頬に寄り添っている、椿お姉さまのお手を取りました。両のてのひらで、包みこみます。しっとりと温かな、お姉さまのそれを握りしめます。安らかに繰り返される脈動を感知します。お姉さまの波動が、接する肌から伝染うつります。優しく、温かく、美しく、清らかな、お姉さまを象徴する特質が、わたしを浄化します。わたしはそれを、心臓の上に運びます。胸中に仕舞いこみます。そしてそのまま、わたしを注視しておられるお姉さまに、再び言の葉を紡ぎます。

『先ほどの……、先ほどお姉さまが、おっしゃってくださった、あのお言葉を、わたし、もう一度、お聴きしたいのですが――、』

 お願いできますか、そうわたしはを作りました。

『…………』

 媚びる視線の先には、予想外のに、お瞳を丸くしておられる椿お姉さま。返す言葉を喪って、ただただ固まっておられます。ですが直ちにお姉さまは、言葉の意味に至られます。ぽっと紅葉を散らします。双眸に意思を注ぎ込み、上目づかいのわたしを、軽くお睨みになりました。意地の悪い――このたびは完全にそれを意識しての発言です――わたしのお願いに、椿お姉さまはお強い視線を作られて、抗議の意を示されます。ですがわたしは怯みません。まったく意に介しません。子供特有の、残酷な無邪気さを遺憾なく発揮させて、己の望みへとひたすら邁進まいしんいたします。相手の、お姉さまのお心には、配慮を示しません。……いいえ、逆です。わたしは配慮を示しました、完璧に。。遠慮せず甘えて欲しい。そのお望みを十全に考慮した結果なのです。

『……それは礼を失したことを申し上げていると、そうちさとさんはおっしゃりたいわけですの?』

 釈然としないお表情かおで、お姉さまが尋ねられます。もちろんですと間髪かんはつ容れずに答えます。お姉さまがどうしてもとおっしゃるので、仕方なく、と責任を転嫁いたします。そうでなければ、この慎ましいわたしが、どうしてそのような態度に出られるでしょう、そう芝居がかった口調で続けます。お姉さまが、お許しくださったのですよと。

 あまりといえばあまりのせりふに、再度お姉さまはお口を噤まれます。ふふ、と自嘲ぎみにその端を持ち上げます。するりとを、わたしが懐に仕舞いこんでいたその手を、引き抜かれます。そのまま重ね合わせていたわたしの両手を摑まれます。そしてお姉さまは、

『きゃっ?』

 わたしの両手首をお摑みになったまま、それを頭上――畳の上に、お縫いつけになりました。

『~~~~!?』

 声にならない叫びを挙げました。全身が熱湯を浴びたかのように、真っ赤になりました。

 ……恥ずかしさは、今までの比ではありません。お姉さまの五指に緊縛され、身動きがとれません。手首をいましめられて吊るされたかのようなこの状態ですと、両腋りょうわきがお姉さまに丸ざらしです。わたしの感覚では、秘部と同じくらいに他人ひとさまに見せてなならないと思っているその部位が、(お風呂、水泳のときは別です。)にされてしまっています。恥ずかしくて、もうなってしまいそうです。

『まあ、ちさとさん、お顔が真っ赤ですわ』

 さらにお姉さまが追い打ちをかけられます。羞恥に染まっているわたしをまじまじとご覧になり、言うまでもないことを、わざわざお声に出して述べられます。そのお言葉に退路を塞がれ、(椿お姉さまのお瞳には、それほど常軌を逸した状態ではないと、そう思っていただけているかもと、わたしは一縷の希望をいだいておりました……。)いよいよ進退きわまります。できることなら、顔をおおってしまいたかったのですが、お姉さまの拘束を受けている現状では、それも叶わぬ願いです。なのでわたしは懇願いたします。椿お姉さま、恥ずかしいのでくださいませ、と。

