42 夜陰

 風にひるがえる裳裾もすそをそのままに、ティアは貴族街を屋根から屋根へと跳び続けていた。

「もっと動きやすい服にすればよかったな」

 ぼやいてみたが、いまさらどうにもならない。

 トゥニカの上に黒い長衣を羽織り、前襟を胸下に寄せて編み上げるように結んだ格好である。

 とは言え、厚い雲は月と星からティアを隠してくれている。湿った風の匂いは雨を予感させたものの、まだ降り出してはいなかった。

 ウル・エピテスに近づくほどに、屋敷も広く、そして高くなった。

 ティアは屋根の上を駆けながら、迫る王城を見上げた。

「こんな形で、この城に戻ってくるとは……」

 感慨に耽っている場合ではないと知りつつ、それでも考えずにはいられない。

 聖騎士団見習いとして城を出た自分が、人あらざる吸血鬼となって戻ってきた。

 この奇妙な由縁を、いったい誰が想像できただろう。

 ――神であるイスラにはわかっていたのだろうか。

 詮のない考えを浮かばせながら、ティアはその瞳に力を込めた。

 視線の先には、いくつもの尖塔が天を穿うがつように伸び上がっている。

 赤味を帯びはじめた灰褐色の瞳が、せわしなく左右に動く。

「……まずはあそこにするか」

 一群の尖塔の根元あたりに、明かりの薄い部分を見つけた。

 そこを着地点に定める。

 ティアは一気に駆ける速度を上げ、棟の端から大きく跳んだ。

 その先はもう、屋敷は連なっていない。

 宙に跳んだ身体が、赤い瞳の残光とともに、ふわりと軽くなった。

 浮遊する感覚。

 音もなくティアの全身が黒い霧へと変じ、ウル・エピテスへと流れていく。


 その黒い霧が再び一所ひとところに集約した時、ティアは尖塔の根元に立っていた。姿を現すや否や、素早くしゃがんで身をひそめ、王城の敷地ぜんたいに目を配る。

 ――ここからだ。

 鷲のお頭はどこに囚われているのか。まず牢屋であることが前提だが、その位置もさまざまである。実際に見たことはないが、聖騎士団の本部にも一時的に罪人なりを預かる場所があるそうだし、主城にも、また軍にもあるだろう。

 ファン・ミリアに捕らえられた以上、聖騎士団本部の可能性もあったが、できれば後回しにしたかった。

 もし自分が見つかるとすれば、やはり聖騎士団による可能性が高いと思った。彼らは対人外に対する専門家でもある。それらを探知・探索する能力に特化している者もいると聞く。

 ――聖騎士団以外の場所としては、やはり軍の収容施設か。

 そもそもの管轄は軍なのだ。

 だが、ティアはその場所がどこにあるかを知らない。

 崖の上にそびえるウル・エピテスの、その岩棚を利用して軍の施設がひとつ……他にもありそうだ。

 ――しらみつぶしに探すしかないな。

 いささか強引すぎる気もしたが、判断が遅れるほどに発見される危険も高まっていく。

「……多くの『目』が要る」

 ティアは脳裡にその力を思い描き、瞳を赤く染まらせた。

 ――力が保ってくれればいいが。

 念じながら、再び浮遊感を覚えた。しかし今回は霧になるのとは異なり、意識が細分化され、かつ別々に独立している。

蝙蝠たちの行進マーシウス・ヴァンパイア

 蝙蝠の群れが、散り散りに飛び立っていった。



 王都ゲーケルン、鷲のギルドにて。

 慌てた様子で、ギルド員の男が部屋に飛び込んできた。

「ディータ! いま連絡が来た。もうすぐ船が港に到着するらしい」

「来たか」

 長椅子の後ろに手をやり、座っていたディータがゆっくりと眼を開く。

「皆の準備は?」

「とっくに終わってる。いつでも行けるぜ」

「よし」

 ディータは勢いよく立ち上がった。

 卓を挟んだ向かいには、カホカがこちらに背を向けて横になっている。

「寝てるか」

 小声でつぶやく。一瞬、このまま寝かせておいてやろうかと迷いかけた。

 すると。

「起きてるよ。てゆーか、いま起きた」

 むくりとカホカが起き上がった。こちらに背を向けたまま、「ふぁ」と大きく伸びをする。気だるそうに首裏を掻く姿は、一見しただけではティアが言ったような『兵士百人分の力』があるとはとても思えない。

