『猟域の射手』【急】




 弾丸に吹き飛ばされ、根こそぎ持っていかれそうになった途切れ途切れの意識の中――男は走馬灯のような夢を見た。

 川に流された灯篭のように、懐かしい記憶たちは、浮かんでは沈み、灯火ともしびはその手に掴む間もなく、光のように速く虚しく、通り過ぎてゆく――。



 ――タケさん、ねえ、タケさん。

 幼馴染の女の子から、自分にはあまり似つかわしくないその愛称で呼ばれるたび、少し戸惑った。幼い頃は「タケちゃん」「ユエちゃん」などと呼び合っていたが、年頃にもなってくるとなぜか恥ずかしいもので、自分はいつしか、呼び掛けられても「うん」「ああ」などと、曖昧に、相手の名前を極力呼ばないよう、はぐらかすようになっていた。

 父と母共通の友人であり、ユエの父親でもある神前征嵩しんぜん ゆくたか氏が師範を務める弓術道場では、ユエも幼い頃から弓を取り、汗を流していた。実を言うと幼い自分がこの流派に入門しようと思ったのも、そんな彼女の、弓を引く凛とした姿に心を奪われたからに他ならなかった。

 彼女の「静月ジン・ユエ」という大陸系の名前は、ユエの母親――静海ジンハイさんの姓を名乗ったものだ。静海さんは中華から移民してきた豪商の令嬢で、物見遊山に訪れた神社での神前儀を観覧した折りに、弓を取って舞う征嵩氏を見たのが、二人の出会いだったと聞いている。儀式の後に、演舞と奉射ぶしゃを絶賛していた豪商夫妻の要望で、神主が引き合わせてくれたのだそうだ。

 出会ってから二人が結婚を決められるまでは、そう時間は掛からなかったらしい。結婚の際、静家夫妻から出された条件は「娘の姓を変えないことと、生まれてきた子供にもジン姓を名乗らせること」だけだった。これを承諾することで、一人娘が家を出て二人が一緒になることを許してもらったらしい。静家の先祖が弓を得意とした武将だったことと、そして何より親日家で日ノ本文化を愛好する商人夫妻にとって、征嵩氏の「弓術道場の跡取り息子」という肩書が、大いに気に入られたらしかった。「矢が当たるから、商売も当たる。縁起がいい」などと、冗談も言っていたそうだ。

 征嵩氏は、その条件を一も二もなく飲み込み、反対する自分の親族を説き伏せて回ったのだという。「私の一目惚れだったからね」と、愛妻家で子煩悩の征嵩氏が照れながら語られるのを、自分は何度か聞かせてもらったことがあった。

 もちろん、子供同士の世界だと、そんなユエの名前のことで揶揄う者も少なからずかいた。だが、自分は気にならなかった。綺麗な名前だな、と思っていた――。

 幼い頃の自分は、的心を射止めるたびに彼女に褒められるのが嬉しくて、必死で弓を練習した。的の真ん中を射抜いたとき、横で自分のことのようにはしゃぎ、喜んでくれる彼女の顔を見るのが、道場で一番の楽しみだった。

 だが、中学生ほどに成長すると、自分の矢は、一時期、全く的に当たらなくなった。苛立ちとともに焦りを感じる青二才の自分に、師匠である征嵩氏は「雑念があるからだよ」と優しく諭した。

 確かに、幼い頃の「ユエちゃんのよろこぶ顔が見たい」という純粋な気持ちなら、まだそれでも良かったのかもしれない。異性として意識し始めてきたのが、影響したのかもしれない――急に、自分の未熟さが恥ずかしくなった。だが、それは同時に、自分が真剣に弓術に興味を抱く切っ掛けともなった。

 自分は、師範に言われた、「頭をからっぽに。射つときは、空洞の心を広げて、的まで包み込むようにして射ちなさい」という言葉に、心を奪われた。それを機会に、より一層弓術の奥深さにのめり込んでいった。頭の中の「雑念」を払い、弓術に没頭することに専念した。マメが潰れ、固いたこができ、弓手の指の肉がこそげ落ちるまで、弓を引き続けた。

