101 呼び合うものⅧ
ポタリ、と。
濡れた
ティアは手首あたりで、ぐい、と顔の血をぬぐい、
「こういう感覚か……」
はじめて持つ己の眷属に、力が流れ込んでいく。
負担はある。
けれど、新しい群れの仲間ができた、というこの気持ち。この充足感は、何物にも代えがたい。
目の前の魔法陣の中心――頭の上から浮かぶように現れ出た者が、こちらを背に立っている。上半身裸に、ズボンだけを履き、裸足である。
「バディス、体調はどうだ?」
振り返ったバディスは、うつむき加減に肩を震わせている。
「バディス?」
ティアは上目遣いにバディスの様子をうかがい、
――うわ……。
思わずたじろいだ。
バディスの顔が、涙にまみれていた。洗うように顔面を濡らしている。
「ティアざぁぁあん!」
感極まった様子で、バディスがティアの手を掴んでくる。
「わかります、わかりますよ!」
掴んだティアの手を、ぶんぶんと上下に振る。
「ティアさんが、すごく身近に感じられるんです!」
「……うん」
勢いに押され、そうだね、とティアが相槌を打っていると、
「今も、こうやって目を閉じているだけで――」
言いながら、バディスは嬉々として目を閉じた。
「すごい! ティアさんがこんなにも側にいる!」
「……まぁ、そうだろうな」
実際に近くにいるのだから、そうなのだろう。この状態で遠くに感じてもらっても困る。
「悪いが、そろそろ手を離してくれないか? 起き抜けのところ悪いが、バディスにも手伝ってもらいたいことがあるんだ」
「ええ、喜んで!」
力強くうなずいて、バディスは地下墓所から夜空を見上げた。
「ティアさんに歯向かう蛇を退治してやりましょう!」
どん、とバディスは勇ましく胸を叩く。そして、なんのためらいもなく己の首を引きちぎった。
すわ首がもげた、とティアが驚いて見ていると、その首が、憤怒の形相を描いた大盾へと変化した。
『……
ティアのまとう黒いドレスから、イスラの声が聞こえた。
「思ったよりもかっこいいな?」
ティアが同意を求めると、
『手札としては、悪くない』
「知っているのか?」
『複雑ではないが、暗黒の騎士らしく実直な能力を持っておる』
イスラと話をしている間に、バディスは
ティアはバディスの肩に飛び乗った。
「行こうか、バディス=
声をかけると、
「――御意」
重く空気を震わせ、バディスが返してくる。いつもの明るい声ではない。暗く、闇にその身を浸す者の声だ。
ティアもまた、赤い瞳を輝かせた。
「……お前は私の盾」
愛しそうに、鎧の肩部をやさしく叩く。
「だが、私のために死ぬことは許さない。もう、二度と」
「
腰の鞘から、血塗られ、黒い輝きを放つ聖騎士の剣を引き抜いた。
ウル・エピテス尖塔群。
「つくづく仕事の邪魔をしてくれる……!」
ファン・ミリアとジルドレッドから攻め立てられ、イグナスは怒りに全身を震わせた。
「バアルパードよ!」
呼応するように、握る大剣――
「――む」
ファン・ミリアが、ラズドリアの盾を展開させた。
「くっ!」
尖塔の壁面に激突する寸前で、回り込んだジルドレッドがファン・ミリアを受け止めた。
「助かりました」
「……魔法か」
ファン・ミリアを横の足場におろしながら、つぶやく。
「
「不死の力も、あの
ファン・ミリアの言葉に、ジルドレッドは無言で同意した。
「しかし、不自然だな」
言い、ウル・エピテスを睥睨する。
「これほど騒ぎを起こしているにも関わらず、人が集まってくる気配がない」
「たしかに……」
ファン・ミリアもようやくその事実に思い至った。と、その時――ふたりの目の前を、黒い陽炎をまとう騎士と、その肩に乗ったティアが駆け昇っていく。
「イグナス!」
ティアの怒声が響き渡る。
一直線にイグナスへと突っ込んでいく騎士が、黒剣を振り上げた。
「――
驚きつつ、イグナスの
「雌犬が、つけあがってくれるじゃあないか!」
蛇の瞳が、ぎょろりとティアを向く。
ティアもまた赤い瞳で睨み返し、
「お前は、ここで死ね」
胸の前で両手を交差した。その指が、たちどころに消え去った。
「
交差させた腕の部位から、太い一本の槍がイグナスの胸元を貫く。槍を通し、ティアの雷撃がイグナスの全身を駆け巡った。
「グ……グ……!」
吐血し、イグナスがもがく。
「耐えてみせろよ、イグナス」
唇を噛み締め、ティアもまた鬼気迫るうなり声を上げた。
共に感電し、お互いの髪が強風に煽られたように逆立った。その隙に、バディスの黒剣がイグナスの
「グオォォォ!」
暴れるイグナスが、腕を背後に振った。剛腕で尖塔の先を叩き折る。
「バディス!」
ティアが、イグナスを蹴って後方へと飛んだ。こちらめがけて倒れ込んでくる尖塔を、バディスの屍衣のマントが伸び広がり、巨大な手となって掴む。全身を振り、尖塔でもってイグナスを弾き飛ばした。
ティアは吹き飛んでいくイグナスを追いながら、東の海峡の遠くに、空が白みはじめるのを見た。
――時間がない。
夜明けが近づくほどに、ティアの身体が動かなくなっていく。
「これで決めるぞ」
ティアは、後方のバディスに対して手のひらを向けた、
「
