81 嵐の中でⅪ
迎賓館、右棟一階。
客室は暗い。
ドア付近に立つふたつの影が、寄り添っている。
カホカの扮するオクタヴィアと、貴族の男である。
抱き寄せられ、オクタヴィアの頭が男の胸元に押し付けられた。背筋を男の指がすべっていく。
男の手に、まだ熟れきっていない女の身体つきが伝わってくる。その手触りを楽しみながら、抱きしめる腕に力を込めた。
オクタヴィアの口から、吐息が漏れた。その手が、すこしだけ苦しそうに男の服を掴み、緩めようとするのを、男は構わず抱きしめ続けた。
――十分ほど前。
大ホールで男と言葉を交わしながら、カホカは内心、気が気ではなかった。
――何やってんだ、ティアのやつ!
ティアが、ファン・ミリアに話しかけている。カホカは笑顔を浮かべつつ、視界の隅でふたりの姿を捉えていた。
幸いと言うべきか、一触即発という雰囲気ではなさそうだ。かといって、和やかと呼べるほどでもない。
残ってティアとファン・ミリアを様子見したほうがいいのか。
悩みかけたものの、会話中、ファン・ミリアがティアから顔を――というか体をそらした。その隙に、ティアがカホカに視線を送ってくる。
『早く行け』
かすかに顎を振ったティアの表情が、そう語っていた。
――わかったっての。
目算あってのことかはわからないが、急かされた以上、信じて任せるしかない。
「申し訳ありません。少々、失礼いたします」
カホカは目の前の貴族の男に頭を下げた。そうして、
――どっちから行こうかな。
正面扉か、給仕用の通用口か。
考えていると、その男に手を掴まれた。
「どちらに行かれるつもりですか?」
男の顔が、間近に迫ってくる。カホカは驚いて眉を開き、
「どちらにと言われましても……」
戸惑いを浮かべ、わざと口ごもった。立ち去ろうとする女性を引き留めるだけでなく、行き場所まで聞くのは野暮に尽きる。カホカが困って視線を迷わせると、
「何者だ、女?」
これまで笑顔だった男の顔つきが一変した。双眸を鋭く、脅すように問い詰めてくる。
「お前はオクタヴィアではあるまい。ベステージュは、私も知っている」
「いえ、私は……」
カホカは唇を震わせながら、
――コイツ、なんでベステージュって知ってんだ?
決して自分からは名乗らなかったはずだ。
カホカは考え、そうか、と思い至った。
ティアが、貴族の娘に訊かれて答えた。それを耳ざとく聞いていたらしい。
「……お許しください」
唇から、弱々しい言葉が紡がれていく。
「一度だけ……人生で一度だけでも、華やかなウル・エピテスを見てみたかったのです」
お許しください、とカホカは繰り返す。
「秘密にしていただければ、何でもいたします。二度とこのような場所に来ようとも思いません。ですからどうか……」
取られた手で、逆に男の手を掴みなおす。
カホカが縋るように懇願すると、
「ほう、何でもすると?」
これまで上品を取り繕っていた男の表情に、野卑な色がありありと浮かぶ。
――ま、貴族ってこんなもんだよね。
元貴族であるカホカから見れば、落胆するには及ぼない。宮廷に
「はい……ご随意に」
諦め、うなだれた仕草を見せると、男が鼻息も荒く、カホカの手を取って正面扉へと歩きはじめた。引かれながらカホカがこっそり周囲をうかがってみたが、男の行動に不審を抱く者はいないようだった。皆、食い入るようにホールの中央を見つめている。
ちょうどティアとファン・ミリアが踊りはじめたところだった。
そして今――男に連れ込まれた客室にて。
カホカを抱きしめていた男が、ズルズルと床に崩れ落ちていく。
あっさり男を昏倒させたカホカは手首を回しながら、
「アタシの身体をベタベタ触りまくりやがって」
不機嫌に言い、二度、三度と男の身体に蹴りを入れた。
「金払えってんだ、ボケ」
好きでもない男に触られるほど不愉快なことはない。
一向に気は収まらないが、この男にかかずらっている余裕はない。
「ったく」
カホカはドアの鍵を閉めると、調度類に目を向けることなく窓辺に寄っていく。窓は、両開きになっていた。
