第九話「ナイトミスト⑥」
13/
ついに十月二十七日、満月の日がやって来た。校内ですることは特になかったので、放課後になるとすぐに俺は学校を出た。今日がなんの日であるかは既に部員には伝えてあるので何ら問題はない。
家までは徒歩で三十分。自転車で向かう程でもない。とはいえ、日没が早くなったので、準備のことも考えて今日は自転車で移動している。
「……さて」
遭遇時は色々と想定外なことが起こったために冷静さを欠いてしまったが、カラクリが分かってしまえば単純な話だった。
「にしても」
それはそれとして。騎士の行っていたこと、つまり能力者狩りという行為を探し出すのに時間がかかった。記録にすら霧がかかっていたのだ。その気になって、俺が騎士と遭遇した箇所を念入りに調べないと全貌は見えてこなかった。
――ものすごくややこしい話だが、『霧が出た』という記録の中に、それらの狩りの記録が混ぜ込まれていたのだ。つまり、記録そのものが『霧』の記録に飲み込まれていたということである。
「となると」
もう一つ推測されることがある。それは――――
「姿を消した能力者が『霧』に飲み込まれたかもしれない」
「おかえり――――はい?」
そんな懸念点を、我が家の玄関を開けながら呟いた。
「あのさ、帰って来たなーと思って玄関開けたらいきなりアレって、普通驚くからね?」
「ああ、すまない。そりゃあそうだよな」
居間のソファに座って説教を受ける。作戦会議のはずだったのだが、おかしい。
「そこ、納得いかないみたいな顔しない」
「すまない。だが俺は早急に作戦会議をしたい」
そう言ったのだが、風宮明美はどうしてか呆れたかのようなため息を吐いた。
「……どうした」
「どうした、じゃない。作戦会議は大事だけどね、なんだってアンタ、そんなに固い口調なのさ」
「ああ、それもそうだ」
言われて気が付く。確かに、妙に堅苦しい言い回しになってしまっていた。……一旦落ち着こう。
「……落ち着いた?」
「ああ、落ち着いたよ。気を張りすぎていたみたいだ」
「でしょうね。――よし、じゃあ作戦会議を始めましょう」
風宮明美から切り出された。うむ、とにかく手短に言おう。決行までそれほど時間もないのだ。
「あらかじめ誘導をかけておいたから、時間通りにヤツは来る。風宮さんは、とどめだけは刺さないようにそいつと戦ってほしい。殺さない限り、好きなだけ戦ってくれればそれでいい」
ごく、と。彼女が唾を飲み込んだ音が聞こえた。それは決意の表れ。戦う覚悟の表れ。ついに、騎士の殺戮を止める時が来たのだ。
◇
時刻は午後十一時。繁華街から一つ隣の道路は、外套の明かりしかない夜の道。しかし今宵は満月の夜。月光が、幻想的に俺たちを照らしている。その光源を見ようと天を仰ぐ。そこにあるのは白い孔。星というにはあまりに身近な月は、まるで外界からこちらを覗く孔のようだ。――いや、それはあながち間違いでもないのかもしれない。そう言える確信が俺にはあった。それもたとえ話にすぎないのだが。実際に見ているのは外界の生命ではないのだから。
「……どうしたの、神崎君」
風宮明美の声で、現実に戻る。――感傷に浸りすぎていたようだ。