 もともと少なかった会話も減り、一心不乱に矢を射る自分を、心配そうに――それでも笑顔で見守ってくれるユエの表情は、どこか寂しそうだった。

 それからもずっと、いつも彼女は自分のそばに居てくれた。

 練習していると、終わる頃にはいつの間にか横にいて、タオルや水を渡してくれた。

 常に血豆の潰れている手に、優しく薬を塗って、テーピングを巻いてくれた。

 社会人になっても職場の帰りに道場に通い続ける自分に、毎日弁当を持たせてくれた。


 ああ、自分の横には、この人がいなくては駄目なんだな、と、改めて思った――。


 気が付けば「結婚しよう」という言葉が、考えるより先に、口から出ていた。毎年二人で行くことにしている、元旦の初詣の帰りだった。寒いなか、正月休みでシャッターの締まりきった商店街を並んで歩きながらだった。

 それが、不愛想な自分の精一杯で、言葉は素っ気なく、ムードも何もあったものではなく、言ってから、自分で頭を抱えそうになった。

 だが、彼女はその申し出を、快く受けてくれた。

 そのときのユエの笑顔は、長年自分に向けてくれていた、心配症で寂しげなものではなく、子供の頃、自分の横ではしゃいでくれた時のような、純粋な――。

 そうだ、自分は、あの頃からずっと、この笑顔が見たかったんだと――なぜかすごく、安心した。


 翌月、自分は神前流弓術奥伝の印可を受け、その際、征嵩氏と静海さんに、ユエと一緒に、自分たちの気持ちを打ち明けた。昔からの付き合いであるご両親は、とても喜んでくれた。

 これからだった。

 これから……だったんだ――――。

 自分とユエが一緒になることは、ついに無かった。





 大空を舞う鷹や鷲などの猛禽類は、遥か千五百メートルの上空からでも、地上の小動物のわずかな動きを見分ける事が出来るという――。

 箭筈武紀は、おおよそそれに匹敵する視力を持つ。

 アフリカなど広大な草原で狩猟を行う原住民の戦士にも、視力6.0を超えるような者がいるらしいが、箭筈の目はそれ以上のものだ。弓を扱う術者には何よりも「目の良さ」が求められるが、彼は生まれ付いた頃からその異常とでも言うべき才能を手にしていた。

 そんな彼の慧眼が、ビルに向かってくる帯刀刑事の姿を捉えるのは容易いことだった。

「しぶとい相手だが、今度こそ――」

 正確に的を射抜く一番の方法は、「的を射ようとしないこと」だ。立禅――弓道は「立ったままで行う禅」だと言われている。「くう」に至れば、狙わずとも、おのずと矢は的心を射抜いてくれる。

 箭筈は心を落ち着け、矢筈を取った。


 ―――もし彼が功を逸ったり、憎悪に任せて弓を構えたりしていれば、〝それ〟を躱すことは出来なかっただろう。


 王を狙って弓を引いたその瞬間。研ぎ澄まされた彼の感覚は、自らに向けて撃ち込まれたライフル弾の存在を感知した。

 顔を逸らす。尖った被甲弾頭は彼の右眼球を抉り抜き、そのまま眼窩に沿って蝶形骨と頬骨の一部を粉々に破壊しながら通り抜けて行った。


「っ……くぁッ!」

 鮮血。目の前が真っ赤になり、うつ伏せに倒れ込むようにうずくまった。

 一瞬だけ、気の拠り所を失いかけ、走馬灯のようなものさえ見えた気がした。

 嗚呼。もう、このまま、楽に――。


「(楽に……だと?)」

 馬鹿な。今や彼を支えるのは、どす黒い怒りと憎しみだけ。それらが箭筈に「休む」ことなどを許してはくれなかった。

 南無八幡大菩薩、南無八幡大菩薩――。佛々ぶつぶつと、流派に伝わる呪文を気付け代わりに呟きながら、箭筈は立ち上がる。

 この期に及んで神頼みに走ったわけではない。深く習慣付けていた行動を反復することにより、精神をニュートラルに戻し、自己暗示や精神統一、意識回復を図るメンタルテクニックのひとつだ。

 ――ダメージは深刻で、動揺も大きい。箭筈は、このような状況に陥った経緯を、冷静に敗因を、分析する。

 狩人にとって、獲物を狙い撃つ瞬間という、その唯一の隙を。最高潮に達した集中力がただ一点に注ぎ込まれる、わずか一渺一埃にも満たぬ瞬間を、逆に狙われた。流血する顔面を押さえながら、相手のほうが一枚上手だったことを、箭筈は甚く痛感した。

「(潮時だな――)」

 俺は一体何をしているのだろう、と箭筈武紀は自問した。内に押し込めていた疑問が、決壊した堤防から溢れ出るかのように、一挙に去来する。

 そもそも復讐など、彼女が望んでいるとでも思っていたのか?

