22:見えざる鎖の正体
いつもの気弱そうな面差しに、篠森は自嘲的な微笑を浮かべている。
だが俺は、それを見て、奇妙な困惑を抱かずに居られなかった。
このとき、俺が篠森に求めていたものは、そう多くない。
素直に事実関係を認めることと、あとは謝罪や反省の言葉ぐらいだ。
近江には、昨日のうちに恋愛相談所で、この件を伝えてある。それは篠森にとって、すでに大きな報いとなっているはずだった。
もちろん一方で、篠森が俺の身辺を探り、恋愛相談所に情報を横流ししていたことは、決して許容できる行為ではないと思う。
「近江の恋路を邪魔しようとした」という動機も、かなり身勝手なものだ。
――とはいえ、本当にそれだけなのだろうか?
自分で篠森を追い詰めておきながら、なぜか俺は不調和を感じている。
胸の中で、もやもやと立ち込めるものの正体が、どうしても掴めない。
いったい、次にどんな言葉を掛けるべきか……
しばし迷っていると、俺より先に篠森へ語り掛ける声があった。
「逢葉くんの推理が正しいと認めるんだね、篠森さん」
希月だ。
長椅子の前へ進み出て、篠森の傍に立つ。
宝石みたいな瞳の奥には、不快そうな、暗い影がちらついていた。
この子には珍しく、目つきが険しい。
「まさか私の婚活が、いつの間にかそんなふうに誰かに利用されていただなんて、思いも寄らなかったよ」
なんと、希月は怒っているのだった。
図書室へ来る前、俺はこいつにも自分の推測を、あらかじめ打ち明けていた。
それ以来、ずっと静かな憤りを抱えているみたいなのだ。
この反応は、正直ちょっと意外だった。
希月は、打算で婚活をしている。
そして、俺はこの子の設定条件に合致した配偶者候補なのだ。
とすれば、事案の背景はともかく、篠森の画策によって、希月は少なくとも実際的な要望を満たされている。
希月と篠森の関係だけなら、「Win-Win」と言えなくもない。
普段の言動から考えると、そこにはこれまでにない齟齬があるように思われた。
もっとも篠森は、希月の様子を見て、純粋に謝罪の必要性を感じたらしい。
「あ、あの、希月さん。わっ私のしたことで、嫌な気持ちになったのだったら、ごめんなさい……」
か細い声を、おどおどと紡ぐ。
「……えっと。でも、その、希月さんのことも考えて、したことだったから……」
「そうなのかもしれないね。現に私は、逢葉くんと知り合えたわけだし。――だけど、こんな事情があるだなんて、ちっとも知らなかったよ。まさか、これじゃ……」
希月の言葉は、途中で掠れて消えた。下唇を噛み、身体を硬く強張らせている。
それで、篠森は何事か付け加えようと、慌てて口を開きかけたようだ。
けれど、ここで会話へ割り込んできた別の人物が現れた。
「――自分と希月さんのことさえ思い通りになれば、おれや逢葉の気持ちはどうでもいいっていうのか」
よく通る声が聞こえたかと思うと、篠森の顔に狼狽とも焦燥ともつかぬものが走る。弾かれたように長椅子から立ち上がって、背後を振り返った。
そこに居たのは、あの近江征志郎だ。例の練習用ジャージ姿である。
相談所で篠森のことを話した際、今日の放課後は篠森を探す旨も聞かせていたから、部活の練習を切り上げて図書室に来たのだろう。
「きみのことは、逢葉から聞いている。おれと同じ中学だったんだってな」
「そ、そんな……近江くんが、ここに来るなんて」
両者にとって、これは初めて交わす会話のはずだった。
かつて内気な篠森は、ただ遠くから近江を眺めていることしかできなかったのだ。
「どうなんだ、答えてみてくれ篠森さん」
近江は、じっと篠森を見据え、問い詰めようとする。
ひとつ断っておくと、ここへ近江が来ることについて、俺はあまり賛成じゃなかった。
曲がりなりにも、近江は篠森にとって片想いの相手である。