「いやなに、あまりに綺麗な月だからさ、つい物思いに耽ってしまった」
「見惚れた、じゃなくて?」
「ああ。でも、それも嘘じゃない」
その思考の元は、結局のところ光に焦がれたから。それは今も昔も変わらない。俺はずっと、眩しいと思ったモノを追いかけ続けてきたのだから。
「そっか。意外とロマンチストよね、貴方」
少しだけ、彼女の声が暖かい。それが今は、少しだけ心地よかった。
「――さて」
その暖かさを糧にして、俺は前を向く。
「風宮さん、出番だ」
視線の先には霧の獣。周囲にではなくその身に纏い、赤い双眸を光らせて。その獣はやって来た。
「よし――――やってやろうじゃないの」
臨戦態勢に入る吸血鬼の少女。その姿は月に照らされ、まるで幻想のようだ。その光を眩しいと感じそうになり、なんとか堪えた。
「ああ――よろしく頼む」
その代わりに、絶対の信頼を彼女に贈った。
14/
思考を切り替える。神崎カイと話していた私を一旦埋没させて、吸血鬼としての私を引きずり出す。
――この短期間で、随分と飼いならしたものだ。それは自分に向けた驚きと、そしてこの状態まで私を誘導した神崎カイへの賞讃だ。血を吸わねば心が濁り、血を吸えば心が削れる――そんな状態の私を、ここまで保たせたのは他ならぬ神崎カイだ。料理も赤い液体が多く、鉄分の多いものが多かった。思考の切り替え方まで教わった。そのどれもが、今の私を形作っている。このことは、間違いなく感謝している。
……だからこそ、これに報いなければならない。悔しいことに、私は彼に惹かれ始めている。それが叶わない、そして叶えてはならない想いであることも承知している。――それでも、今はそれを糧にしたい。その叶わぬ恋に浸っていたいのだ。それこそが、私が人のままでいるための最も大きな
「さて、準備はいい?」
目の前の獣に問いかける。霧によって姿が見えないが、コイツが彼の求めた騎士なのだとしたら。
「――良い。佳い好い善い! 実に良い顔つきになった。それでこそ我が闘争相手にふさわしい。私に戦いを挑んだ唯一の者よ! さあ、来るがいい…………!」
「しっかり期待に応えなくちゃ――――ねッ!」
襲い来る霧からの鋭利なる一撃。それは確かに鋭く速い攻撃だ。――だが。
「直線的過ぎる!」
すでに私には意味をなさない脅威となっていた。
故に体勢を変え、そのまま突っ込む。如何に霧に包まれていようが関係ない。姿を幻惑していても、私は既に掴んでいる。その間合いを、その隙を――――!
「ごぼ――――っ」
情け容赦なく鉄拳制裁。腹筋など盾にすらならない。そのままの衝撃を騎士の体に叩き込む。――違和感。
「まだまだーーーーー!」
違和感を一時的に退避させて、次なる一撃を浴びせる。一撃、二撃、三撃四撃五撃――前回と同じ動きでも構わない。今は全力を以って叩き込むのみ――――!
「が、ぐ――」
暴れ出してももう遅い。私の攻撃から逃れるすべなどない。そんな獣のような体では、私の一撃を防げない。あまりに一方的な戦い。あちらが手を抜いたわけではないのだろう。
――違和感。
だがしかしそれは、私が騎士を上回っただけのこと!
