第十六話 脱出


 爆発が引き起こした混乱を利用して囲いを突破。

 開けた道を追手の追撃を迎え撃ちながら、ジキとロッコは地下水路へと逃げ込んだ。


 絶え間ない戦闘、幾度の死線を掻い潜り、奇跡的に二人は城壁の外へと逃げ遂せることが出来た。



 とうに樹海の夜は明け、密集した枝葉の傘の下ですら、その陽が地上に鮮やかな緑を照らし出している。

 二人は転がるようにして樹海に飲み込まれると、いつの間にか追っ手は掛からなくなっていた。


 その頃にはもう、ジキはまともに歩くだけの余力も無い。

 一歩、一歩、小さなロッコにもたれて引き摺られるしかなかった。


 広大な樹海を二分し、王都の地下水路を支える大河。

 それを辿ればいつかは集落に辿り着けるかもしれない。同時に、敵との遭遇率を非常に高める。


 国土程もある広大な樹海は、外の世界を知らない二人にとって、手探りの暗闇と大差がなかった。


 この秘境に人の王国があったように、樹海には多様な共同体が存在する。

 その中でオークが現在最大派閥となるが、それ以外に二人は外の事など何も知らない。


 どちらに進めば安住の地があるのか、人の治める集落が本当に存在するのか。

 存在したとして、それが味方なのかも定かではなかった。



「……連れ出しておいて、……悪いな」

 ジキは助け出した少女に介護を受けている事を詫びた。


 ロッコは「大丈夫……ッ!」と言って、不安定な足場で彼の重量を支えた。


 言葉とは裏腹に、非力なロッコに屈強な戦士を背負って進むのは過酷で、百メートルすら途方もない距離だ。


 ジキを支えることに何の不平も無い。

 精神的にそれは本音でも、体力的には不可能だった。



「!? ……あっ」

 膝への負担が限界を迎え、ロッコが転倒して膝を着いた。


 転げ落ちたジキの容体を確認しながら、「ごめんなさい! ごめんなさい!」と謝罪を繰り返す。

 所詮、子供の体力で大人を担いで進むのには無理があるのだ。


 樹海の脱出に七日を掛けても足りない。三日ともたずに野垂れ死ぬだろう。


 応急処置めいたものを施しはしたが、傷は塞がらない。熱も下がらない。何を摂取して良いのかも分からない。


 もはやジキには生き延びる体力は残っていなかった——。



「……少し、休もう」


 ジキが提案し、適当な木の幹に背を預ける。

 ロッコはすぐ横に膝を着いて、彼の様子を伺っていた。


 視線を遡って、ジキはロッコの表情を観察する。


 懐かしい。姉を最後に見た時と同じ年頃、同じ色の頭髪、同じ色の瞳。

 初めて会った時にはなかった<意志の輝き>を灯している。


 ジキは「いい顔になったな」と言って、フッと笑った。


 言葉の意味も解らずに、ロッコは脂汗に濡れるジキの笑顔に唇を嚙み締めた。


「怪我は、ないか?」

 ロッコの表情が曇ったのを察して、ジキが訊ねる。


 ロッコは胸の前で握った右拳を左手で包みながら、心身の不調を訴える。

「わからない、です。でも、苦しい……」


 日々の苦痛を緩和すること以外、自らのことにすら興味がなかったロッコにとって、他者の身を案じるという事は初めての感情だった。


 感情が引き起こす心身の反応に、ロッコは戸惑う。


「呼吸が、頭が破裂しそうに熱い……!」


 ロッコにとってそれは異常事態だった。

 無傷であるのに関わらず、肉体的苦痛を受けた時、反射として流れ出る液体が眼からこぼれ落ちている。


 だから、自分の身体は何処か壊れているのだと認識出来た。


「痛いです。この辺が、きっと体の内側を怪我しているのかも……」


 真剣に異常を訴えるロッコ。

 力を振り絞り、重い腕を持ち上げて、ジキはその頭を優しく撫でた。


「良いんだ、それが正常なんだよ、俺達は。長い闘病生活が終わって、ようやく健康になったんだ」


——もう家畜なんかじゃない。人としての尊厳を取り戻したのだ。



 ロッコは戸惑う。

 健康だという事は、正常だという事は、こんなにも苦しくて辛いものなのかと、抑え込めない胸の痛みに見悶えた。


「さて、歩けるか?」

「はい、大丈夫です!」


 再び担いで先に進むのだと解釈し、ジキの問いかけに対してロッコは力強く答えた。

 しかし、ジキが腰を上げる様子は無い。


「なら、使いを頼まれてくれ。ジジイの遺言なんだ、人間の住む所までコイツを持って行けって」


 そう言って、ジキは野良長に託された剣をロッコに押し付けた。


「え……?」


 予想外の指示にロッコの思考は追いつけずにいた。

 それを察して、ジキは簡潔に告げる。


「此処からは、お前一人で行くんだ——」



 この幼い少女がたった一人で、この過酷な環境で生き延びられるのか。

 そんなことは誰の眼にも明らかだ。


 だけれど、他に道は無い。


 一度は家畜に戻ろうとした。それを拒絶するしか無かった。

 もう、彼女は立派な野良なのだ。