俺や希月の目がある前で、好意を抱いている異性からネガティヴな感情をぶつけられるのは、きっと残酷なことだ。それが自業自得だとしても。
なので、たとえ俺の推理が正しくても、近江と篠森は別の機会に二人だけで話し合うべきだろう――と、俺は主張していたのだが、どうやら真相をたしかめたくて、居ても立ってもいられなかったらしい。
まあ近江の立場からすれば、自分の恋路を踏み躙られたのかもしれないわけだから、心情的にはわからなくもないのだが。
「お、近江くんっ。――違うの。わ、私は、本当に、希月さんのことも色々考えたの。そうして、希月さんには、逢葉くんとお付き合いしてもらう方がいいって……!」
「おれに好かれることが、希月さんにとって迷惑だとでも?」
近江の顔は、かすかに興奮で歪んでいた。
「それとも、希月さんが逢葉と付き合えば、おれがきみを好きになるとでも思ったのか。だとしたら、とんだ見当違いだ」
「そ、そうじゃない、わ……」
篠森は、半ば呆然とし、首を左右に振った。声音はいっそう弱々しく、瞳はじんわりと滲んで、明らかに涙が溢れ出すのを必死に堪えている。
「きっと、近江くんとお付き合いすれば、き、希月さんは、辛い思いをする。……それに、近江くんまで、嫌な気分に、なると思って……」
「――おれまで、だって? どういうことなんだ」
近江は、歯噛みしながら問い返す。要領を得ないやり取りで、少し苛立っているようだった。
「……そっ、それは――……」
気圧されたのか、篠森はいったん声を詰まらせる。呼気が荒くなって、息苦しそうに肩を上下させていた。それでも、しゃくり上げるような仕草を挟んで、真っ直ぐ近江へ向き直る。
俺や希月も見守る中、篠森は懸命に何か言おうとした。
ところが、そのとき。
「――キヅキさんがセイシローくんの恋人になってしまったら、たぶん複数の女子から恨みを買うことになるからでしょ」
篠森は、再び何者かに先を制され、言葉を遮られた。
もっとも、希月と近江以外で、今日ここを訪れるかもしれない人物(しかも、この件の関係者)を、俺は他に知らない。
おまけに、それは初めて耳にする女の子の声だった。
反射的に周囲を見回す。
声の主は、すぐに見付かった。
自販機の脇にある書棚の陰に立って、こちらを密かに眼差していたらしい。
薄い茶色に染めたロングヘアの女子生徒だ。やはり俺は見覚えがない。
けれど、希月と近江は面識がある相手らしかった。
「き、きみは、おれが先日仲介役を頼んだ、同じクラスの……!」
にわかに近江が、驚嘆の声を上げた。
「何だ、知り合いなのか」
「こないだ近江くんが告白してきたとき、私を放課後に彼の代役で呼び出した子だよ。つまり、恋愛相談所に登録している利用者の一人」
俺の疑問に、希月が困惑した面持ちで答える。
「でも、なんで彼女がここに……」
「それは、わたしたちがみんな、お互い『ある取り決め』に従っている仲間同士だからよ。――篠森さんも含めて、ね」
希月のつぶやきには、また別の新しい声が答えた。
「そうして、仲間の一人である篠森さんが、近江くんの前で逢葉くんに追い詰められてしまった。だから放っておけなくて、すぐさま彼女の味方になれそうな人間は、急いで図書室に駆け付けたのよ」
辞書が置かれた棚の近くから、もう一人何者かが姿を現す。
そちらは黒髪セミロングで、ヘアアクセを着けた女子生徒だった。
「だ、誰なんだ、きみは」
近江が目を剥いている。
こっちの子のことは、知らないみたいだ。今度は希月も同様らしく、口を噤んでいる。
「わたしは、一年八組に在籍している近江くんのファンの一人です。こうしてちゃんとお話するのは初めてだから、近江くんはわたしみたいな女の子が居ることを、これまで少しも知らなかったでしょうけど」
ヘアアクセの女の子は、静かな口調で説明した。
