第01話 04

「かの子お姉さま……」

「まだ新入生よ、ほどほどにしてあげないと」

「でもぉ……」

 お姉さまのたしなめのお言葉に、絹子お姉さまはそれでも不承の意を示されます。ですが、そこはさすがにお姉さまからのお言葉、ふて腐れた素振りはすぐに影をひそめました。

 そんな絹子お姉さまに、お隣で坐しておられるお姉さま――たしか、琴美ことみお姉さま、とおっしゃったかしら――が、優しくお肩を抱き寄せ、慈しむように頭を撫でられます。

「でもぉ、仕方ありませんわよね~、椿お姉さまは、絹子さんが二回生のときのお姉さまですものね~」

「こ、琴美お姉さま……」

 わたしは驚きます。慳貪けんどんとしておられた絹子お姉さまは、またたく間に子猫のようになったのです。もはや完全に骨抜き状態です。よしよしと撫でられるたびに、含羞はにかむようにお表情かおゆるめて、くすぐったそうに微笑わらっています。上気した頬は、湯気が見えそうなくらいです。女武者のごとき凛凛しいお姿は、跡形もなく消え失せています。今はただ、柔らかなお姉さまに熱視線を贈る、美しき乙女があるのみです。

 その琴美お姉さまが、わたしへとお顔をお向けになります。わたしも応えて居住まいを正します。

 わたしの聴く準備が整ったことを認めて、琴美お姉さまはおもむろに唇を開かれます。

「ごめんなさいね~、ちさとさぁん。絹子さんが失礼なことを言ってしまって~」

「い、いえ、とんでもありません。こちらこそ、申し訳ありませんでした」

 初日から遅刻してしまって、わたしは両手をつきました。お引っ越しのお手伝いをお姉さま方にしていただくはずなのに、お待たせしてしまい済みませんでした、と。

 ――それに対する反応は、素早いものでした。

 と場が揺らぎました。部屋が鋭さを取り戻しておりました。尖鋭化された大気が、頭のいただきに突き刺さりました。

 とおもてを挙げました。何か間違えたこと、言ってしまったかしらと。

 果たしてそこには、再び刃物のようなお瞳で睨まれる、絹子お姉さまが居りました。険しい表情で、今にも飛びかからん勢いでした。(実際よこで琴美お姉さまがお腕をまわしていなければ、わたしは突撃されていたかもしれません。)

「……それではなくてよ、ちさとさん」

 ゆっくりと、嚙みしめるように、その琴美お姉さまがお言葉を紡がれます。一旦くちびるを結び、絹子お姉さまの向こう側、もうひと組のお姉さま方を望まれます。眼差しで、ご了解を仰がれます。

「ええ、構まないわ、琴音さん」

 意を酌まれたお姉さま――かの子お姉さまが、頷かれます。お二人の意思の疎通に、余計な言葉は要らないようです。以心伝心を完璧にしておられるお二方ふたかたは、大胆に会話を省略されて、お考えを伝達し合っておりました。

「ありがとうございます、お姉さま」

 何に対するお礼なのかしら、その疑問は、ただちに解かれることとなりました。

「――ちさとさん」

「はっはいっ」

「……きっと、椿お姉さまは、あなたに薄めた表現でお伝えしていらっしゃるでしょうから、ちさとさんが戸惑われるのも、無理はないわ」

「…………」

「それにきっと、椿お姉さまは、気にしていらっしゃらないと、そうあなたにお伝えしたのでしょう」

「…………」

「ですからわたしたちが、口をはさむのは、余計なお世話だと、それは判っているの」

「…………」

「でもね、それでもこれだけは、ちさとさんに知っていただきたいの」

 決してお瞳を逸らさずに、真剣そのものの眼差しで語られる琴美お姉さま。甘いお声も、抑揚が抑えられて、緊張感に満ちておられます。気がつくと、ほかのお姉さま方も、しっかりとこちらを見据えておられます。でも今回は、わたしも負けません、生まれて一番の真剣な表情で、お姉さまたちの視線を受けとめます。なぜならそれは、椿お姉さまに関することだから。そしてお姉さまたちの態度から、それが大事なことなのだと理解できていました。ですからわたしは全身を耳にして、無言で続きのお言葉を待ちました。

