§6 向こう見ずのふたり

§6ー1 心が沈むとき空はこんなにも青いのだ



 マンションの狭いベランダだった。

 目の前には小春がいた。

 ベランダの柵に手をかけたまま、突然姿を現したあたしの顔をみてぽかんと口を開けている。


 まるで奈那さんのお葬式の日、初めて燎平を見たあたしのように。


 そうだ。

 あたしは【跳んだ】。

 燎平のように跳んだ。

 なぜだか自分にはそれが出来るような気がした。自分にその力がそなわっていること、薄々気づいていた。

 あたしはもうずっと前からまともな子なんかじゃなかった。

 燎平が奈那さんの子であるように、あたしもママの子だった。

「……私、もう死んだの? 飛び降りた後なの?」

 小鳥のような囁き声で小春は尋ねた。

「どうして」

「何も無いところからあやちゃんがいきなり現れた。これは幻?」

「まぼろしじゃないよ」

 あたしは右手を高く振り上げてから、勢いをつけて小春の左頬を殴った。


 いい音が鳴った。


 小春はそのまま倒れて尻餅をつく。

 あたしを睨む目には涙が浮かんでいた。

 長い髪を下ろした小春を見るのははじめてだ。束ねていない髪はべたついて、恐ろしいまでにつやつやと漆黒に輝いていた。

 ひゅうっと秋の風が吹いた。

「ほらね痛いでしょ。夢じゃない」

「どうして殴るの。仕返しにきたの?」

「そうだよ」

「もう気が済んだ? 私は死にますから」

「どうして死ぬの」

「死ねってメールがいっぱい来た。あやちゃんが仕向けたんでしょ。私がブログに若月くんのことを書いたから、それがイヤで若月くんちのおじさんや学校のひとたちや先生に言いまくって、私に死ね死ね言うように皆に頼んだでしょ。私は自分のブログなんてほんとは誰も見てないこと知ってたもん。それなのにどうして? どうしてたった一夜でクラスのひとも先生もみんなが知ったの? 先生がしばらく学校に来るなって言った。あやちゃんが言いふらしたんでしょ。被害者のふりして周りのみんなを味方につけて私を攻撃させてる!」

「たしかに小春のブログを削除したのはあたしの知ってる人なの。それは事実だから謝る。ごめん。彼がそんな手段をとるとは思わなくて」

「ほらやっぱりね!」

「だけどクラスの子たちに言いふらしたり先生に言ったのはあたしじゃない」

 あたしはなるべく穏やかに語りかけた。

 心は穏やかでは無かったし、あと百発は殴り飛ばしたかった。

 そしてようやくこのベランダが古いマンションの上階で、小春の家だということに気づいた。こんな時間なのに小春はパジャマを着ている。部屋に閉じこもっていたのだろう。

「ここ、小春の家のベランダ? 小春のパパとママは?」

「私の家ですけど何か? 自分から不法侵入しといて何なのその言い方。ここが私の家だから来たんでしょ。パパとママは今朝からお祖父ちゃんちに行ってるからいないよ。パパとママとお祖父ちゃんとお祖母ちゃんで私を病院送りにする話し合いをしてるの。ママが言ってた。私の頭がおかしくなってるって、心の病気かもしれないって、中学に上がる前にマンガやゲームやネットから引き離して何とかしないと手遅れになるって」


 酷いことばかり言っているのに、

 それでも小春はあたしを、あやちゃん、って呼ぶ。


 すがりつく手を掴んだらきっと小春はまたあたしを傷つける。

 だけど振り払えない。

 小春があたしをあやちゃんと呼んでくれるのは、なんだか振り切れない指先のような、切っても切れない最後の絆であるような、お互いがお互いに垂らした蜘蛛の糸であるような、救いの光であるような気がした。

 あたしは小春を振り払えない。

 ああ冗談みたいに空が青い。

 ひとの心が沈むとき、空はこんなにも青いのだ。

「こんなこと聞いても意味ないかもしれないけど、どうしてそんな真南につきまとうの?」

「若月くんは私の前世からの彼氏だから。若月くんちのおじさんのせいで今は引き裂かれてるから別れたふりをしてるけど、いつか大人になったらまた結ばれるの。若月くんちのおじさんは奥さんと離婚したから息子の初恋を潰そうとしてる」