力の行使とともに、バディスの前に黒い紋様の召喚陣が描かれる。その召喚陣のなかへと飛び込んでいったバディスが、次の瞬間、イグナスの背後から現れ出た。黒剣でイグナスの背を打ち弾く。
「いい角度だ」
ティアは満足げにつぶやいた。
眷属だけあって、バディスはティアの意をよく汲んでくれる。
球のように別方向に弾かれたイグナスが、ウル・エピテスの一角――イスラによって破壊された窓から屋内へと突っ込んでいく。
「……頼んだぞ、カホカ」
ティアが視線を走らせると、そこに、赤いドレス姿のカホカが立っている。
目を閉じ、呼吸を整えながら、だらりと下ろした左手を振り子のように揺らしている。
武器職人ボーシュの工房で見せた独特の構え。
引き手に溜めた右の拳が、間延びたほどの速度で放たれた。
そのあまりの遅さゆえ、実戦では使えるはずもない技が、
「――サン」
仲間の援護によって実現した。
ちょうど床に着地したイグナスに、軽く、小突くような拳が命中する。
カホカはゆっくりと目を開き、
「……入った」
イグナスを見上げ、ひひ、と死神の微笑みを浮かべた。
「かんっぺき。アタシってば、やっぱり天才」
ざまみろ、とばかりにカホカがあっかんべえをする。
イグナスの身体に、違和が起こった。
全身が、巻くように捻じれはじめる。凶悪な渦の力が骨を折り、肉を磨り潰すようにイグナスを収縮させていく――はずだった。
「げげ……!」
舌を出したまま、カホカの表情が固まった。
「てめぇ……ら……なんぞ……が……この……俺に……!」
体内のあちこちからバキバキと骨の折れる音を立てながら、イグナスが踏みとどまっている。
「殺す……皆殺しにしてやる……!」
憎悪を吐き散らしながら、カホカに襲いかかってくる。
「冗談じゃねー!」
逃げ出そうとするカホカの前に、魔法陣が立ち現れた。
そこから飛び出してきたティアが、イグナスを蹴り上げた。
再び屋外へと放り出されたイグナスに、
「とどめだ!」
ティアの両手が、輝きを帯びはじめる。
一方のイグナスのしぶとさも尋常ではない。
身体中を軋ませ、血飛沫を振りまきながらもなお、イグナスの瞳には生気が宿っている。
「
青白く輝く大剣を、ティアめがけて突き出してくる。が、ティアは避けず、
「お前ごときに、私の夢は壊せない」
心臓を刺し貫かれるままに、瞳の赤が極まった。
「上等ォォォ!」
イグナスの握り込んだ拳に、多量の力が流れ込んでいく。毒々しいまでの地獄の焔をまとう。
『いかん……!』
いち早く危険を察知したイスラが、鋭く叫んだ。
『避けよ! あれをまともに喰らうな!』
その言葉にティアが回避に入る間もなく、イグナスの拳が放たれた。
「吹っ飛びやがりゃぁ!」
「
ティアの眼前に展開された霧に、イグナスの拳が吸い込まれていく。
「お前が喰らえぇぇ!」
空間が反転するように、霧の中からイグナスの拳が逆方向に突き返された。
「な――っ!」
イグナスは自らの拳を顔面に喰らい、
「ぐっは……ナイスパンチ!」
頭の上半分が粉々に吹き飛んだ。が、それとほぼ同時に、剣を手放したイグナスのもう片方の拳が、ティアに迫っている。
とっさに腕で防御をした。
「――馬鹿者!」
緊迫したイスラの声が響く。
その時――
貴族街の方角より、光が点った。
風をまとい、緑光を宿した矢が、ティアの肩先すれすれを過ぎ去り、イグナスの肩から胸下にかけて大穴を
「天啓か……」
この勝機を逃す手はない。
ティアは左手を、残ったイグナスの胴に押し当てた。
「イースラス=グレマリーの加護よ有れ!」
祈りの言葉とともに、両の手の輝きが強まる。大きく振りかぶったティアの右手が、押し当てた左の甲に重なった。
「
自らの手を破壊しながら、かつてとは比べものならないほどの閃光が、衝撃とともにイグナスを呑み込んだ。
業火に巻き込まれた羽虫が蒸発するように、イグナスが光のなかで焼け縮んでいく。
「タオ・シフル……」
かすかな声が聞こえた。
ティアは目を見張った。パクパクと、イグナスの口が動いている。
……お前も……俺になる……。
その口が歪むように
やがて、欠片ひとつ残さずイグナスが消滅した。
『見事じゃ、ティア。しかし……』
「ああ」
イスラの声にうなずいたティアが、目を閉じた。ぐらりと身体が傾ぎ、そのまま力なく落下していく。
「……すこし、疲れた」
『私も眠る。悪いが助けてはやれぬ』
「わかっている」
ティアは最後の力を振り絞り、
――バディス、お前はカホカとレイニーを逃がしてやってくれ。
頭のなかで、念じるように告げた。
イグナスとの戦闘によってウル・エピテスの城壁を飛び越えたティアの下には、荒れ狂うヌールヴ川が大口を広げるように待ち構えている。
しかし、恐怖はない。
なぜなら……。
落ちていく宙空で、何者かに抱きしめられる感覚があった。
「……貴女が、来てくれると思っていた」
目を閉じたまま、ティアはその人へと話しかけた。
「なに?」
驚く相手の声色に、ティアはゆるく笑みを浮かべる。
「私が目を覚ますまで、側にいてくれないか? ――ファン・ミリア」
直後、激しい水音が耳を打ち、ティアは意識を手放した。
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