『あら、そうですの?』

『はい、ですからぁ……』

『どうしても?』

『はい。どうしてもです』

 わたしの即答に、椿お姉さまは思案顔を作られます。どうしましょうかとご検討をなされます。ですが素振りなのが です。真剣に考えていらっしゃらないことは、わたしにも明白です。それを悟ってわたしは、さらに哀願の度を強めます。お姉さまぁ、と憐れみを誘う声を用います。

『ちさとさん、そんなにお嫌ですの?』

 その問いに、すぐさまと頷きます。……正直、感情がすでに麻痺していて、もうどちらでも構わなかったのですが、解放されるなら、それに越したことはありません、わたしはそう判断いたします。

 そう……、椿お姉さまはお声を洩らされます。落胆なされた響きを、隠そうともなさいません。ふいと横を向いてしまわれます。そのお姿に、と我に返ります。椿お姉さまのご機嫌を損ねてしまったと、戦慄します。刹那、脊髄反射で言葉がほとばしります。わたしの反応は、音速を超越します。お姉さまにご不快な思いをさせてしまった、それはわたしの中では、あってはならない出来事なのです。

『すっ済みませんっ、お姉さまっ!』

 わたしは最速で赦しを願います。

『わたしっ、とっても恥ずかしいですけど、それでもお姉さまがそうお望みでしたら、全然かまいませんっ! どうぞ、お姉さまのお好きなようになさってくださいっ!』

 そして制御を失った舌は、それだけにとどまりません。まさに今、明確な形を現わした本心もまた、お姉さまに吐露しておりました。

『本当はわたしも、そんなには嫌なわけではありません! お姉さまに優しくされるの、嫌いではありません! でもやっぱり恥ずかしくて、だから、だからわたし、――――』

 ――と、そこまでしゃべってようやく意識が追いつきます。自分がとんでもないことを口にしていることに気づきます。しかもそれだけではありません。正常さを取り戻したは、しっかりと捉えておりました。それ、つまり、――椿お姉さまが、くつくつと双肩を震わせていらっしゃることに。

『ひ、非道いです、お姉さま』

 思わず非難の声を挙げました。そう、わたしをお謀りになった、椿お姉さまに。

『ごめんなさいね、ちさとさん』

 応えて謝罪を述べられたお姉さまはですが、には会心の笑みを拵えていらっしゃいます。予想どおりの結果が得られたことに、至極ご満悦のご様子です。そんな悪びれないお姉さまに、わたしは重ねて抗議いたします。

『本当、非道いですわ、お姉さま。わたし、お姉さまに幻滅されてしまわれたかと思って、必死でしたのに』

 頬を膨らませてお姉さまを見据えます。……ですが内心は反対です。言を紡いでいるうちに、実感が身に沁みてきたのか、わたしは緊張をほどきます。安堵に胸をなで下ろします。良かったぁ、偽らざる本音が、ころりと転がります。お姉さま、本気ではなかったのだわ、と。

 ……実際はそのような心境でしたので、お姉さまが再度ほおを撫でてくださったときには、わたしはむしろ進んでそれを受け容れておりました。

 ゆっくりと、感触を確かめるように、お姉さまのてのひらが、わたしの上を行き来します。両手首を押さえておられる、もう片方のお指を、なめらかに移動なさいます。わたしの両手指と、お絡めになります。わたしも呼応いたします。指を折り曲げ、お姉さまと密接に結びつこうと働きます。

 わたしたちは再び至近距離で、お互いを見つめ合います。お姉さまが身を屈めて、わたしへと被いかぶさります。わたしはそれを、熱い眼差しで迎えます。結ばれているお姉さまのを、握りしめます。痕がつくほどに強く。それを感じて、お姉さまが微苦笑を浮かべられます。困った子ね、そんなお姉さま的なお瞳で、わたしを映されます。

『ああ、ちさとさん、』

 あなたは本当に可愛いですわ、そうお姉さまは慈しんでくださいます。

 そして。


『そんなちさとさんを、わたくしは大変、愛しておりますわ』


 にっこりと笑顔の花を綻ばせ、椿お姉さまは最良の贈り物を、二度にわたって贈ってくださいました。

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