 そして琴美お姉さまの唇が、三たび開かれます。

「お姉さま……、椿お姉さまはね……、」


 ――あまり、おからだが丈夫ではいらっしゃらないの……。


 まるでわがことのように胸を押さえて、お姉さまはそう紡がれました。

「気管支か肺か、詳しくはわたしたちも知らされていないの。ですが、呼吸器系のどこかがあまり健康にできていらっしゃらないのだと、そう聞かされているわ。ですからね、普段の生活には、ほとんど支障をきたさないのだけれど、運動などは、なるたけ控えていらっしゃるの」

 そこまで述べられてから、不意にお姉さまは口をおつぐみになりました。きつく結ばれた唇に、強い意志を感じました。決して鋭くはない、でも確固とした眼差しが向けられました。無言で問われました。わたしたちが、何について怒っているのか、解りますかと。

 ――解りました。解ってしまいました。眼前のお姉さまから衝撃の事実に、わたしは紙のように顔色がんしょくを喪いました。

(……え、だ、だって、だって椿お姉さま、あのとき――。)

 懸命に記憶を手繰りました。つい先ほどの、あのわたしたちの初めての出逢いを、一生懸命におもい出しました。

 いきききって、駈けてきてくださった椿お姉さま。

 そのお顔は? 吐息は? 果たして具合は悪そうに見えたかしら――。

 ……。

 ……。

 ――。……少なくともわたしには、そのような徴候ちょうこうはまったく感じられませんでした。完全に、完璧にかくされていました。かすかに思い当たる節があるとすれば、椿お姉さま、そういえば少し汗の量が尋常ではないなと、そう思ったくらいでした。

 思い浮かぶのは、ただひたすらに、椿お姉さまのお優しい笑顔。真っ直ぐに整備された並木道を、二人並んで歩いた、宝石のようなひと時。すっかり舞い上がって、脈絡もなく話題を飛散させるわたしを、慈愛に満ちたお瞳で包んでくださった、お姉さまの温かな眼差し。

 知りませんでした。知れるはずありませんでした。知らされていないわたしに、椿お姉さまの異変を、看破できるはずはありませんでした。

「……理解していただけたみたいね」

 動転するさまを隠さないわたしに、琴美お姉さまが再び咽喉のどを震わせます。ですがそのお声は、どこまでもお優しく、慈しみ深いものでした。明らかに落ち度はわたしの側にあるのに、それを問責するようには見えませんでした。

 そう、伝わっていたのです、わたしの椿お姉さまに対する、この敬慕の念が。そしてわたしもまた、たとえお姉さま方すべてを敵にまわしても、それだけは譲るつもりはありませんでした。まだ出逢って数時間しか同じ時をすごしてはいませんでしたが、それでも心を焦がす、この熱い想いは間違いなく真実です。もしもそれを否定されるようなことがあれば、わたしは後先を考えずに抵抗をしていたことでしょう。

 ですが琴美お姉さまは、わたしの事情を酌んでくださいました。情状は酌量されました。結果として椿お姉さまのお躰に負担をかけさせたとはいえ、知らぬ者がしたことであると考慮してもらいました。

「そうよ、ちさとさん」

 まるでわたしの思考をトレースしたかのように、琴美お姉さまは頷かれます。

「わたしたちは、ちさとさんが遅れてしまったことに、どうこう言うつもりはないの。たしかにそれは、褒められたことではないわ。ですが人は誰でも、あやまちを犯すもの。もし咎めるとすれば、それは同じ失敗を繰り返したとき。そうでしょ、ちさとさん」

