第二部 その一 すみれのなみだ
第一章 影の根城
第15話
ヴァイオレットは独りコードリッカの港に立っていた。
日が昇り始めたばかりで、辺りはまだ薄暗い。朝一番に出港する飛空船に乗るつもりだった。乗船の手続きはもう済んでいる。船の準備が整って、乗客が乗り込む許可が出るまで桟橋の近くで待つ。
他に服を持っていないから、紫紺のワンピースを着ていた。しかし長い黒髪は一つに束ね、とんがり帽子も化粧も無い。両手には、魔法の杖の代わりに旅行鞄を握り締める。
まばらに行き交う人の流れを、見るともなしに見た。朝焼けに染まる空が、哀しい。
あれから、数日が過ぎた。——もう、十日近くになるのかもしれない。随分と、長居してしまった。
ぼんやりと思う。
数日前にコードリッカで起きた大変な騒動の後、みっともなく泣きじゃくるヴァイオレットを、金枝亭の人たちは離れ小島にかくまってくれた。何も言わないままただうずくまる彼女に、食事や衣類を用意して、世話をしてくれた。特にミラは同じ女性同士だったから、身の回りのことだけではなく、いろいろと気遣ってくれたように思う。
本当に優しい、善い人たち。
それが、つらい。
居心地の良さが、逆にヴァイオレットの胸を詰まらせる。申し訳なかった。
ここはわたしの居場所じゃない。
いつまでも甘えていてはいけない。
だから何も言わずに出て来た。もちろんとても、言い尽くせないほどに感謝しているけれど——なにも、言えないのだ。言える言葉が無い。
そんな彼らを裏切るようで、余計に心苦しかった。でもそれ以上に、思い浮かべただけでヴァイオレットの心を重く潰すものがある。
——わたし、何も聞かされてなかった。
——置き去りにされた。
——騙されてた……。
思うたび、そうじゃないと否定する。ただの不可抗力で取り残されてしまっただけ。そう、思い直す。ヴァイオレットたちの〈家〉へ帰れば、何事もなかったようにギイドもそこにいる。ちょっと、不服そうな顔をして。
——だから、早く帰らないと……。
そう思うのに、どうしようもなく、怖くなる。
「…………」
出航準備が整ったのか、船員が乗客を呼び、けたたましい鐘を振り鳴らした。ヴァイオレットは振り返って足を踏み出すまでに、一呼吸分の間が必要だった。鞄を持ち直し、顔を上げる。
『水臭いぞ。独りで行ってしまうなんて』
「きゃあ!」
腰が抜けるかと思うくらい驚いた。
顔を上げた先、ほとんど頭上に一羽の鳥がいた。真っ赤な翼、黄色の嘴、群青のつぶらな眼、なにより人の言葉を話す——ヴァイオレットにはこの鳥の鳴き声がそう聞こえる。
よく見知った鳥だった。——見知りたくもないが。
この世で最も偉大を自称する、そしてそれが大袈裟でもなんでもない魔術師、アマランジル・アルグカヌクその人だ。——ただしヴァイオレットにとっては、ただのヘンタイでしかない。
ヴァイオレットは思わず頭を庇ってしゃがみ込んだ。菫色の瞳を上げて窺う。
「な、な、な、なんでいるのっ、ヘンタイ!」
やっと出たのは、思ったよりも震え声だった。
『……またそんな呼び方をする……』
赤い鳥は至極不満そうに目を細めてぼやきながら、近くの手摺りに着地した。「ふん」と一つ鼻を鳴らして気を取り直す。
『隠し事が出来ると思ったのか。
こちらにはハルトがいるのだぞ』
——そうだった……。
ハルトというのは、他人の心を読むという恐ろしい〈天恵〉を持った少年だ。こっそり出て行こうと思っても、考えた時点で計画は露呈してしまう。それに気付かなかった自分は、どれだけ馬鹿なのか……。ヴァイオレットはなんだか悲しくなった。
『ああ、勘違いするな。
ハルトは他人の隠し事をべらべらとしゃべるような奴ではない。
お嬢さんの様子がおかしかったから、みんなで執拗に問い詰めて白状させたのだ。なかなかに手強かったぞ』
知ったふりして引っかけようとしたって、見破られるのだからな、と言う。
このトリに軽く拷問を受ける少年を想像して、ヴァイオレットはさらに表情を曇らせた。あのぼんやりとした少年が、自分のせいでそんな目に遭ったのかと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
アルグはさっさと話を進めた。
『それはそうと。
ほれ、宿屋親子からの餞別だ』
「!」