 ――分かっている。

 そんなことをしても、ユエが帰ってくるわけではない。

 ――当たり前だ。

 憎しみに憎しみで応報するのは、むなしいことだ。

 ――だからどうした?

 ――どうしても、あいつの喉笛に、牙を突き立ててやりたかった。

 彼女はもう、失われてしまった。永遠に。その事実の前では、どんな言葉も、箭筈の芯には響かない。

「征嵩さん、貴方の教えてくださった技をこのようなことに使ってしまい……許して頂こうなどとは、思っていません……」

 修羅畜生道に身を堕とした今更、尊敬する師のことを「師範」などと、ましてや「お義父さん」などとは、口が裂けても呼べなかった。

 誇りも、思い出も、全て捨てて、ただ、一匹の獣を追う狩人になることを選んだ。

 そして、悲願であった獣を討ったとき、自分もまたうの昔、一匹の獣になってしまっていたことに、気が付いてしまった。

 これだけの命を奪っておきながら、感じることは何も無い。躰も痛むが、中身がとうに壊れてしまっているのだから、その容れ物がいくら損壊しようとも気にもならない。

「だが、あいつ――」

 ――たった今、自分の右眼を撃ち抜いた狙撃手。弓に取り付けられた補助用の望遠スコープで顔をはっきり見る事が出来た。

 ほんの一瞬だったが、あれは、自分と同類の目だった――と、彼は確信した。一度は壊れてしまった者の目。なぜあんな奴が、警察なんてやっているのか。


「……どうでもいい」


 箭筈武紀は弓を杖代わりに起き上がった。まだ、終わっていない。屋上とビル内の階段を繋ぐドア。その向こうから、近付いてくる気配を感じる。

「パキン」と高い音がしたかと思うと、ぶち破られたドアが、箭筈に向かって急突進してきた。刀使いの刑事だ。相手は斬撃でドアの蝶番を破壊し、そのまま体当りをかましたのだろう。鉄製のドアを目隠しと盾代わりに利用し、死角から猛突進してくる。

 まずはとにかく一矢。予想通り、スチールのドアを貫くことはできず、矢は力なく地面に落ちる。

 飛んできたドアを大きく側面に回り込みながら回避、相手の姿を捉えての、二射目。王は身を低く屈めながら走り込み、矢を躱しながら更に距離を詰める。

 三射目、刀で払いのけられる。

 刀の間合い。強烈な刺突。特殊合金の弓、その胴の部分で受け流す。

 懐から匕首あいくちを抜いている暇はない。巨大なロングボウを薙刀のように取り回し、上段、中段と二連の打撃を与えるが、王は危なげなくそれぞれ払い受ける。

「(慣れないことはするものじゃないな……)」

 接近戦に慣れていない箭筈は当然苦戦する。王にも左肩と左腕の負傷というハンデがあるはずだが、無理して動かしているのか両手でしっかり柄を握り、力強い斬撃を繰り出している。

 王の袈裟斬りを弓の身で受け止める。鍔迫り合いのような押し合いになった。このままだと押し負ける――彼は一瞬で優劣を判断し、すかさず太腿の矢筒から矢を取り出した。それを弓に番え、鍔迫り合い状態からゼロ距離の弓撃を見舞う。

「なんッ……!!」

 王が慌てて頭を下げる。矢は四射目ともなると相当な威力で、背後にあるコンクリートの壁を易々と貫いた。

「(やべえな……あんなもん、次も躱せる自信ねえぞ……)」

 矢を放ってからすぐに身を翻した箭筈が、回転しながら長弓で王の足下を掬おうとする。

 跳び上がって、特殊合金弓での足払いをやり過ごす王。落下の勢いに合わせ、刀を振り下ろす。箭筈は両手で弓を頭上に掲げ、防御。威力に負けて膝をつきそうになる。


「……ぉぉおおぉおおおぉぉオオオオオオオ゛!!!!」


 ――叫びながら、箭筈は本当に久々に、己の生を実感した。こんな大声を出したのは生まれて初めてかもしれない。それほどの咆哮だった。箭筈武紀は渾身の力で王の刀を押し返し、体当たりを喰らわせた。