……ただ、よく見ると、頬にかすかな赤みが差している。たった今、この子の告げた言葉が事実ならば、それは窓から注ぐ夕陽のせいばかりじゃあるまい。
「アタシたちの取り決めの内容っていうのはね、要するに抜け駆け禁止よ」
「セイシローくんを好きな子は、アタシたちを含めて、いっぱい居るの。だから、彼に目を付けている女の子同士、みんなお互い節度を持とうって意思の疎通があるわけ」
「意思の疎通って……その範囲を脱線すると、恨みを買うってのか?」
なんだよそれ。
まるで暗黒街の掟じゃねーか。どこのギャング映画だよ。
などと、呆れてツッコミを入れたくなったものの、思い留まった。
どう見ても当人たちは、大真面目そのものに見えたからだ。
「な、なあ。きみは、おれが希月さんに告白するのを知ってて、あのとき仲介役を引き受けてくれたはずだよな?」
近江は、片手で自分の頭を抱えながら、茶髪の子に問い掛けている。
「なのに、その、きみが実は……おれのことを? こっ、これは、どういう話なのか――……」
「やだー、それはね? あのとき、アタシがキヅキさんに取り次いだのも、ホントは仕方なくだったわけ。セイシローくんに頼まれたら、やっぱ断れないし」
茶髪の子は、近江に返答しつつ、途中でちらりと希月を眼差した。一瞬だけ、目つきが冷たくなる。
「でもまあ、内心ではかなりムカついてたけどね」
やばい何コレすげー怖い。
希月のやつ、この子に完全に反感持たれちゃってるよ……。マジか。
すると、そこへさらに別の人影が、図書室の出入り口側から歩み寄ってきた。
今度は、運動部の練習用ジャージを来た女子生徒だ。
「希月が恨まれたりするのも、致し方ないわ。私たちみたいに、きちんと一定の距離を保ちながら近江を応援している女の子は、何人も居るのに――ある日ひょっこり登場して、一人だけ彼から好かれたりするなんて、不公平というものじゃない」
ジャージの女子は、持論を展開する。
近江は、それをすっかり弱り切った表情で眺め、「せ、先輩……」と絞り出すようにつぶやいた。陸上部の上級生らしい。
次々に出現した女子生徒たちを、それぞれ順に眺めていく。
なんだこれ。こんなの聞いてねーぞ。
俺は、いまだ混乱する思考を整理し切れずに居た。
「ええと……それじゃあ、近江の気持ちはどうなるんですか」
必死に平静さを取り繕いつつ、陸上部の先輩に問い掛けてみる。
「こいつにだって、自分の意思があるでしょう。好感を持った異性が居たら、告白して恋人になってもらいたいって考えるのは、何も悪いことじゃないはずだ」
「……たしか、逢葉って言ったよね。きみは、私たちの近江に対する心理を、客観的にしか見ていないから、そんなふうにいかにも真っ当そうなことが言えるんじゃないの」
「はあ? ――どういうことですか」
「あのね。私は、部活でいつも近江のためにタイムを計測してあげたり、足に調子の悪い箇所があったらテーピングしてあげたりとか……これまで、常に率先して世話してあげてきたの。さながら専属マネージャーのように」
突如として、陸上部の先輩は予期せぬ話を持ち出してきた。
俺は、にわかに相手の意図を掴み損ね、両目を
当惑気味に近江を見ると、渋そうな顔で首肯して寄越した。
この先輩の主張自体は、事実らしい。
と、即座に別の女子が声を被せてくる。
「先輩、ちょっと待ってください」
あのヘアアクセの子だ。
「それを言ったら、わたしは陸上部員でも何でもありませんけど、近江くんを応援するために、これまで彼が出場した県内の陸上記録会には、すべて競技場へ駆け付けました。観客席に居たのがわたしだったことを、近江くんはたぶん知らなかったと思いますけど――でも、六月の選考会のときは、わたしがスタンドから手を振ったら、こちらを見て手を振り返してくれたことだってあったんですよ」
