第9話


 まぁるい月が笑っている。

 夜空に散らばる星々が地上を睥睨し、見下ろされたなにかが唸り声を上げる。赫赫たる炎が天に上り、無貌の人形がなにかを囲うように列をなす。

 笑う。

 星が笑い、風が笑い、すべてが笑う。

 無貌に三日月が生まれ、無骨な歯を見せて笑う。

 けたけた、けたけた。

 不快な音は増すばかりで、静馬はそこで忘我の域を脱した。

 何が起きたのか。

 周囲には気持ち悪い人形。視線の先にあるなにかは祈りを捧げているようにも見えた。その傍らに、男がいる。

 奇妙な男だった。

 細身の長身で黒いコートに身を包んでいる。黒いハット帽を被り、両手には黒い革製の手袋。全身が黒ずくめで、面立ちはどこか能面のようにのぺらとしている。唇がゆがんでいたが、それが笑みだと気付くのにいくらか時間がかかった。

「こんばんは」

 笑い声が一斉に収まった。

 男はくしゃりと顔を崩して笑みを浮かべる。

 不思議なことに随分と愛嬌があるな、と静馬は思った。静馬は、こんばんは、と返す。男は満足げにうなずいて、静馬の元へ向かって来た。

 でかい。

 静馬も決して小柄ではないが、文字通り見下ろされている。

「私は陰陽寮得業生三原直衛と申します。故あって、このような場所に招待させていただきました。お帰りのところ、誠に申し訳ありません」

「陰陽寮、ですか」

「ええ。貴方も紋筆家ならば事情を把握していただけるかと思いますが」

 静馬はため息を吐いた。

 こんな場所に連れてこられて事情もくそもない。

 ただ、確かに事態は飲み込めた。目の前の男が本当に陰陽寮の人間ならば、ここは現実の光景である。

 静馬はとりあえず、男の言葉に同意することにした。

「…わかりました」

「結構。理解が早くて助かります」

 三原は胸元から一枚の写真を取り出した。

 映っていたのは桜である。

 いつ撮ったのか、静馬の背中も映っていた。

 どんどん話がきな臭くなっているな、と静馬は他人事のように思った。三原から写真を受け取り、腰に手を当てる。考えるふりをしながら、筆に触れた。腰に備え付けた容器の蓋を外す。ちゃぷんと墨汁が揺れた気がした。