 そして、ジキは自分が明日の朝まで生きてはいないだろうことを察していた。



「嫌だッ!!」


 ロッコは叫んだ。


「そんなのは嫌だッ!!」


 同胞たちが食用加工される姿を、幾度と目の当たりにしても動かなかった感情が、激しく暴れまわっていた。


「もう、面倒は見れない。聞き分けろ」


「そんなんじゃない! そうじゃないけど、なん……分からない! この気持ちを伝える言葉を知らないんですよ!」


 初めて出会った時、彼の姿とその技に圧倒され、感じた感情。

 その形容詞を今も探し続けている。



「だいぶん重いだろうが、杖くらいにはなるだろう。もし、生き延びることが出来たら、金にでも換えてくれ」


 ジキはロッコを突き放す。


「嫌です! 一緒に来るか、あなたはそう言ったんです! だから、一人では行きません!」


 言葉にできないものは態度で示す他にないではないか。

 ロッコは意地になって縋りついた。


「泣くなよ。泣かせる為に連れ出した訳じゃないんだ……」


 ジキにそれを振り払うだけの気力は残っていない。



 ロッコは我が身可愛さに駄々をこねている訳じゃない。

 その事は、顔を見れば判る。


 何故、彼女がこんなにも懐いてしまったのか、ジキには理解不能だった。


 救ったと言っても、感謝には及ばない。

 所詮は、姉を救えなかった過去を払拭する為の代替え行為。


 別に、彼女という個を救うつもりは無かったのだ。

 ジキはただ、背負い続けた後悔に苦しんでいて、その荷を下ろしてしまいたかっただけ。


 其の上に、仲間たちの見殺しという十字架を重ねて生きられるほど、最強の人鬼は強く無かったのだ。



「……強がりを言って済まなかったな。気が済むまでそこにいてくれ、そして気が済んだら先に進めよ」


 その瞳は指向性を失い、虚空を眺めていた。

 全てが白い霧が罹ったように色を失っていく。


 少し、寝かせてくれ——。

 そう言って、ロッコの見守る前で、ジキは目を閉じた。




――そして、野良とオークの戦争は終結した。


 陽が天辺に差し掛かった頃、ヨキが八百強を数えて力尽きた所で、全ての戦闘が集結。

 百万のオークを相手に与えられた損害は四千匹程度。


 それは誤差の様な数字で、オークの繁殖力ならばすぐに補填できる。


 それ故に、同族の死を悼む事よりも、野良達の死体を吊るし勝利に酔いしれることが優先された。


 共食いを文化とするオーク族に、他種族の侵略行為に怒る感覚はあったが、同族の死を悼む価値観は無い。

 それ故に、昼からは平時に戻れる。


 自らの命がある限り、縄張りを奪われない限り、被った被害は軽微なのだ。



 一方で、王宮は異様な状況だった。


 一部隊が騒動鎮圧の報告に戻って来ていたが、出迎えが無い。

 それどころか、城門から王座の間まで、死体の道が続いていた。


 王宮に残るは精鋭中の精鋭。最強の怪物たちだが、それらが全滅。



 王座の間まで来て、オーク兵はその光景を目の当たりにする。


 其処にはこの惨状を作った野良の死体が一つ。

 その老人が野良の頭目だと知る術をオークは持たないが、侵入者はそのたった一人だ。


 そしてあろうことか、群れのボスであるオークキング。

 豚の王も相打ちであるかのように無残な死体と化していた。


 玉座の間に二つの死体。


 豚の王は王座から引きずり下ろされて這い蹲り、野良長は空になった玉座に向かって膝を着いた姿で息絶えている。

 まるで、在りし日の主君に忠誠を誓う騎士の様に、清廉とした姿だ。


 その時点、この戦争で野良長は無傷のままであった。




――翌々朝。


 ロッコはジキの傍らに寄り添い続け、彼が二度と目を覚まさない事をゆっくりと理解した。

 恩人の最後を看取り、しばし途方に暮れる。


 期限が来れば食品に加工される事を宿命づけられた二束羊。

 その光景を受け入れて来たロッコは、生き延びるという事を知らない。


  何処かに行きたい訳でも、何かになりたい訳でも、何かを験したい訳でもない。

 想像したことも無いし、<未来>なんて言葉は知らない。


 ふと、地面に置いた剣に視線を落とす。


「ああ、そうだ……」呟いて思い出す。


 何もないなら、言われたことをすれば良いのか。


 

 ロッコは立ち上がり、剣を拾い上げた。

 その重量を腕に感じ取ると、ジキ達がそれを羽のように振るっていたことに感嘆する。


 そして、少しずつ自覚していく。

 あの時、野良達に憧れた瞬間から、家畜は人になりたかった。


 ロッコはジキみたいになりたかった。



 そして少女は一歩を踏みだした。

 剣を胸に抱え、まだ見ぬ未来へと歩き出す——。





  エピローグ、『十三年後』に続く。

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