虚空に群青色の魔法陣が光り、次の瞬間ぽんっと音がして、どこからともなく布の包みが現れた。ヴァイオレットは鞄を地面に慌てて立ち上がって、危うく受け取る。底は箱型のようだ。上は丸みがあって、両方一緒に落ち着いた花柄の布で包まれている。
『簡単な総菜とパンのお昼ご飯だそうだ。
本当は見送りたいけれど、迷惑になるといけないからと言って、遠慮していたぞ』
「……」
本当に、なんて善い人たちなんだろう。こんなわたしのために……。
不意にこみ上げてくるものがあって、ヴァイオレットはうつむいた。指先で目元を拭い、ぐっと堪える。こんなのは駄目だ。涙はいらない。己に言い聞かせて、改めてトリを見る。
「あなたは……何の用?」
彼らと違ってこのトリは、ただの見送りにわざわざやって来るような善人ではないはずだ。周りの人に鳥の言葉は分からないから。強いてそんな風に思って、いくらか沈む——控えめな声で問いかける。
トリは得意げに言った。
『決まっている。
お嬢さんについて行こうと思って』
「へ?」
『ギイドの根城へ帰るのだろう。一緒に行こうじゃないか』
虚を突かれて言葉もないヴァイオレットをまるで気にせず、トリはいっそ楽しげに続けた。
『私としてもいろいろアレな身の上なのでね。一所に長居はしたくないのだよ。
ハルトはなかなか旅立つ気配が無いし、良い機会だから、ギイドと面と向かって話をしてみるのも悪くない』
「そんなの……」
——認めるわけないでしょう。
咄嗟に拒絶しようとして、ヴァイオレットは口をつぐむ。
随分勝手な物言いだった。しかしそれを言ったところで、ヴァイオレットにはこのトリがそうしようと本気で思った事を、止めるだけの力が無い。もともとの実力でもそうなのに、何故かあの時から、未だに魔法が使えないのだ。魔神が再び封印されると、他の魔法使いはみんな、元通り使えるようになったのに……。
そんな状態で空を自由に飛ぶ鳥に、ついて来るなと言ってどうなるだろう。止める手立てなんて、無い……。
「…………勝手にして」
ため息も出ない。
ヴァイオレットは包みを片手に荷物を取り上げ、船へ向かった。トリが小首を傾げたのが横目に見える。
『——ならばそうさせてもらうとしよう』
大きな翼が空を打つ音を、背中に聞いた。
▽ ▽ ▽
『なるほど! 無人島を勝手に拝借して、根城にしているのだな!』
小振りな飛空船の甲板で、
視線の先には、青く広い空を背景にした、目的の島がある。あまり高くない岩山を中心に、周りを森林が覆う小さな孤島。ギイドが本拠とする、ヴァイオレットたちの〈家〉だ。
現在はギイド一味が住み着いているとはいえ、本来ならば無人島。定期船が運航されているはずがない。そのため一番近くにある交易島テンプットから、融通のきく船主に金を握らせ、こうして送ってもらわなければならなかった。
あれからいくつかの島を経由して、既に二日ほど経っている。
なんだか妙なことになってしまったな、とヴァイオレットは今更思う。
こんなトリを連れて帰ったら、怒られるだけでは済まないかもしれない。そんな思考に胸がざわついて、息が詰まる。でもこのトリは、ギイド自身にどうにかしてもらうしかないのだ。ぐるぐると同じ所を巡る。考えても他にどうしようもない事だと自分でも思うのに、ヴァイオレットの頭はそんな思考を繰り返して、いっぱいいっぱいだった。
間もなく上陸してしまう島を憂鬱に眺めながら、ヴァイオレットは髪を解いて風に遊ばせた。アルグを横目に、おそるおそる窺う。
「いきなり喧嘩は止めてね」
『話がしたいだけだと言ったろう。
まあ、向こう次第だが』
「…………」
振り返りもしないこのトリは、少しもヴァイオレットを安心させてはくれないのだった。
孤島の端で降ろしてもらい、船が離れていくのを見送ってから森へ分け入る。名目上無人島なので、道は無い。目印さえ無い森を、ヴァイオレットはすらすらと進む。人が踏み入らない鬱蒼とした森を目隠しにした、岩山の陰にある洞窟がギイドの根城だ。
その入り口が見えた所で立ち止まった。
脇の低木に、周囲を探ってきたアルグがゆるやかに留まる。
『思ったより所帯じみているな。
あっちに畑があったぞ』
「……そうね」
それについては同感だった。ヴァイオレットも無法者の住処というのは、もっと殺伐としているものだと思っていた。
しかしここには一部の仲間が遊び半分に作った畑があるし、実は鶏も飼っている。いちおう木材と草葉で隠してある洞窟の入り口前には、木製の椅子と机、それに簡単なかまどの跡さえある始末で、いっそ隠れる気がない。