「…彼女が、どうかしましたか?」

「ええ、私どもで引き取らせていただきたいのです。後見人がいなくて困っているでしょう?」

 ね、と男は笑みを深くした。

 静馬は苦笑した。

 できるわけがない。

「それは私の一存では…」

「うん。だから君の先生から了解をとってほしい。私もなるべく穏便に済ませたくてね」

 人形が一斉に動いた。

 がしゃんと派手な音を立てる。

 静馬は思わずのけ反った。背後に倒れそうになり、一歩、二歩、三歩と後退する。がしゃんと派手な音。持っていた荷物を誤って落としてしまった。

 人形が顔をこちらに向けている。むき出しの歯がひどく気持ち悪い。

「まぁ、これは要請じゃなく命令なんだけれど」

 さて、どうするか。

 静馬は腰の筆を執った。

 瞬間、周囲の人形に取り押さえられる。両腕を押さえつけられ、地面に顔面から押さえつけられた。

 予想していたとはいえ痛いものは痛い。土の味は思った以上にまずかった。

「さて、どうします?」

 ここまで来ると愛嬌のある笑顔とは言えない。

 静馬は全身を揺らし、抵抗する。むろん、外れるわけがない。容器がちゃぷんちゃぷんと揺れている。

 男は黙ってその様子を見ている。

 しばらくして、静馬は動きを止めた。ぜえぜえと息が上がっている。

「気は済みましたか?」

「…一つ聞きたい」

「なんでしょう」

「なんで、あんたらが桜を引き取りたいんだ?」

「決まっているでしょう」


「彼女、いい実験材料になりそうなので」


                  *


 陰陽寮。

 陰陽道を筆頭に数学、地学、天文学、音楽、学芸、暦学、そして紋筆等々。様々な学問を修めた者が集う最高学府。

だが実態は違う。

 外道と正道が入り混じり、己が探究心と研究成果のためならば何でも行うろくでなし集団。それが陰陽寮であり、目の前の男はまさしくその一員である。

 人間を実験材料というきちがい染みた言動といい、目の前の光景といい。すべてが静馬の知る連中と一致する。

 だからこそ、静馬は思考する。

 この男の本当の目的はなんだろう、と。

「…彼女は既に手続きを終えています。今から拉致してもすぐに足が付くと思いますが」

「だから、あなたに頼んでいるんですよ。彼女の身をこちらに引き渡す。それを飯村啄木に了承させる。貴方なら造作もないことでしょう?」

 この男は何を言っているのか。

 静馬が師匠である飯村に意見などそうそうできるわけがない。そもそも彼女を受け入れたのは飯村自身の意思である。まるで静馬がそう仕向けたような言い方である。

「できるわけがないでしょう」

「どうして?」

「どうしてって、私は単なる研修生ですから」

「貴方、自分の立場をわかっていますか?」

 がこん、と妙な音がした。

 と同時に静馬の右肩が熱くなる。いや、燃えているといった方がいいかもしれない。背筋から冷や汗が吹き出し、喉から叫びが勝手に出た。

 三原は笑みを浮かべたまま見下ろしている。

 静馬は懸命に睨み付けた。

「ほう、意外と根性はありますね」

「ふざ、けんなよ、おい……!」

「減らず口はいけません」

 二度目の音。

 もう叫びもでない。代わりに目から涙がこぼれた。

 静馬は、それでも男を睨み続ける。両肩からくる激痛を耐えるにはこれしか方法がなかった。

 三原は心底意外そうな顔をした。

「おかしいですね。ガリ勉のお坊ちゃんと聞いていたのですが、なかなかどうして」

「殺す、ぜってえ、殺してやる…!」

「おお、おっかない。ですがね、私としても仕事でしてねぇ。次は指でもいきますか」

 静馬は歯を食いしばった。

 絶対に殺す。

 決して目を逸らさずに男を睨み続けた。

 指先にひたりと何が触れる。知らず全身が強張った。瞼を閉じたい衝動に駆られたが、静馬は目の前の男を懸命に睨み続ける。

 掴まれた。

 心臓の鼓動が嫌によく聞こえる。あとは、その瞬間を待つだけである。目の前の男を睨み付け、その瞬間を待った。

 が、

「…ふむ」

 三原は何故か薄ら笑いを消した。

 指先にまとわりついた感触も消える。がしゃんがしゃんと音がして、静馬の拘束が解かれた。当然、すぐに起き上がることなどできない。動こうにも両肩は相変わらず激痛を発している。

「どうにも腑に落ちない」

 三原はしゃがみこんで静馬を見る。

 静馬はなんとか身を起こそうともがいたが、両肩の痛みのせいで思うように動けない。視線だけは決して外さず、ただただ睨み付けた。

「黒賀屋静馬君、でしたね。君に聞きたいことがあります」

「…今更かよ」

「君は、何故彼女を保護したのですか?」

 本当にこの男はわけがわからない。

 痛みのせいで吐き気まで催してきた。静馬は吐き捨てるように答える。

「そんなの、当たり前だからに決まってるだろ」

「当たり前?」

 ああ、もう面倒くさい。

 静馬は振り絞るように声を出した。

「…困ってる人がいたら助けるだろ、普通」

 なるほど、と男は真顔でうなずいた。

 次いで、手を突き出してくる。広げられた手は静馬の眼前に置かれている。まるで 手を差し伸べられたように見えて、静馬はさらにわけがわからなくなった。

「静馬君」

「あ?」


「私と友達になりましょう」


「死ね」

 この野郎、マジでぶっ殺す。

 桜から教わった言葉の正しい使い方を、静馬は今覚えた。


               *

「そもそもの始まりは、私が陰陽寮から依頼を受けたことです。内容は、一人の少女の保護。意外かもしれませんが、陰陽寮は慈善活動に積極的です。かくいう私もね。なので、二つ返事で了承したのですが…これがまた奇妙なことが起こりました」

 少女の保護。

 これは文字どおりの意味であると三原は言う。異世界から流れた人間はそのまま行方をくらますことが多い。世の中はいい人間ばかりではないように、異世界人を正当に保護する人間ばかりではない。

「保護自体は何の問題もありませんでした。時間も場所も指定されていましたし、少女の特徴も正確に伝えられていましたからね。ただそこからが頂けない。直接の接触を禁じられた上に三日間の監禁。さらには食事等も与えてはならないときた。いやはや、我ながら非人道的な扱いをしてしまいした」

 三日。

 桜自身、三日間何を食べていないと言っていたことを静馬は思い出す。ますますこの男を許すわけにはいかなくなった。絶対に殺す。

「そこからがまた奇妙でして。三日が過ぎた頃、急に彼女を開放するように指令が着ました。場所も日時も細かく指示されていて、私は何の疑問を抱くことなく解放しました。ええ、場所が書店で郊特外という点もに問題はなかった。報酬を受け取り、しかも事前に聞いていた額よりだいぶ上乗せされている。本当に文句はありませんでしたよ。ただ、あなたが現れるまでは、ね」