 はい、とわたしは答えます。

「ですからね、本当は、椿お姉さまのことについても、おそらく何も知らされていないあなたに、このような態度に出ることは、正しくないの。それは、そのことは、わたしたち全員が、重重じゅうじゅう自覚しているつもりよ。ですから先に謝っておくわ」

 そう言って琴美お姉さまは、ごめんなさいねと表情を和らげます。ほかのお姉さまたちも倣って、それぞれに謝意を伝えてこられます。

「そんな、謝るだなんて……、むしろ怒られて当然なのですから」

 お姉さまたちの意表外の行動に、わたしは慌てて手を振って答えます。わたしも理解しておりました。お姉さまたちのお怒りの源泉がどこにあるのかを。椿お姉さまをお慕いしているからこそ涌き出た憤りに、わたしはむしろ共感しておりました。

「……わたし、椿お姉さまに、ご無理をさせてしまったのですね」

「…………」

 琴美お姉さまはお言葉を発することなく答えられました。憐憫を覗かせているお瞳が、わたしに優しく降り注ぎます。それが、美しい睫毛にふちられた瞼におおわれます。柳のような眉が、歪められます。痛みを堪えるかのようなお表情かおを作られます。お辛いのだわ、お姉さまのご心中を察して思います。お辛いお役目を引き受けておられるのだわと。

 数秒、時がすぎました。

 長歎ちょうたんを洩らされてから、ようやく琴美お姉さまはお瞳を開かれました。

「――――」

 黒曜石のごとき両のに、わたしは真意をりました。衝撃が全身を貫きました。

 ――潤う瞳に浮かんでいたのは、でした。

 わたしはてっきり、損なやくまわりを引き受けて、自分がわたしに悪感情をいだかれてしまう、そのことを悔やんでいるのだと錯覚おもっていました。

 そうではありませんでした。そんな低次元な場所に、お姉さまはいらっしゃいませんでした。

 お姉さま、琴美お姉さまは、ご自分の言葉によって、ということ、そのことにお心を痛めておられたのです。

「…………」

 言葉に詰まりました。胸が苦しくて、でも吐き出したら、冷静でいられる自信はありませんでした。先ほどとは違う理由で、わたしは泣きそうになっていました。

(なんて、なんてお優しい方なんだろう……。)

 感動に揺り動かされました。真っ直ぐ坐っていられないほどでした。肉体にまで影響を与えたそれに、感情の荒波に、呑み込まれました。

「もう充分です、お姉さま!」

 畳に額をこすりつけて、わたしは叫びました。平常の声量では、このほとばしる激情をとどめられませんでした。荒ぶる感情よりも早く、わたしは声を絞り出しました。

「わたしっ、解りましたっ! 約束しますっ、もう二度と、椿お姉さまのおからだに、そしてお心に、負担をかけさせないと! だから琴美お姉さまも、そんなお辛いお表情かお、なさらないでくださいっ! お願いっ、お願いしますっ!

 ……わたしのせいで、お姉さまが痛みを覚えられるなんて、そんなの、そんなのわたし――」

 そんなのわたし、耐えられません……、気がつくと、滂沱ぼうだなみだが床を濡らしておりました。泣きじゃくりながら、必死の嘆願をしておりました。人生経験の浅いわたしには、自分のせいでほかの人が傷つくのは耐えきれませんでした。傍観できませんでした。まだそこまでは世の中を割りきって見ることができませんでした。

 背を丸めて突っ伏します。空想力が、また悪いほうに作用いたします。決定的な亀裂を想像いたします。椿お姉さまを傷つけ、琴美お姉さまを傷つけ、そして今は泣き伏して醜態をさらす自分は、もうお姉さまたちと良好な関係を築くことはできないのではないか、そんな妄想に囚われます。

 もう消えてしまいと思いました。

 と、そのときでした。


「ご自分を責めてはいけないわ――」


 懐かしきそのお声と共に、躰に腕がまわされました。上体が起こされました。きつく躰を強張らせていたはずなのに、あたかも知恵の輪を外すかのように、わたしの封印は解かれました。

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