「無理に来いとは言わねえぞ」

 ディータが声をかけると、カホカが「んー?」と、振り返った。

 寝ぼけ眼でこちらを見上げてくる。

「お前の強さは疑ってねえが、お前は若い。しかも女だ。こんな薄汚ねえギルドの抗争に、何も自分から首を突っ込む必要はねえんだ」

 ディータなりに精一杯の言葉を尽くしたつもりだった。

 同時に、最後通告のつもりでもあった。

 カホカは寝ぼけ眼でしばらくディータを見つめた後、ふっ、と口元を猫のように和らげた。

 それから高く澄んだ声音で、


「私は旅する一尾である

 想い失くして何を得られよう

 私は夢見る一尾である

 みち失くして何処を歩けよう」


 カホカはゆっくりと詩を吟じていく。

「知ってたのか?」

 意外に思ってディータが訊くと、「たまたまね」とカホカは笑う。

「昔さ、お母さんが教えてくれたんだ。これ、古いルーシ人の詩でしょ?」

「ああ。お頭はルーシ人の長老からこの詩を教えられて気に入ったらしくてな。それ以来、これを合言葉に使うようにしたんだ」

 『旅』と言えば『一尾』と返ってくる、鷲のギルドの符牒である。

「ま、そういうことだから」

 それだけ言って、カホカも立ち上がった。

 想いがなくては得られない。人の道を失えば夢に辿り着くことはできない。

 カホカはそう伝えているのだ。

「わかった」

 もう何も言うまいとディータは肚をくくった。


 

 ウル・エピテス城内。

 聖騎士団の本部前で、ファン・ミリアがその面を宙へと向けた。

「あれは……?」

 厚く空を閉ざした黒雲を背景にして、ちいさな何かが遠く王城を舞っている。

 白馬に跨ってその生き物らしき影を見上げていると、

「どうかされましたか?」

 声が聞こえた。ファン・ミリアが振り返って視線を落とすと、そこに副団長のベイカー=バームラーシュが立っていた。

「いえ」

 ファン・ミリアは愛馬の首を軽くたたきながら、

「何かが舞っているな、と」

「何か、ですか」

「あそこです」

 ファン・ミリアが再び面を上げ、指をさす。ベイカーもその指の先を視線でたどり、「ああ」と気づいたような声を出した。

「飛び方から察するところ、蝙蝠のようですね」

「蝙蝠、ですか」

「なにか不思議なことでも?」

「ごく微弱な力を感じたのです。そう思って見たら、あの蝙蝠がいた」

「ふむ……」

 ベイカーは考えるように蝙蝠を見つめた。

「そういうことであれば、一度調べさせましょうか?」

 濃い茶色の瞳を向けられ、ファン・ミリアはあわてて首を振った。

「気のせいだったかもしれません。本当に弱い力だったので。わざわざ調べる必要もないでしょう」

 たかが蝙蝠ごときで多忙なベイカーを動かすのも気が引ける。

「しかし貴女が気になった以上、万が一ということもあり得ます。軽くでも調べさせておきましょう」

 上司からそう言われてしまえば、ファン・ミリアに断る理由はない。

「では、お願いします」

「こちらこそ、こんな時間までお待たせてしまって申し訳ありません」

 ベイカーから労われ、ファン・ミリアはちいさく首を横に振った。

「副団長が謝ることではないでしょう。これが私の仕事ですから」

「ですが、話を請けたのは私です」

「それが副団長の仕事なのでしょう」

 ファン・ミリアが軽く冗談めかして言うと、ベイカーが「おや」という表情を浮かべた。

「何か?」

「貴女がそういった冗談を言うのは珍しい気がしました」

「つい最近、友人から『お前には余裕がない』と言われてしまったのです」

「それは、手厳しいご友人のようだ」

 ベイカーが柔らかい笑みを浮かべた。

 そうしているうちに、ファン・ミリアの部下が三名、それぞれ馬に乗ってこちらにやってきた。

「準備が整ったようだ。――では、副団長。ファン・ミリア=プラーティカ、これより任務のため行動を開始します」 

「貴女には万が一もないでしょうが、お気をつけて」

 うなずき、ベイカーに見送られながら、ファン・ミリアは手綱を打つ。

 部下たちを見回し、

「軍より虜囚護送の応援要請が入った。これを請け、我々は港へ向かう」

 ファン・ミリアが凛とした声音で告げる。

「はっ!」

 それぞれの応じる声が重なった。

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