 そこからのことは静馬の知る通りである。

 桜は正式な手続きを経て、こちらの滞在の許可を得た。そして、編入生として教育部へ通うこととなる。

 この男はそれが気に入らない、と言う。

「はじめは生徒会の関与を疑いました。異世界人というのは案外扱いが難しいもので、有益な情報を持つ人間もいれば何の役にも立たない人間もいる。彼女がどちらなのか、今もって判断はできませんが、それでも生徒会が動いたとなれば黙っているわけにもいかない。けれども、生徒会は動いていなかった。全ては黒賀屋静馬君、あなたが行っていたことだった…っと私は考えていたのですけれども」

 間違っていたようですね、と三原は他人事のように言った。

 静馬は両肩の痛みを極力無視し、足を組み直した。木製の椅子が軋みを上げる。肩の脱臼は既に手当された。正確には関節を嵌め直しただけだが、それでも痛みはだいぶましになった。

 三原は涼しい顔でテーブル越しに座っている。

 それがまた腹立たしく、静馬はどうやって殺してやろうか考えていた。

 けたけたと遠くで笑い声が聞こえた。

「おれにそんなことができるわけないだろ。あんたがどう思ってるか知らないが、おれはただの学徒だ。そういう話はうちの生徒会長としてくれ」

「それができていれば苦労はしません。まぁ、あなた自身、生徒会長と浅からぬ縁がおありだということは聞いていたので、そこからとも考えましたがね。どうも私の浅知恵では事態を把握することすら難しいようで」

「それでおれに接触した、と?」

「ええ」

「実験云々ってのは嘘?」

「ええ。いや、私自身、当初はそれが目的と思っておりましたので」

「それもこれも全部外れたと。本当になにもわかってないってことか」

 三原は頷いた。

 静馬は背もたれに体重を乗せる。更に深刻な軋みが生じた。

 がしゃんがしゃんと音を立てて、気持ちの悪い人形がやって来た。口が消え、鏡面のような材質の顔がひどく不快だ。珈琲を二つ置いて去っていく。

 三原が勧めてきたが、当然無視した。

「それで。何がしたいんだ、あんたは」

「静馬君と友達に」

「それはもういい」

 つれないですねぇ、と言って三原は珈琲に口を付けた。静馬はそれを黙って睨む。間を空けてから、三原は言う。

「この状況は面白くない。私に協力して何が起きているのか暴いてみませんか?」

「…断る権利は、おれにないよな」

 月が笑っている。

 この世界を作ったのは目の前の男である。静馬がどうこうすることはできないし、何より周囲で動きを止めた人形は未だに健在である。

 三原は白々しく、とんでもないと言った。

「ただ、静馬君も思うところはありませんか? 偶然出会ったはずの少女が実はどこかの誰かの思惑により引き合わされた。これほど滑稽で悲惨なことはないでしょう? もしかすると、彼女はまだ狙われているのかもしれない」

「…利用価値がないから見放された可能性もあるだろ」

「それなら、私に接触を禁じる必要はないですね。報酬の大幅な増額には口止め料も含まれているでしょうから」

 静馬は頭をかいた。

 正直、静馬には荷が重すぎる話だった。

 一介の学徒が陰陽寮だの生徒会だのが関わる話に関わることなでできるわけがない。そもそも後見人が現れるまでのつなぎ、というのが本来の役割だ。

 所詮、半年後の紅祭までの間、一緒に過ごす下宿先の人間である。

 だが——それでも、今は彼女が頼る人間はほかにいない。

 答えは決まり切っていた。

 あとは前向きになるか、成り行きに任せるかだったが、前向きに行くことに静馬は決めた。陰陽寮とのつながりもできるし、なにかあった場合には少しぐらい力になってくれるだろう。

 最低でも脱臼させられた分は返してもらわなければ。

「わかったよ。あんたに協力する」

「じゃあ、私達は友達ですねっ?」

「…もう、なんでもいいよ」

 静馬の言葉に三原は気色ばんだ。

 こいつ、友達いないのか。

 思ったことは口にせず、静馬はため息を吐いた。

「さぁ、長話も終わったことですし、おうちに帰りますか。いいかげん夕飯の時間ですからね」

「え? 連絡とかどうすんだよ?」

「用があれば私が呼びます。静馬君も用があれば呼んでください。どこでも駆けつけますから」

 そう言って、三原は笑みを浮かべる。なんか気持ち悪いな、こいつ。静馬は自身の感情を極力無視して同意した。

「おれも腹が減ったな」

「それは丁度いい、今晩のおかずはとんかつらしいですよ」

「なんで知ってんだよ、お前」

「そうそう、それと最後に」


「彼女の言葉を信用し過ぎないようにしてください。あれでなかなか裏があるようですので」

 

                  *

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