 普通なら、弓と矢を得物に使うような輩は、どちらかというとスマートな体型、非力そうだと――そういったイメージがあるかもしれない。しかし、実際にいくさ強弓ごうきゅうを引けるような者は、弓取りの中でも限られた剛の者だけだったと言われている。特に、威力を出すために改造された箭筈の合金弓は、弦を絞るだけでも相当の背筋力、上腕力、そして体のバランスを固定する全身の力が要求される。

 それ故だろう――――その底力には、王の想像を絶するものがあった。

「ぐあっ!!」

 王は数メートルも突き飛ばされ、貯水タンクに頭を打ち付けた。「ゴガン!」と大きな音。すぐさま起き上がろうとするが、間に合わなかった。敵は既に矢を番え、それを王に向けている。この距離だと、どう考えても飛び道具を持っている箭筈のほうが、速い。

「……悪いな、詰みだ」

 それは確かな処刑宣告だった。王は目の前の処刑者、箭筈武紀の虚ろな瞳を見つめ返す。死んだ魚のように濁った、悲しい瞳――――。

 息を荒げながら、王が言う。

「なあ……もうこんな事、終わりにしねえか……?」

 決して命乞いなどではない。箭筈の姿を見て、自然と口を衝いて出たものだった。それほどまでに、理由なき戦いを続ける箭筈武紀の姿は痛々しく、憐れだった。

「もう、遅い……」

 箭筈の表情は変わらない。疲弊と諦観の漂う表情だった。

 特殊な化学繊維で寄り紡がれた弦を、きゅう、と限界まで引き絞る。今にも矢は放たれんとしている。

 ――そのとき、屋上に大きな声が響き渡った。


「――――遅くなど、ない!!」


 王によって突き破られたドアから、何者かが乱入した。そこに現れたのは、スナイパーライフルを構えたペクだった。しっかりと箭筈に向けて照準を合わせている。

「ペク、お前……ッ!!」

「来たか――」

 箭筈は別段驚いた表情を見せなかった。まるで、最初からこうなることが分かっていたかのように。

「大人しく武器を捨てろ、箭筈武紀。この状況で、お前に勝ち目はない」

 ペクが宣告した。王も立ち上がり、刀を構える。

 確かにこの状況で王が刀を振りかざし突っ込めば、向かい合っている箭筈は弓矢で迎撃する必要性が生じる。例えその一射で王を仕留められたとしても、続けざまにペクを狙おうとすれば、どうあがいても二射目には間に合わない。逆に今からペクの方を振り返って一か八かの相討ち狙いを仕掛けても、突っ込んできた王に斬られるのがオチだ。つまりどちらにせよ、今弓に番えられているこの一矢を放った瞬間に、箭筈の敗北は決定するということだった。

