恋は盲目というけれど

恋は盲目というけれど

瞼を開け、最初に目に飛び込んできたのは黒く塗りつぶされた"誰か"の顔だった。

「華月(はづき)! よかった……」

"誰か"は私の名前を呼ぶと両手でベッドに横たわる私の頭を優しく撫でた。その手の温もりと感触があまりにもリアルで、"誰か"の顔が黒く塗りつぶされて見えないことは、夢ではなく現実のことのように思われた。

「講義中に急に倒れてびっくりしたんだから」

"誰か"はほっとしたような少し怒ったような声で言う。この声、聞いたことがある気がする。でも誰の声なのか分からない、思い出せない。人は声から忘れていくというから、多分声の記憶は曖昧なものなんだろう。その曖昧なものしか"誰か"が誰なのかを知る手掛かりがないのだから、分からないのも仕方ない。

「あの、どちら様ですか?」

私はベッドから起き上がると、思い切って"誰か"に尋ねた。と、その瞬間、空気が凍った。

「華月、俺だよ。葵(あおい)だよ。忘れちゃったのかよ……」

え、あ、葵だったの、この声。嘘でしょ。私、生まれた時からずっと一緒にいる幼馴染の声すら分からなかったの? そのことがとても腹立たしくて、私はぐっと両手を握りしめた。

「ごめん、葵。忘れたわけじゃないの」

私は黒く塗りつぶされた"葵"の顔に目を向ける。

「葵の顔がね、見えなくなっちゃったの」



「どうして葵の顔だけ見えなくなったんだろう……」

その日の夜、私は自分の部屋でそのことをずっと考えていた。あの後、葵はそうなんだとだけ言って何も聞いてはこなかった。顔が見えないから葵がどんな表情で言ったのかは分からないけれど、少し嬉しそうだった気がする。でも、自分の顔が見えなくなったと言われて嬉しいと思うなんて、そんなのおかしいから気のせいかもしれないけれど。

「写真も黒く塗りつぶされているとか、訳分かんない」

もしかしたら写真なら葵の顔が見えるかもしれない。そう思ってスマホの画像やアルバムの写真を見てみたのだけれども、全部葵の顔だけ黒く塗りつぶされていた。本人の顔も見えない、写真の顔も見えないなんて、私はもう葵の顔を見ることができなくなってしまうんだろうか。葵の顔、忘れてしまうんだろうか。声も曖昧にしか覚えていなかったのに、顔も分からなくなってしまったら……。

「これじゃあ私、葵のこと分からなくなっちゃうよ」

自分の口から零れた言葉なのに、妙に恐ろしく感じて私はベッドにもぐりこみ瞼を閉じた。目が覚めたら葵の顔が見えるようになってますように、そう願いながら。



翌朝、いつものように葵が私を迎えに来た。きっと葵の顔、見えるようになっているはず。私はふうと息を吐き、玄関のドアを開けた。

現実は残酷だというけれど、本当にその通りだと思う。目の前に立つ葵の顔は黒く塗りつぶされていた。

「華月、大丈夫?」

葵が心配そうな声で言う。多分ひどい顔をしてたんだろう。

「だ、大丈夫だよ。行こっか」

私は葵に心配させまいと、頑張って笑顔を作り彼に向けた。


嫌だ、なにこれ、怖い怖い怖い。大学に着いた私と葵は講義室で講義を受けていた。この講義はどの学部の人でも受けられる、いわゆる共通科目だから受講している人数も多い。こんなにもたくさんの人がいる中で私は葵を分かることができるんだろうか。顔が分からない、声も曖昧にしか分からないのに。葵が私の方に来てくれなかったら分からないんじゃないだろうか。ずっと一緒だった葵のことが分からなくなるという不安に苛まれ、講義の内容なんか一つも耳に入らなかった。



講義が終わり、隣に座っていた葵が立ち上がった。

「あ、おい」

私は葵がどこかへ行ってしまうような気がして、思わず葵の服の袖を掴んだ。

「華月」

葵は私の名前を呼ぶと、優しく頭を撫でた。

「俺はどこにも行かないから」

葵は昔からそうだ。頭を撫でながら、私が欲しい言葉をくれる。顔が分からなくても、声が分からなくても葵が葵だと分かるところはあるんだ。

「華月、中庭に行こう。話したいことがあるんだ」

「うん、分かった」

話したいことってなんだろう。ここじゃだめなのかな。と、いろいろ考えながら私は葵に連れられ中庭に向かった。


「華月は"恋の病"って知ってる?」

木陰のベンチに座り、青い空を見上げながら葵はそう聞いてきた。

「"恋の病"? 好きすぎて何も手につかなくなるとかそんな感じのこと?」

「そう。たいていの場合はその程度で済むんだけれど、たまにもっとひどい症状がでることがあるんだって」

「ふーん。例えば?」

「好きな人の顔が見えなくなるとか」

「え?」



葵が言った症状はまさに私の今の状態そのものだった。ということは私は葵のことが好きすぎて顔が見えなくなったってこと?

そう考えたら急に恥ずかしくなって、私は顔を真っ赤にしてうつむいた。

「ねえ、華月。俺の顔が見えなくて不安なら、俺のこと好きじゃなくなればいいよ」

そうすれば、また俺の顔見えるようになるから、葵は少し震えた声でそう言った。

「……そんなこと、できるわけないじゃん。なんでそんなこと言うの!」

私は勢いよく立ち上がると、葵の前に仁王立ちした。

「確かに葵の顔が分からなくなるのは怖いよ。でも、それは葵のこと好きじゃなくなる理由にはならない」

葵の黒く塗りつぶされた顔に手を添え、私は葵の頬の辺りに口づける。

「私が葵の顔分からなくても、葵が私のそばにいてくれるなら大丈夫」

そう言って私は葵に微笑みかけた。

「……華月にはかなわないなあ」

葵はそういうと私の唇にキスをする。

「仕返し」

「顔が見えてるからってずるい!」

さらっと私のファーストキスを奪った葵に抱き着き、私は葵とのこれからに思いを馳せた。



思いを募らせると世界から色彩が消える病にかかった俺の世界にはもう白と黒しか残っていない。神様、どうかもう少しだけ。俺の世界に白色を残しておいてください。

抱き着いてきた華月の頭を撫でながら俺はいるかどうかも分からない神様に祈った。

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