「まだだあぁーーーーーッ!」
熱くなりすぎた頭では、もはやこの攻撃は止められない。吸血鬼の意思によるものか、このままだと私は、騎士を殺してしまうだろう。その前に、彼は止めてくれるのだろうか。既に思考が混ざり始める。意識が混濁してしまっている、いや、これは吸血鬼としての意思に飲み込まれ始めている? いや、そんなまさかまさかマサかまサカまさ――――
「――え」
ふと気付くと、私は後ろから抱きしめられていた。残念ながらそれは、愛のある抱擁というワケではなかったけれど、それでも、それだけで誰が抱きしめてくれたのか分かって安心できた。
「え、と……神崎、くん?」
「すまん――まだ無理をさせちゃダメだったな」
「え? どうして――」
不思議なことを言う、そう思いながら私は下を向いた。騎士の姿を見るためだ。――が。
「――――――」
目に入ってきたのは、ところどころ赤く染まった霧だった。前回と違うのは、その血が私のものではないということ。つまりそれは――――
「大丈夫だ、すぐに止めたから意識が飛ぶほどじゃあない」
言われて安心する。――確かに、荒いものの息遣いはしっかりと聞こえる。
――熱くなりすぎていたようだ。殺すなと言われていたのに、危うく殺してしまうところだった。
「――ごめんなさい、神崎君。私まだ」
「――待て、来た」
己の未熟さを戒めようと声をかけた時のことだった。
「――え、うそ」
月明りがぼやけはじめ、僅かな内に周囲を霧が覆った。……もっとも、私が驚いたのはそこではない。そこに現れた存在に対してだ。
「……なんて誘いだしたんです、ヤギリさん」
神崎カイが、倒れ伏す騎士に問いかけた。
その騎士は、うぐ、と一度だけうめき声を上げてから、
「吸血鬼VS狼男、世紀の決戦――みたいなニュアンスで、伝えた……」
「そうですか」
見ればさっきまで戦っていた騎士は、確かに前回戦ったあの騎士は、纏っていた霧が解けて、狼の姿を現していた。――そこで、違和感の正体に気が付いた。
――そもそも私は、前回も今回も甲冑を纏った〝騎士〟などという存在と戦っていないのだ。
目の前からは、鉄の擦れるような音。
――ああ、なんということだ。
彼の求めた騎士は、たった今この場にやって来たのだ。
15/
透き通った月夜は、瞬く間に茫漠たる霧に飲まれる。その移り変わりの刹那、俺は自身の詰めの甘さを痛感した。
――風宮明美の破壊衝動が想像以上の物だったのだ。よもやこれほどまで一方的な戦いになろうとは。未だ立ち上がることができないヤギリさんを見つつ、状況の立て直しを迫られていることを理解した。
「――神崎君」
声は風宮明美から。その口調は先ほどと比べれば若干棘がある。
「すまん、ヤギリさんを騎士と偽ったことは事実だ」
「……それはいいわ。私が前回戦ったのもその人だってことは分かってるから。もう十分殴ったし」
「気付いていたのか」
「ええ。だって私、向こうから歩いてくる騎士なんて知らないもの」
それは正しい。前回、彼女が戦ったのは霧を纏ったヤギリさんだったのだ。一方、俺が戦ったのは霧を放出するあちらの騎士だったわけだ。前回戦った時点では、騎士が、纏っていた霧を放出したのかと認識していたがそれは誤りだった。――そもそも、別の存在だったのだ。……ナイフが能力を発動できなかったのも頷ける。
「――ヤギリさん、動けますか」
しゃがみ込み尋ねる。ヤギリさんは何とか立ち上がり、口を開いた。
「……動くことはできる。けど、戦うのは無理そうだ。痛い。あばらが何本かイってる。つらい」
そう呟きながら、姿が狼男のそれから人間の姿に戻っていった。顔面蒼白だ。ちなみに眼鏡はかけていなかった。割れると危ないからなのだろう。
――と。そんな悠長に構えている場合ではなかった。
「最近ここらで能力者同士がよく争っているという噂を聞いてきたのだが、その一人がヤギリ、君だとはな」
ぼやけた声ながら、相も変わらずはっきりとした意思が見て取れる。――だがしかし。