 しかしそんな事さえも、壊れてしまった復讐鬼にとっては、どうだっていいようだった。

「今さら投降して何になる。俺にはもう、何もない。全部失くしてしまった――」

 三者は膠着状態に陥った。この三人の内、誰か一人が絶対に死ぬ――そんな状況なのだから無理もないだろう。

「――ペク、こいつはもう後戻りできない所まで来てる。放っておいたら壊れていくばっかりだよ。オレのことは気にするな。奴がった瞬間、お前も撃て」

 この男をここで止める方法はもう、他にない――王が覚悟を決めた。たとえ自分が犠牲になろうとも、これ以上異能犯罪者による被害を増やさせるわけにはいかない――。

 しかし、返ってきた返事は――

「断る」

の一言だった。

 ペクは敵から照準を外し、箭筈と王、二人の間の空間に向けてライフルを構え直した。

 常に論理的に行動するペクらしくない、理解不能の行動に、王は驚きを隠せなかった。

「なっ、馬鹿野郎このメガネ! 何のつもりだ!!」

「うるさいな、茶髪サムライ。一人で勝手に格好を付けるな」

 狙撃手は膝射しっしゃ姿勢でSVDを構える。座った状態で片膝を立てて、そこに肘を置き、両手と肩、そして頬で銃身を固定する。

「まさか――――」もめ合う二人の刑事をよそに、箭筈だけは、ペクの狙いに気が付いた。


「俺の矢を、撃ち落とすつもりか……?」


 不可能だ――と彼は否定する。「すでに矢は五射目――人間を相手にこれほど射を重ねたのは初めてだが、速度、威力共に計り知れない領域に達しているはずだ」

 弓矢の初速は平均的なロングボウでもおよそ時速 200km 以上――つまり箭筈の撃つ矢は二射目で亜音速、三射目で優に音速を超える事になる。

「……試してみなければ分からないだろう?」

「無理だ! 奴の四射目の矢を実際に見たが――いや、まあ正確には『見えなかった』んだが――あんなもんオレだって躱せねえ!!」

 大真面目のペクに、今度は王が反論を加えるが、そんな同僚の忠告も届かない。

 敵の引く弦はきりきりと軋む音をたて、いつその矢が弓から離れてもおかしくない状況だが、それに反して箭筈の表情はまるで悟りきった修行者のように静かだった。

「(今ならドラグノフのライフル弾よりも、敵の矢の方が遙かに速い。同時だと間に合わない――奴の殺気を読み、先にトリガーを引く必要がある)」

 ペクは持ち前の集中力と鉄の心臓を最大限に発揮させ、「真実の瞬間」を待ち構える。〝暗夜に霜が降る如く〟――狙撃手は只、静かに丁寧に引き金を引けばよい。

 極限の緊張状態にもかかわらず、まるで冬の湖のように静かな二人の狩人。その間に挟まれ、ただ一人、王だけがどうしていいのか分らず冷や汗を流していた。


「王、お前は絶対に死なせない――俺を信じろ」


 ペクのその一言で、狼狽えていた剣士は落ち着きを取り戻し、「ふぅ」と溜め息をつく。

「ったく……カッコつけてんのはどっちだって話だ。もし無駄死になったら、化けて出てやるからな」

 王は愛刀を鞘に納めた。居合――自分の最も得意な型でけりをつける。

 納刀と同時に爆発的な一歩を踏み出した王。そこから起こったことは全て、一瞬だった。

 狩猟者箭筈武紀は、矢を、猟犬の如く獲物の喉笛に喰らい付くのを今か今かと待ち構えていたその一矢を、全霊を込めて解き放った。

「(射る……!)」

 ――それは、矢と言うにはあまりにもはやすぎた。あまりにもつよく、あまりにも鋭いその一撃は、全てを置き去りにして標的に突き進む、絶命必至の一撃――。

 ――しかしその直前、箭筈の殺気を感じ取り、ペクもすでに動いていた。

 これまでに狙撃手として培ってきた全てを、この一撃に集約する。


「(――――――今だ!!)」


 トリガーを引く。

 全てがスローモーションに。本来ならとても肉眼では捉えられない世界。その一瞬を、ペクは視た。

 己の放った弾丸は、光速にも近い速度の矢を完璧なタイミングで捕らえ、その鏃を完全に打ち砕いた。

 矢の威力に相殺された7.62mm弾も、木っ端みじんに砕け散る。ぶつかり合った金属と、火花。それはまるで、お互いの命がぱんと弾けた花火のようだった。

「(なんということだ……!)」

 箭筈は今起こった出来事に対して、驚愕するよりもむしろ、ある種の感動を覚えてさえいた。しかし、合理的な思考に支配された彼の躰は、もはや間に合わないと分かっていつつも、機械のように半自動的に動き、素早く次の動作に取り掛かっていた。

 太腿のベルトにくくり付けた矢筒――そこから矢を取り出すまでの彼の手つきは、恐ろしく速く、素晴らしく熟練されていた。まるで何十年も研鑚を積んだガンマンの早抜きのような動き。が――

「間に合うかよっ!!」

 既に居合の殺生圏にまで達していた王の黒鞘から、白刃が閃いた。斜め上に、直線的な軌道で突き出すような抜刀術。矢を持っている右腕、弓使いにとっての〝馬手〟を見事に斬り落とされた。くるくると宙を舞う右腕。肩の断面からは、ほとばしる大量の血液。

 これでもう弓は撃てない、決まりだ――王はそう確信した。

 だが。

 それでも尚。

 目を抉られようとも。

 腕をもがれようとも。

 箭筈武紀の闘志は、全く衰えを見せなかった。

 最後の最後に秘めたる闘争本能を爆発させた箭筈武紀は、本当に、獣のような目をしていた――。

 