なんとも長閑な根城だった。
それもこれも、主の放任主義によるところが大きい。
「……」
旅行鞄を握る手に力が籠もる。ヴァイオレットの胸に膨らむ訳の分からない不安が、一歩を踏み出させなかった。踏ん切りがつかないでいるうちに、外に出ていた仲間に気付かれ、先に声を掛けられてしまう。
「ああ、ヴァイオレット。おかえり」
「……う、うん。ただいま」
大きく手を振られて、ヴァイオレットもぎこちなくうなずく。もう一人が洞窟の中へ顔を差し入れて、中にいる者たちにも帰宅を知らせた。
仕方ないので息を整え、ヴァイオレットは中へ入った。遠慮のないアルグがその後に続く。すれ違う仲間たちと軽く挨拶を交わしながら、奥へ向かう。
もともと天然の洞窟だったものを、魔法と人力で整えたのだろう。むき出しの岩肌ではあるが、それなりに過ごしやすくなっているし、ところどころ高い天井から空が見えて、換気もされている。
枝道と部屋からなる洞窟の、真ん中辺りにあるいくらか大きめの空洞が、大勢がごろごろしたり食事をしたりする居間になっていた。男所帯のせいもあって、いつも下町の酒場のような臭いが充満しているから、ヴァイオレットは少し苦手だ。
思い思いにくつろぐ仲間たちを見渡して、一人を見付け出す。荒い布に藁を詰めただけの寝床で昼寝をする大男・ヌーだ。年長の彼は、放任するギイドの代わりにみんなから相談を受けたり、まとめ役をしたりすることが多い。
声を掛けると片目を開けて、あくびを伴う大きな伸びをしながら起き上がった。その低く響く声だけで、ヴァイオレットなどは気圧されてしまう。
「よう、帰ったのか。
なんか大変だったらしいな」
「ええ……。
あの……——ギイド様は?」
一瞬ためらってから、口にする。
向き合ったヌーの厳つい目が、怪訝に眇められた。まだ眠たそうに、目立つ赤銅色の髪をかき回す。
「なんだ? 旦那は一緒じゃねえのか?」
ひやりとした。
ヴァイオレットは自分が顔色を失くすのが、はっきり分かった。
「——ギイド様、いらっしゃらないの……?」
「あたりまえだろ。おまえさんと一緒に出てったんだから。はぐれたのか?」
「……っ!」
ヴァイオレットは走り出した。
旅行鞄を取り落とし、呼び止める声も耳に入らず、向かう先は洞窟の一番奥、ギイドの居室。
だって、ここにいるはずだ。
ヴァイオレットの目に焼き付いている。
少女に切り裂かれるギイドの姿。
あんな酷い光景、一生忘れられそうにない。
そして——、
ふわりと消える、その姿。残る白い紙。
あの光景もまた、頭から離れない。
ヴァイオレットは二つになったその白い紙人形を持っていた。そこに残る魔法の痕跡を確かめ、そして何度も考えた。
自分と一緒にコードリッカに行ったギイドは幻影だった。けれども根城に帰れば、いつものようにそこにいる。ギイドはかなりの引き籠もりだから、大事な用とはいえ遠出をするのがイヤで、あんな事をした。みんなの目を欺いて、本当は一歩も部屋の外へ出ずに、隠れているのだ。
それで説明が付く。納得できる。
でも……——。
その場所は魔法で手を加えたのか、洞窟の岩壁が均されて、木の扉がはめ込まれていた。ヴァイオレットは勢い余ってその扉にぶつかりそうになる。
ギイドの部屋。中に入ったことはない。日頃から人を入れたがらないどころか、あまり開きもしない。その扉に張り付き、息を整える間も惜しんで——祈るように、叩いた。
「ギイド様! いらっしゃるんでしょう!
失礼します! 開けます!」
返事も待たない。
怒られたっていい。居てくれるなら、それでいいから……!
勢いに任せて扉を開く。
「——……」
室内は真っ暗だった。
廊下の明かりが入り込む。
寝台と、机と、椅子と、小さな箪笥——それだけしかない殺風景な部屋。
他には何もない。
もぬけの殻。
「……」
膝から力が抜けた。
ああ、と思う。
ずっと予感はしていた。心のどこかで。ただ認めたくなかっただけ。確かめるのが怖くて、だからいつまでもぐずぐずと、先延ばしにしてしまった。
形のない不安。
これが答え。
ギイドはどこかへ消えてしまった。
ヴァイオレットはその場にへたりこんだ。
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