「あーあー、ぜんぜん止んでないじゃん」
愚痴をこぼしながら、カホカはドレスのスカートに手を差し入れると、あらかじめ足に巻いておいた
篭手は、
カホカは窓の
ドレスが濡れる感覚を無視し、カホカはきょろきょろと外を見渡した。嵐のなかに
「――まずは、どこを使おっかな」
言いながら、近くの手ごろな尖塔のうち、壁から張り出した魔除け像――青銅のガーゴイルに左手を向けた。
篭手の外側に取り付けられた
篭手に内蔵されたぜんまい仕掛けによってワイヤーが巻き上げられ、窓から飛び出したカホカの身体を勢いよく持ち上げていく。
「楽しいけど、雨がヤバイ!」
ぺっ、ぺっ、と口に入ってくる雨を飛ばしながら、そのまま振り子のようにカホカは尖塔群の光の中へと消えて行った。
◇
同時刻。
大ホールにて。
踊り終え、見つめ合うユーセイドの視線が、ファン・ミリアから移った。
ほぼ同時にファン・ミリアも気がついた。大ホールの正面扉に、明らかに参加者とは別の装いの集団が目に入った。通常の兵よりも重装備をまとった屈強な兵たちが続々と入ってくる。
――あれは。
ファン・ミリアのこめかみに、冷たい汗がつたう。
「……特務部隊」
その、特務部隊を率いて
「皆の者、その場から動かぬよう」
ウラスロが声を張り上げた。
「いまここに賊が忍び込んだとの報があった。各位には申し訳ないが、余が直々に検分を行うゆえ協力を願いたい」
ウラスロの言葉に、ファン・ミリアは一歩踏み出していた。その背にユーセイドを隠そうとするも、
「ウラスロ……」
気がつくと、青年の端正な顔立ちが、憎悪に歪んでいる。
「……落ち着け!」
後ろ手にユーセイドを掴んで止めようとしたが、無意味だった。周囲から叫び声が上がる。
「見て!」
「化け物がいるぞ!」
先ほどの喝采とはまったく異なり、恐怖の視線がユーセイドに注がれる。
ファン・ミリアが振り返ると、瞳に赤い光を宿したユーセイドの身体が、黒い霧に変じはじめていた。掴んでいたはずのユーセイドが指の間からすり抜けていく。
「なるほど、報告は誠であったか」
異常を察して壁となった特務部隊の背後から、ウラスロの顔がのぞいている。
ユーセイドとウラスロの瞳がぶつかる。その時ふと、ユーセイドの表情に動揺が走るのをファン・ミリアは見た。
――何だ?
不可解な反応だった。しかしファン・ミリアが深く考える暇もなく、ユーセイドの瞳がますます強く赤い輝きを帯びる。
――いけない!
ファン・ミリアはとっさに掌に力を込めた。
「
派手に光が弾けるよう見せつつ、力の出力をギリギリまで抑えた星槍が、ユーセイドの腹に打ち当たった。
『……すまない』
その囁きが彼に聞こえたかどうかはわからない。星槍をユーセイドの身体に引っかけるようにして、ファン・ミリアは外のバルコニーへと通じるガラス扉めがけて振り抜いた。
女客たちの甲高い悲鳴、そしてガラスの割れ散らばる音とともに、欠片が光を反射する。
ファン・ミリアはすかさず吹き飛ばしたユーセイドへと駆け寄った。敷居を跳び越えてバルコニーへと出る。降りしきる雨に打たれながら、そこには誰もいない。
素早く夜空を見上げると、部屋の明かりを受けた雨が、ファン・ミリアの顔へと降り落ちてくる。
背後に、駆け寄ってくる特務部隊の気配を感じた。
「化け物は私が追う。お前たちは殿下をお守りしろ!」
ファン・ミリアが有無を言わさぬ口調で告げると、その気迫に呑まれたように『承知!』という返事があった。
ファン・ミリアはスカートの横を裂いて切れ込みを作ると、膝を曲げ、深く腰を落とした。両足に力を溜める。
ヒールの高い靴が青い輝きをまとう。ラズドリアの盾を靴の下、石床との接地面に展開し、反発させた。
次の瞬間、ファン・ミリアの身体は高く舞い上がっている。
「どこだ――?」
さらに障害物を利用して蹴り上がり、ファン・ミリアは嵐の中で光を連ねるウル・エピテスを見渡した。
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