キス、嫌い。

天乃凛

プロローグ【昼顔母】


『奥さん……ダメですよ……』


張りのある男性の声。


『大丈夫よ。私に任せてくれれば』


色欲の声を出しているのは……母なの?




男性の乱れた呼吸音が響いている。



『名前で呼んで、私は椿(つばき)よ』

『つ、つばきさ…ん』


男性の声が母の名を呼ぶ。

見た事の無いスニーカーが玄関にあった時点で嫌な気がした。



若い男の子が履くようなくたびれたスニーカー。

息をひそめながらリビングを覗く。


本当に、ちょっとした興味本位だった。


ティーン雑誌の後ろの方に載っている、少しエッチなコラムや相談室。

それらは作られた話だと心のどこかで思っていたのに。





でも私が目撃したのは、まさにそれ。






そう、もう『母親』には見えなかった。あの日から、私の中で『母親』は『女』になり、日中に相手を自宅に連れこみ浮気をする『昼顔妻』と呼ばれる人種だったと知った。



嫌悪感で一杯。吐き気がする。

顔も見たくない。お母さんって呼びたくない。







中学3年の春、家庭教師をつけられた。

その人は有名大学の2年生。

黒縁メガネが似合う、優しい先生だった。

初めての家庭教師、優しい先生。


恋心を抱くのは当たり前で。



でも、私に優しくするのはお金の為。

そして、母親の愛人だったから。



あの日も父親が出張でいない事が分かっていた。


母親は珍しく手料理を作り、勉強が終わった私たちは一緒の食卓についた。

先生と母親はお酒を飲みながら、くだらない話をしていた。



『先生と話があるから、あなたは先に寝なさい』


すでに時計は22時を回っていた。

先生と母親の話す事はきっと私の成績の事。


聞きたくない小言を回避するように、自分の部屋に戻った。

家庭教師がついてから成績は多少上がっている。


だから文句を言われる事はないだろうけど、母親の小言は回避したい。


そんな事を思いながら携帯ゲームでポチポチしたまま、寝落ちしてしまっていた。




手の痺れを感じ、目を覚ました。

左手には携帯が握られ、右手は画面を触っている。

痺れた左手を揉みながら、身体をおこした。


喉の渇きを覚え、キッチンに降り冷蔵庫から冷えたお茶を出し、グラス一杯分を一気に飲み干す。


ふとキッチンを見れば、シンクには食器が乱雑に置かれ、コンロには蓋が開いたままの鍋が放置されている。



家の中は静まり返っている。



はずだった。




微かな物音が規則正しく。

耳を澄ませば聞こえてくる。

肌をぶつける音と叫ぶ声。




まさか……。

嫌だ……。


それを確かめるように、急いで玄関に行く。

あって欲しくなかった。


先生の靴がまだあった。

両親の寝室から聞こえる卑猥な音。


確かめずにはいられなかった。



急に帰った父親と、一緒にいる母親を思い描きながら、二人の寝室へ向かう。



音はどんどん大きくなる。



女の嬌声。


『あん……センセイもっと……』





ポタリと落ちる雫。

目の前が涙でにじむ。


母親の浮気より、先生が母親の相手をしていた事実に傷ついた。





夏になる前に、家庭教師が変わった。

きっと母親と終わったんだろう。

ふとそんな気がしていたから。


そして、新たな先生は大学4年の就職活動が終わった人。

初めの先生より厳しく、身なりもダサい。

少しマッチョで、無精ひげを生やしている。



母親の好みじゃない。

それだけで、なんだか安心した。




でも、この家庭教師も私を傷付けた。



全ては母親のせい。


私が母親を恨むには十分だった。




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