「そうヤギリさんを責めないであげてください。この人は、普段は山の中で衝動を発散しているだけなんですから」
――事実だ。ヤギリさんは人に危害を加えたことは一度しかない。それが風宮明美だったのだ。普段は満月の夜にこみあがる破壊衝動を、隣町に聳える鮮凪山中で暴れることで発散させていたのだ。そこに向かう途中、たまたま風宮明美と出会い、結果として暴走してしまったのだ。今まで記録をつかめなかったのはそのあたりが原因だったりする。
「ふむ。その点は考慮しよう――だが、私を騙したことは看過できんな」
霧の騎士は、妙に芝居がかった口調で話す。――ダメだ。笑えてくる。
「……? なんだ、なにがおかしい」
「いえ、別に。正体が分かった後だと、無理しているようにみえまして」
「――どういうことだ」
「あばらが折れてそれどころじゃないヤギリさんの代わりに言わせていただきますね――――気取りすぎですよ、進堂さん……いや、進堂キリカさん」
「――――っ!」
騎士が歩みを止める。俺が思っていた以上に衝撃だったのだろう。
「……え、ちょっと神崎君、説明してもらえない?」
一人だけついてこれていない人がいた。言うまでもなく風宮明美である。
「確かに説明がいるな。……まあ簡単な話だよ。あちらの騎士が、以前君が抱きついた進堂さん――フルネーム進堂キリカさんだ。……そして、」
「君と戦った狼男、つまり僕が、その弟である進堂ヤギリだよ」
生き切れ切れながらも、ヤギリさんが続きを話した。
「――もしかして、鮮凪高原の野犬騒動の被害者って」
風宮明美が何かを理解した表情になる。
「ああそうだ。ここにいる進堂姉弟が、野犬に襲われた子供だ」
それを聞いた風宮明美は、納得と驚愕の入り混じった表情を見せた。
「……じゃあ、進堂さん――いいえ、キリカさんが、霧の中で殺人を犯していたってこと?」
それに首肯しようとしたところを、怒号が遮った。
「違う! 私がやっていたのはただの殺人じゃない! 能力を悪用する人間に対して下した鉄槌だ!」
その言に虚偽はなかった。視た上での俺の判断だから間違いはない――ただ。
「こんなにも強大な力を貰い受けておいて、矮小なことしかしないヤツを! 愚行に走ることしか能のないヤツを! 私は赦せない! だから霧の中に溶かした!」
――一つだけ、気になった。
「そうやって、自分自身さえも騙すんですかキリカさん」
「――――どういうこと」
「そのままの意味ですよ。貴女は、そうやって自分自身さえ騙して、殺人を続けているんだ。本心を、虚飾で上書きして」
だから、俺には読み取れない。偽りの思いを、キリカさんは自己暗示によってさも真実であるかのように認識していたのだから。それは俺の目には真実に映ってしまう。
「――何が言いたいの」
口調が普段のものに戻っていく。自己暗示が剥がれ落ちたのだ。
――そして、俺が残りを引き剥がす。
「キリカさん、貴女――――殺戮を楽しんでいますよね」
「――――――」
彼女の動きが完全に止まる。彼女すら知覚していなかった真実が露わになる。
かちかち、と。何かがぶつかる音がする。――それは鉄の音でなく。
「――――う、そよ、そんな、そんなこと」
それは歯と歯がぶつかり合う音。――キリカさんが、震えているのだ。
その声色は確かに凶悪なる真実におびえたモノ。だがしかし、その震えはやがて全身に波及していき、その内にあり方を変えていく――いや、本来の意味に回帰していく。
――――その震えは、驚愕でも恐怖でも、はたまた嘆きでもなく。
「さっきから何がおかしいんですか、そんなに笑って」
――狂喜だ。
「わかんない、わかんないよカイくん! でも、でもね、こうやって剣を振り回して暴れているとき、意味わかんないぐらいに愉しいのよ…………!」
そう笑い叫びながら、彼女は俺に襲い掛かる。
「こうしている時は、この時だけは、あの怖かった夜を思い出さずに済むのよ――――!!」
「神崎君! 私が――」
迫る鋼の騎士を食い止めるべく、風宮明美が前に出る――だがそれを俺が止める。
「ちょっと、なんで!?」
