§1-3 ぐるんぐるんと世界は動く
あたしは今、お葬式の真ん中にいる。
奈那さんが死んじゃった。
孤児になっちゃった。
あたしの同居人で母親代わりの保護者で最後の砦、最後の守護女神でいてくれた奈那さんが、いともあっけなく、簡単に死んだ。
かっこよくて美しくて繊細で凜々しい、この地球上でもっとも素晴らしい女だった。
いつものようにカルチャーセンターで絵の講師をして、帰る間際に倒れて救急車で運ばれて、あたしが駆けつけたときにはもう亡くなっていた。突然に心臓が止まっちゃって、処置しても間に合わなかったと救命センターの医者があたしに深々と頭を下げた。
奈那さんとあたしは、血の繫がらない母親と娘だった。
彼女はあたしのママの恋人だった。
少々ややこしい。
女同士だったけれどふたりは恋人同士で仲良しだった。あたしのパパは元から存在しないからどういう人なのかわからない。ママは未婚で母親になったけど傍には奈那さんがいてくれた。だからあたしたちは女三人で暮らしてた。
でもそれは五年前までのこと。
あたしが小学校に入学したばかりの初夏、ママが病気で死んだ。あたしと奈那さんはふたりぼっちで残された。
ママと奈那さんは女同士だし結婚はしてなかった。
もちろん戸籍上は赤の他人だ。
だからあたしと奈那さんも法律上の親子ではないし苗字も違う。だけど大切な相棒で、そしてふたりっきりの家族だった。
ママが死んだときのことを思い出そうとしても何も浮かばない。
記憶がない、まったくない。
あたしが思い出せるママは生きているママと死んだ後の写真のママだ。死ぬ瞬間と死んだ直後のママのことは記憶にない、お通夜もお葬式も記憶にない。何とかしてママの葬儀のことを思い出そうとしても、海馬が導き出すのは異様な光景だ。それは映画のような俯瞰だった。あたしの目は天井の隙間からママの遺影と泣いているあたしを見下ろしている。きっと、他の誰かから聞いた葬儀の様子を自分なりに都合良く再構築して、それを認識しているのだろう。
でも今度は違う、あたしの世界は明晰だ。
今日のこの日のことを決して忘れることはない。
ママは死んだ。奈那さんも死んだ。ひとは死ぬ。必ず死ぬ。
あたしもいつか死ぬ。
当たり前のことだって理性ではわかっているけれど、怖くて心細くて頭の中身が真っ暗闇になる。
奈那さんとふたりでぼんやり暮らしていた頃、彼女は言った。
『あやちゃん、ずっと一緒に暮らそう。そしたらあたしもひとりじゃないからね。あたしたちは寂しくなんかないからね、あたしがいるからね。あやちゃんとずっと一緒だもん』
ひとは死ぬ。
必ず死ぬ。
だから、ずっと一緒なんて約束は最初から嘘だ。
大人は子どもに対して平気で嘘をつく。サンタクロースのことだってそうだ。いつかは必ずばれると知っていながら嘘をついて、あたしばっかり幸せにしておいてずるい。ちなみに恋人がサンタクロースというのはもちろん昭和時代の誰かが考えた嘘だ。
ずっと一緒だなんて。
もしもあたしが子どもじゃなくて大人だったら、それでも同じことを言ったわけ?
奈那さん。
あたし、あなたに何も返せなかった。
どうすればいいの。
*
お経が続く、焼香の列が動く。
斎場には五十人以上が集まった。正直驚いた。奈那さんを知っているひとがこんなにたくさんいたなんて驚いた。
奈那さんはイラストレーターだった。
イラストを描くのが本業だったけれど、最近は漫画家を目指しているひとたちの専門学校やカルチャーセンターで絵を教えて生計を立てていた。ふわふわした生き様だったと思う、でも不安定ではあったけれど決して不幸ではなかったし、貧しくもなかった。
焼香の順番を待つひとたちの中には年配の女性も多くて、皆、美しい彼女の遺影に悲しい溜息をつく。
「まだ四十歳だなんて女盛りなのにねえ、ご主人もお子さんもなくてお可哀相に」
「あらご存知ないの、先生はアッチのご趣味の方なのよ」
老婆のひとりが下品に嗤って小指を立てた。
「長くおつきあいなさっていた女性に先立たれて、今は忘れ形見の女の子と暮らしてらしたんですって。ほらあの子」
「まあ……」
老婆たちがあたしを見ている。
視線が胃に突き刺さる。
そのほとんどがカルチャーセンターで奈那さんから絵を習っていた有閑ババアなのだろう。亡くなった奈那さんにはもう聞こえないから安心して陰口を叩いている。
「レズビアンだったのねえ、あたくし誘惑されなくて良かったわァ!」
ファッキンファッキン、あのババアどもを一人残らずまとめてぶん殴りたいぶん殴りたいぶん殴りたい。
あたしは両手の拳を固める。
感情でひとを不幸にできたらいいのに。報復したい。奈那さんの陰口を囁くやつはみんな死ねばいい。爪の先が掌に刺さる。涙がにじむ。
同じ言葉がきっと聞こえていたはずなのに、奈那さんのご両親は誰に対しても深々とお辞儀を返していた。