 彼は、宙を舞う自分の〝元右腕〟に握られていた矢を、歯で咬み付いて掴み取ったのだ。そのまま箆を口で咥えながら、矢筈を弦に引っ掛け、首の力で思い切り引っ張った。

 これが真に最後の一撃――――ペクの方を向き直る。相手の息の根を止めるべく、矢の先を心の臓へと狙い定めた。

 ペクも、相手のほうを向き直り、もはや一匹の獣へと成り果てた箭筈の殺意と真正面から対峙した。

「(片腕を落としたくらいでは止まらない、か――!!)」

 次弾を撃ち込むべく、ライフルの銃口を向ける。狙うはもう片方の腕――〝弓手〟だ。どうにか生かして捕えられないかという希望に賭ける。

 矢と弾丸は、同時に発射された。


 すれ違う鏃と弾頭――それらは微かに擦れ合い、お互いの運命を僅かに狂わせる。


 ――結果はまるで二人の思惑を逆転したものになった。命を狙った箭筈の矢は、ペクの頬の肉を掠め取るだけに終わり、急所を外そうとしたペクの弾丸は、見事に箭筈の胸の真ん中に着弾したのだ――。

 箭筈は仰向けにどっと倒れ込む。うっすらと曇った夜空が見えた。矢張り月は出ていないようだ――。

 まだ息はあるが、今度こそ本当に何も、手は残されていなかった。――まさに〝弓折れ、矢尽きる〟という状態。だが、完全に燃え尽きた分、頭の中は少しだけスッキリとしている。

 狩人は、獣を狩り過ぎたあまりに獣に取り憑かれ、そして全てを吐き出して人間に戻った――。


 ペクと王が、大の字で寝転がる箭筈の元に歩み寄った。

「こりゃもう、助からねえな……」

 王の言う通り、箭筈武紀は確実に己の死を感じ取っていた。

「何か言い残すことはあるか――?」とペク。

 その問い掛けに、箭筈は静かに口を開いた。

「つ……き……」血泡ちあぶくとともに、消え入りそうな声が漏れる。


「……月は、出て……いるか……?」


 箭筈の視界はどんどん真っ赤に染まっていく。目が霞んで、景色もよく見えなくなっていた。

 ペクは彼の代わりに空を見上げる。

「いや――――」

 相変わらずの、曇り空。

 それを聞いて、箭筈は微かに笑みを浮かべた。

「……そうか、彼女に……不様な姿を見せずに……済む」


 ――どうせ俺は、ユエと同じ場所には逝けないのだから。


 疲れ果てた狩猟者がいよいよ目を閉ざそうとした、その時だった――。

 まるでタイミングを計っていたかのように雲が割れ、そこから月が覗く。

 死に往く者を優しく見守るような、静かに佇む月――。

 箭筈武紀も、確かにそれを見た。

「……こんな俺を、許して……くれるのか……?」

 月に向かって手を伸ばす箭筈の目は、もうこの世の風景を見ていなかった。彼の目に映っているのは、きっと―――。

 たとえ間違っていようとも、それが幻に過ぎなくとも、誰にも彼の見ている風景を否定する権利はない。


「嗚呼、死ぬにはいい夜だ――――――」

 箭筈武紀は瞼を下ろし、眠るように事切れた。


「――そうだな、死ぬにはとてもいい夜だ」

 ペクは頷いた。

 本当は言ってやりたかった。違う。許すのも許されるのも、結局は生きている者だけの特権なのだ――と。けれどもペクは、憑き物の落ちたような箭筈の死に顔を見て、その言葉を飲み込んだ。

 王もペクも、しばらくの間無言で死体を眺めていた。

 これだけの事をしておきながら、この男は勝手に救われ、死んでいった。

 ペクは、自分と似た匂いを持つその男の死が、妙に物悲しくて堪らなかった。けれどもすぐに首を横に振った。

 いや、〝猟域の射手〟はようやく弓を置き、休むことができたのだろう――――そう思う事にした。





(―猟域の射手―完)






 ――その日、王は疲れ切っていた。

 数日前、箭筈武紀との闘いで散々市街地を走り回されたうえ、怪我した同僚を担いだり自分も大怪我したり、その果てには事件に関する報告書や始末書などを大量に提出しなくてはならなかったのだ。ここ数日間は休んでいる暇など全くなかった。