「まだ衝動をコントロール仕切っていない状態で戦うのは危険だ。キリカさんみたいになりたいのか?」
「え――じゃあ今のキリカさんは」
「そうだ、自身のトラウマに支配されている。そしてトラウマを抑えるために感情を暴走させている――止めるには、俺の鎖が手っ取り早い」
「けど……!」
「……ああ」
だが黒咲との約束もある。戦わないでほしいと、彼女に言われた。それは、守り通したい約束だ。……とはいえこのままではまずいのも確かだ。俺は――――
「……僕が戦って姉さんの動きを止めよう。その隙を狙ってくれ」
ズタボロの状態で、ヤギリさんが提案する。――戦う役割を、自分が担おうというのか。その体で。
「できるんですか、その状態で」
「できるかどうかじゃなく、やるんだよ。姉さんには、いつも通り笑っていてほしいから」
その目に曇りはない。ならば、信じよう。――彼の限界は、こちらで見極めよう。
「では、お願いします」
「ああ。任せてくれ」
その直後、ヤギリさんの体は再び月夜に吠える狼の姿となり――――
「なんでっ、どうして邪魔するの!」
キリカさんが振りかざした剣を受け止めた。……その掌からは、血が滴っている。
「――姉さん、もうやめてくれ」
「どうして! 悪を滅ぼすことの何が悪いの!」
「姉さん、それは違うだろ。姉さんが見ているそれは超能力者でもなければ悪でもない」
――そう、彼女、進堂キリカは正常にモノを見ていない。彼女に仇なす存在は全て――
「――あの時の
「ヤギリィィィッィィィィィィイィィィィッィィ!!」
――彼女を未だ縛り続ける『恐怖』として映っていた。
――直後の衝撃、刹那の一撃。
「ごっ――――」
キリカの鉄脚による一撃がヤギリを突き飛ばす。――このままでは危険だ。すぐに止めなければ。
「いい、まだ、やれる」
「しかし」
「いいんだ、姉さんは、僕が……」
制止すら遮って、ヤギリさんは立ち上がる。――いったいどこに、そのような力が残されているというのだろうか。
「僕が……強くなって守らないと――――!」
狼は駆ける。それは
「アアアアァアアァアアアッァァァァァァアァアァアアアアア…………ッッ!!」
一人は恐怖を、霧の中に埋没させようとし。
「姉さぁぁぁぁぁあああぁぁぁあぁぁああああぁああああああ――――ッッ!!」
一人は恐怖を、己が力に変えて。
二つの――同じ原初から生まれ落ちた
0/3 ナイトミスト(K)
――そうだ。怖かった。恐かった。こわかったのだ。私は、霧の中、こちらを見ていたあの野犬がこわかったのだ。幼かった私には、それが大きな狼に見えて。今にも食べられそうで、こわくてこわくてこわくて――――食べられるぐらいなら、いっそ霧に溶けてしまいたくなって。それなら痛くなんてないと思って――――思っていたのに、自分だけじゃなく周りの存在さえ霧に溶かし始めたあたりから段々とおかしくなっていって――――――気が付いたら、私の心はズタボロになっていて。結局痛い思いをしてしまっていて。
――結局のところ、恐怖は私の中から消えてはくれなくて。
それで、……それで、――それで
私は心さえも溶かして――――
「その必要はないよ、姉さん」
溶かして――――しまう前に、やさしい声に、引き留められた。
16/0/3 ナイトミスト(N)
――こわかった。確かに、僕はあの野犬をこわいと思った。
……けれど、そのこわさは、すぐに別のものに変わっていった。
――僕には、そいつが、気高き狼に見えたのだ。
一匹だけでそこに佇み、霧の中を歩むそいつは、僕の中で強さの象徴となっていた。今にも襲われそうになっているのに、僕は――そいつに惹かれていたのだ。
だから、その強さを身に纏った。あの夜を忘れないように、あの狼と同じように霧を纏って。――隣で震えていた、姉さんを守れるように。
――ああ。どうして今日まで忘れてしまっていたのだろう。……いや、答えなら出ている。それは僕が弱かったからだ。そして姉さんが弱さを隠し続けてきたからだ。
――だから、都合よく忘れていたのだ。楽をしていたのだ。――姉さんは、今までずっと怯え続けていたというのに。