「な、何よ二人とも! アタシだって、ちょくちょくセイシローくんには、部活の前にスポーツドリンクとか栄養補給のゼリーやスナックを差し入れしてたし!」
茶髪の子も、声高に主張する。
「他にも、スポーツタオルやTシャツなんかもプレゼントしたし……セイシローくんに一番お金を掛けて貢いだのは、断然アタシなんだからねッ」
それからというもの――
自称「近江征志郎ファン」の女子たちは、いかに己が彼のために献身的であるかを、散々アピールしはじめた。
俺たちが傍に居ることなんて、おかまいなしだ。
ただ一人、篠森だけは悲しそうな表情をして、小柄な身体を殊更ちいさく縮めている。
近江はというと、悪夢の世界に迷い込んだみたいな顔をして、いまや自らの立ち位置を決めかねている有様だった。
俺も希月に言い寄られ、この一ヶ月は随分色々な難事に巻き込まれたから、こいつの戸惑いは手に取るようにわかる。
もっとも、複数の女子から板挟みにされているぶん、居心地悪さたるや何倍も上だろうが。
すでに俺は、事態の真相が当初の想定から、かなり逸脱していたことを痛感していた。おそらくは、始終一緒に居た希月も同じく。
そう、この件の根っこにあるのは、ぼんやりしていて、個人の言動で変えることのできそうもない何かだ。
今、その正体にたどり着きつつある。
「――なあ、恋愛相談所を介して、希月に俺を紹介したのは、要するに近江を女子の誰とも交際させまいとする計画の結果だったんだろ?」
俺は、近江ファンのアピール合戦が落ち着くまで、多少待ってからたずねてみた。
「それで結局、この計画に関与していた人間ってのは、何人ぐらい居るんだ? ここに今来たので全員ってわけじゃなさそうだが」
「十人前後といったところよ。わたしたちをはじめ、近江くんの熱心なファンは学園内に少なくないわ」
ヘアアクセの子が、つまらなそうに答えた。
「ちなみに、もし逢葉くんと希月さんに関係する件を差し引いて、恋愛相談所の枠組に固執しない場合……たとえ漠然としたものでも、近江くんに好意を持っている女子生徒をみんな、ファンの一人として数えるなら――」
「そんな女子の人数は、正確なところなんてわからないわね」
陸上部の先輩は、あとを引き取って続ける。
「軽く見積もって、三、四十人は居るんじゃないかしら」
俺は、さすがに少し寒気がした。
もし、希月が近江と付き合いはじめたら、かくも大勢の女子から悪意が向けられるっていうのか。
それゆえ篠森は、俺と希月の仲を裏から取り持とうとしたのだと?
「まあ、だからセイシローくんは、特定の女子と付き合ったりしない方が、みんな平和でハッピーになれると思うんだよね。有名人なんだし、それぐらいの不自由はイケメンの宿命として、我慢してもらわなきゃいけないと思うってゆーか」
茶髪の子は、わざとらしく肩を竦めて言った。
「もうセイシローくんは、謂わばアタシたち全員の太陽なわけじゃない? その愛情を、どこかの誰かが一人で独占するのは、阻止されて当然だと思うし。アタシたちみたいに、色々貢いだり尽くしたりしてるファンを裏切らないで欲しいんだよねー」
すげぇ。
もう滅茶苦茶としか言いようのない理屈だ。
でもたぶん、こいつらにとっては、これこそが信奉すべき正義なのだろう。
茶髪の子が述べた言葉に、ヘアアクセの子と陸上部の先輩は、どちらもうなずき合っている。
……ところで俺は、このとき彼女らを見て、実はある既視感を覚えていた。
それは、希月が初めて俺の自宅を訪れた朝のこと。
テレビ番組の芸能コーナーで流れていた、人気歌手の結婚報道だ。
あの日の画面の中に映っていたファンを、連想せずには居られなかったのである。
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