あたし、実は奈那さんの両親には今回初めて会った。
ごく普通の、小柄なおじいさんとおばあさんだ。
でもおじいさんは背筋を伸ばしていたし、おばあさんは色が白くて美しい。なんとなくだけど、お金持ちなんだろうなと感じた。
奈那さんが亡くなった病院で、ふたりはあたしに「あなたがあやめちゃんだね。娘と仲良くしてくれてありがとう」と小さく言った。あたしはぶんぶんと頭を振った。奈那さんに面倒をみてもらっていたのはあたしのほうですと答えた。
だって他人なんだもんな。おじいさんとおばあさんはあたしの存在を良く思ってはいないのだ。
人間の距離感について考えると、気が滅入る。
このときあたしがどういうことを考えたのかというと、人間にも引力があるということだ。
奈那さんに教えてもらった。
この時空に存在するすべてのものには引力がある。それを万有引力っていう。引力があって引き合うから、近づきすぎるとぶつかる。ぶつかったときに運良く合体できればずっと幸せ、片方が砕け散ればそれでおしまい。奈那さんは小学生女子を相手にかなりアレなことを話していたのだなと今になってはそう思う。
人間と人間は、近づきすぎたら合体するか砕け散るかの、ふたつだけ。
奈那さんはママと愛し合っていたけれど、ママが何処かの男の人との間にあたしを産んだように、彼女も夫がいて家庭があったらしい。
離婚したらしい。
奈那さんが家に転がり込んできたとき、彼女は旦那さんと離婚したばかりだった。あたしはそう聞いていた。でも本当は、大人たちの噂話によると、離婚する前から長いことママと不倫していたらしい。ふたりはうんと昔からからつきあっていたらしい。
初耳だった。
女同士で不倫なんて最高にロックだ。笑える。いや笑えない。
あたしは再び拳を握った。唇を噛んだ。
ほらやっばり、大人っていつも子どもには嘘ばっかりで肝心なことは何も教えてくれないんだから、もう。
もう、もう。
「大丈夫?」
両手で顔を隠して少し泣いていたら誰かがふわりとあたしの頭に触れた。
若月家の伯父さんだった。
背の高い白髪交じりのおじさんで、ママのお兄さんだ。
奈那さんが亡くなって、あたしが最初に連絡をしたのがこのひとだった。いつも奈那さんが『あたしに何かあったときには若月のおじさんにデンワすること!』とあたしに言い聞かせていたからだ。だからあたしは奈那さんが病院で亡くなったとき、まず伯父さんに電話した。あたしから伯父さんに電話をかけるのは初めてだった。それほど疎遠だった。
だけど若月の伯父さんはすぐに駆けつけてくれた。
面倒な顔ひとつしないで奈那さんのご両親に連絡して、あたしの喪服を手配してくれて、あたしを見守って、あたしに関する面倒な手続きをすべて引き受けてくれた。
きっと奈那さんは前々から若月の伯父さんとあたしについて相談していたのだろうと思う。
「葬儀の後のことだけど、奈那さんのご両親は君が火葬場まで同行するのは遠慮して欲しいそうだ。それからこれからは僕が君の面倒をみることにしたよ、大人同士で勝手に決めちゃってごめんね。でも何も心配は要らないから」
「これからお世話になります」
何と言えばいいのかわからなかったので、少々奇妙な挨拶になってしまった。
奈那さんを亡くしたあたしは、当然のように、今夜から若月家に居候することになっていた。
これはあたしの意志ではなくて周囲の大人が勝手に決めたことだ。
伯父さんは家庭を捨てた女と同棲しているママを軽蔑していたと思う。それはママが亡くなった後も変わらず、奈那さんとの関係も認めていなかった。
ママと奈那さんの特別な関係を認めていなかったひとに引き取られて、あたし、ちゃんとやっていけるだろうか。
「部屋を片付けておくように真南に言ってあるから。必要なものはそれから揃えよう。僕と真南も父と息子の男ふたり暮らしだったから、最初は君にもいろいろと不自由があるかもしれないけれど」
「もしかして伯母さんも亡くなったんですか?」
「いや、うちは去年離婚したんだ。君と奈那さんには連絡しなくて悪かったね」
「真南は?」
ついぽろりと口をついて出た。
長いことその存在さえ忘れていた従兄の名前だ。ワカツキマナミ。たしかあたしのひとつ年上だから今は中一のはず。
「元気だよ。今夜から君と真南は兄妹だ」
ぐるんぐるんとあたしの周りで世界が動く。
あたしによかれと大人が動く。
あたしは十二歳で小学六年生で子どもで身軽だから、何処へでもゆらゆら流されてゆく。
自分ではどうしようもないから、宿命だ。
これはすべてあたしにとってはどうしようもないことなのだ。
§1永訣/了
§2に続く
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