だから、こんどこそ守ろう。今にも溶けてしまいそうな姉さんを繋ぎ止めよう。鎖なら用意してもらった。……あとは、僕が動くだけだ。
……いつかの
――ああ、違うだろう。お前は、そんな醜悪な獣じゃなかった。僕が憧れた獣はそんな汚らしい泥じゃない。――なあ、そうだろう、お前は
「お前は……ッ! 気高い狼だったじゃないか……ッ!!」
あの夜、脳裏に焼き付けた鋭利なる爪で偽りの
消え去る虚像。そんなものに、関心などない。――僕が誓ったことはただ一つ。
「その必要はないよ、姉さん」
「え――――」
「姉さんは、僕が守るから」
今にも溶けてしまいそうだった姉さんを守り抜くことなのだから。
17/エピローグ
目が覚める。外から聞こえる物音から察するに、どうやら朝のようだ。――部屋に光は射しこまない。射しこまれると灰になってしまうからだ。
起き上がり時間を確認する――午前七時。既に下の階からは味噌汁の匂いが漂ってきている……。
「やば……また寝すぎた」
昨夜は遅くまで起きていたとはいえ、アイツにだけやらせるのは忍びない。そもそもアイツだってずっと起きていたわけだし。
――そう、アイツの鎖によるバックアップを受けて、進堂ヤギリさんは姉であるキリカさんの心象世界へとダイブした。そして見事、彼女を救い出したのだ。恐怖の象徴として肥大化していたトラウマを切り裂いて――――。
……その後、重傷を負ったヤギリさんは病院へ運ばれ、そしてキリカさんは、自身の心の状態すら顧みずにヤギリさんの看病をしている。
「…………」
キリカさんのやったことに対して、私から言えることなどは一つもない。私に言えることではないのだ。――この先どうするのかは、キリカさんが考えることなのだ。常識で測ることのできない超常の力であるが故に。彼女は罰せられない。それをどう思うのか。どうしていくのか。それは、彼女の選択に委ねるしかないのだ。
「風宮さん、朝ごはんできてるよ」
「あ、うん、ありがとう。すぐ行くわ」
……神崎カイがやって来た。わざわざ朝ごはんのお知らせに来るとは律儀な奴だ。
「あ、そうだ。今日の放課後、ヤギリさんのお見舞いに行ってくるから遅くなる。だから先に晩ごはん食べてていいよ」
……本当に律儀な奴だ。つーか夫婦か私たちは!?
「……? どうしたんだ風宮さん。そんなに顔を赤くして」
「何でもないから。ほら、すぐ行くからアンタこそ先食べてきてよ。待たせるの悪いし」
本当にコイツは、素でこういうことを言うから困る。だからあんな能力なのかもしれない。他人の領域に簡単に入ってきてしまうのが、アイツの危ういところであると思うのだ。
不思議そうな顔をしながら部屋を出ていく彼の姿を見て、より一層その思いは強まっていった。
「やっぱり、どこか壊れてる」
自分でも驚くほどに無意識に、私は脳裏をかすめた感想を漏らしていた。
……というより、もうすでに壊れてしまっているのではないだろうか。幼かった彼――神崎カイが殺人を犯したその時から、彼はもう取り返しがつかないほどに壊れてしまったのではないのか。考えれば考えるほど、私の疑念は深まっていく。
――そして同時に。
「じゃあ、それを繋ぎ止めているのは――」
――あの少女、黒咲アイの存在に、何か得体の知れない大きな力を感じてしまう。神崎カイを維持しているのは、実はあの少女なのではないのか。――これ以上は計り知れない。けれど一つだけわかることがある。
神崎カイを救ったのは、きっとあの少女なのだ。それだけは、何故か確信が持てた。
では私には何ができるのだろう。あの二人の間に何があったのかはわからない。わからないから何もできないのだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
今の私には、まだ答えらしい答えは出なかった――――。
第二章「ナイトミスト」、了。第三章に続く。↓
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