 しかしようやく戦は終わり、〝弓は袋に太刀は鞘〟とでも言ったところか。先日の死闘、街中の混乱とその尻拭いに奔走した忙しさを思うと、その日はまるで嘘のような平和さだった。

 箭筈武紀の死体はその後、神前流弓術師範の神前征嵩、そして静海夫人の強い要望で、異能研究機関に渡ることはなく、夫妻のもとに引き取られたという。事の顛末を聞いたペクと王は、何とも言えない神妙な気持ちになった。


 だが、引き摺ってばかりもいられない。事件に幕を引いた当事者たる王たちはというと、後始末にもようやく一段落がつき、二人で溜まった鬱憤を晴らすために、そして悲しい闘いの記憶に区切りを付け、次に起こるかもしれない事件に備えるために、こうして安居酒屋まで一杯やりにきた――というわけである。

 彼らが仕事上がりの一杯をやるために寄った居酒屋は、老朽化したオフィスビルの立ち並ぶ街の一角に、隠れ家のようにひっそりと営業している。そこは数人で下らない冗談を言い合う大学生たちや、土木業などの肉体労働者、そして互いに愚痴をこぼし合ううだつの上がらないサラリーマンなどが、それぞれ職場や学校から「我が家」へ至る帰路の途中に、ちょっとした「隙間」を求めてやって来るような――そんな場所だった。

 故に、王たち〝黒ずくめの刑事二人組〟という組み合わせは、その店の中においてはかなり浮いた存在だったかもしれない。



「誰もやりたがらない――か」

 王は、狙撃手が言ったその言葉を反芻した。

 戦場において、腕の良いスナイパーは恐れられ、そして忌み嫌われる。味方からは畏怖を、敵からは憎悪を、その一身に受けることとなる。

 そもそも歩兵が隊列を組んで弾をばらまく「戦争」という舞台では、どうしても一対一での「殺人」が成立し難い。極限の状況下で、誰が誰を撃ったのか、誰が誰に撃たれたのか――そのようなことは、敵味方ともに追及することはない。極論すれば、全員が加害者であり、また被害者でもありえるわけだ。

 ――しかし、スナイパーだけは別である。

 彼らはスコープ越しに標的と相まみえ、明確な殺意を持って引き金を引く。一対一で対象と向かい合い、命を奪う。その際、何も気付いていない相手の命を、一方的に、自分の人差し指のわずかな動きで左右できる。

 その「作業」が狙撃手に与える苦痛とストレスは、おそらく計り知れないものなのだろうなと、王は思う。

 そして何より、スナイパーは捕虜になれない――。

 戦時国際法には「捕虜となった者には危害を加えてはならない」という条約がある。しかしスナイパーは敵軍に投降しても、仲間を殺した報復として酷い虐待を受け、あまつさえ惨殺されるようなことさえあったという。

 それらの事を思うと、王にはペクの言った「誰もやりたがらない」の意味が、少し分かるような気がした。


「それで、お前さんは皆の嫌がる仕事を進んで引き受けた――ってワケかい」

「そんな立派なものじゃないさ。ただ、俺にはもう、それしかなかったから――」


 彼は、今まで他の同僚には話したこともなかった戦場での体験を、グラスを傾けながら訥々と語り出した。

 王も、強めの酒をちびちびやりながら、その話に耳を傾ける。二人はなんとなく気恥ずかしいのか、向き合わずに、ただひたすらカウンターの前方ばかりを見つめていた。

 いつも真面目で不愛想なこの同僚は、今、どんな顔をしながら昔語りをしているんだろうか。

 ちらりと同僚の横顔に目をやってみる。ペクはどこか遠くを見るような目で、少し寂しそうな――微笑んでいるような、泣いているような――そんな顔をしていた。


 先日の闘いで王は実感した。

 こいつも箭筈武紀と同じ〝猟域〟に住まう者なのだ――と。

 〝狩人〟でありまた〝獣〟――狩った獣の業を喰らっては、命を奪い続ける者達。

 この孤独な狙撃手は、これからも領域テリトリーの中で待ち望み続けるのかもしれない。自分と同じ〝狩人〟が、そして〝獣〟が――いつか現れてくれることを。

 そんな同僚が一瞬だけ見せた寂しそうな横顔を、王は生涯忘れる事が無かった。




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