第37話 筆力の向上、小説とは何か。

 漫画の作者が、連載中に画風をがらりと変えて、主人公やヒロインがまったく別人になってしまう。


 よくあることですね。


 これと同じことが、小説にも言えます。拙い筆力でつづった物語のほうが、むしろ読者に好印象を与えていた。そんなケースがあります。


 最初に、小説とは回りくどい描写のかたまりであると言いました。筆力の向上は、言い換えれば無駄な、回りくどい文章を書く能力の向上です。

 ある一定の筆力を超えると、もうそれは蛇足を付け加えるが如くです。本当はラフスケッチをしたいのに、うっかり精密画を描いてしまう。もてあました筆力が邪魔になってくることがあります。

 そして、文体が綺麗すぎるのです。上品すぎて、粗野で乱暴な感情が抜け落ちてしまっているのです。


 小説とは何でしょうか。文字、文章によるイメージの伝達、と考えて見ましょう。

 最初のうちは、描写が足りないと言われます。もっと情報を詰め込め、と言われます。その通りに練習すると、なるほど小説らしくなっていきます。


 ですが、筆力が向上してくるにつれて、ある時点から、それは小説ではなくなっていきます。言葉のサラダ。表現の大盤振る舞い。そういうものになっていってしまいます。


 今度は無駄で回りくどい言い回しを、ふるいにかけ、振り落とす必要が出てきます。かっこいいと思っていたその言い回しは、本当に必要でしょうか。

 太陽を浴びて死に掛けのヴァンパイアに、とっておきの銀の弾丸を撃ち放つような、殺しすぎオーバーキルをしていないでしょうか?


 冒頭の比喩のように、小説家の筆力とは、漫画家で言えば画力です。あるに越したことはありません。しかし本当に上手い漫画家というのは、必要な情報を取捨選択し、時に、手を抜いた風な絵を描くこともめずらしくありません。これは何を意味するのでしょうか? 小説家も、わざと手を抜いた描写をする必要があるという意味なのでしょうか?


 それは違います。彼らは手を抜いた「風な」絵を描いているのであって、その基本には完璧なデッサン、描写があります。単に情報が取捨選択されているだけです。あなたはディケンズが『クリスマス・キャロル』でそうしたように、執拗に徹底的にスクルージを描写することもできます。

 ですが、その描写を前にして、本当に必要な情報はどれだろうと考え、悩み、一言で説明することもできます。


 霧の町、ロンドン。そこにスクルージという拝金主義者がいた。


 それは作者が最初に通った、描写不足の道ではありません。むしろその逆に、限界まで描写を引き絞った状態です。文を削ることを恐れないで下さい。一度ぱんぱんに膨らませた描写を、必要なだけ削っていってください。


 小説とは、無駄な、回りくどい文章のことです。ですが時には、一切の無駄が無い、ストレートな文章が好まれることもあります。筆力の向上に伴って、作者にはそういう選択の幅が広がります。どうとでも書ける物を、人物を、一体どこから光で照らし、どのように描き出すか?


 真の小説とは、どうしても必要な、回りくどい文章のことです。

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