「真南は違うって言ってるよ。そして伯父さんもそんなひとじゃない」

「若月くんは私を庇ってるの。私を嫌いって言わなきゃまた仲を引き裂かれるから。あやちゃんは全然わかってない」

「大人になって結ばれる約束をしてるなら、どうして小春はこれから死ぬだなんて言うの? 死んだら大人にもなれないよ、矛盾したこと言ってるのわかってる?」

「むじゅんってなあに。大人の女みたいなかっこつけたことばかり言って、あやちゃんは頭がいいからっていつも難しい言葉ばかりつかって難しい話をする! うざい!」


 座り込んでいた小春はすっくと立ち上がった。

 ほんの少し高い目線から背の低いあたしを見下ろす。


「もしかして、若月くんはあやちゃんが好きなの?」

 真面目で冷静な声だった。

 だからあたしも真摯に応対しなければならなかった。

 嘘はつかない。偽らない。

 あたしは小さく頷いて見せた。

「うん。真南はあたしを好きだと思う」

 気づかないほど鈍感じゃなかった。

 真南は素直に感情を投げてくれる。真南はあたしを大切に想ってくれている。好きになってくれている。でもたぶんあたしに告白することはないと思う。あたしも彼の感情に気づかないふりをつづける。そうでなければこれから一緒に暮らしてはいけない。一緒に大人にはなれない。あたしが小賢しい小学生であるように、真南は器用で優しい中学生だった。だからきっと、いつか関係が破綻する日までは楽しくやっていけると思う。

「それならあやちゃんも若月くんが好き?」

 今度もイエスかノーで答えるしかない質問だった。

 言い訳を許さない小春の視線だった。その背後で空が薄暗くなる。視界の端に黒い影がよぎる。

「もしもふたりが両想いなら、私、辛いけど応援する。三人でデートしたりしよう? 私は絶対にふたりの邪魔はしないから私も混ぜて三人で遊ぼうよ。それなら許してあげもいいよ。これからはいつも三人で一緒。それなら私は死なないでいてあげてもいい」

「小春。そういう問題じゃないんだよ」

 小春のテンションは急に上がったり下がったりする。真面目な顔になったかと思えば笑い、笑ったかと思えば深く沈む。そしてキレる。

 そして喋っているのは彼女自身に都合の良いことばかりだ。

「あたしにも好きなひとがいるけど、それは真南じゃないの」

「どうして! それじゃ若月くんを私にちょうだい!」


 いきなり翳った。

 遠い空で雷鳴が響く。


 小春は言葉にならない声で吼えた。

「私から若月くんを奪うためにブログのことで責めたんじゃなかったの? 私から若月くんを奪うために学校を味方につけてクラスの子たちに死ね死ねメールを送らせたんじゃなかったの? 私から若月くんを奪うために私に自殺させたいんじゃなかったの? それならこれはいったいどういうことなの? 私は誰を憎めばいいの?」


 黒い雲が太陽を横ぎって近づく。

 体温が下がってゆく。

 小春の顔が青ざめてゆく。

 あたしの顔も青ざめてるだろうか。


「小春聞いて。死ねだの何だのっていう中傷メールはあたしも山ほどもらった。ケータイ壊しちゃったから今はわからないけど、まだ続々と届いてると思う」

「あやちゃんが? なんで? あやちゃんが皆に送らせてたんじゃないの?」

「小春のブログをクラスの皆に晒したり先生に話して騒ぎを大きくしたのは違う人間なの。些細な事件を大袈裟に拡散して爆発炎上させて観戦するのが大好きな放火魔だよ。あたしと小春が喧嘩をしたら皆であたしの味方について、正義の第三者のふりをして小春をとことん虐めるつもりだったんだと思う。自分の手を汚さずにあたしを使って小春を玩具にしようと画策してた。クソ野郎だ。卑怯者だ。偽善者だ。悪人だ。あたしはそいつを非難した。そしたらあたしが次のターゲットになって、皆から死ねと言われることになった」

「あやちゃんは私を庇ってくれたの? 私を許したの?」

「それとこれとは別。それから真南のことも別。これはね小春、ただ単純にあたしと小春の友情の問題なんだよ。あたしと小春がこの友情の危機にどうやって決着をつけるかって話なの。あたしは小春を許せないよ。だって小春は嘘つきだし意地悪だし性格に裏表がある最低の女の子だもん。小春は、小春を許せないあたしをどう思う? 真南と一緒に住んでるあたしを許せないでしょう? 単純に考えてみようよ。仲直りする? 仲直りするならどうやって? もし仲直りできたとしたらこの先のことも一緒に考えなくちゃね。ふたりで共闘してクラス内でどう立ち向かうか戦略を練らなくちゃ。でもここで絶交するならそれでも結構。ちなみにあたしは小春に対して猛烈に怒ってるから今のところは仲直りなんてしたくないよ。でも小春には死んで欲しくないと思ってる。だから【跳んで】きたんだ」

 あたしは小春の相づちや反論を許さず一気に喋った。

 言いたいことだけをまくしたてた。

 停まると転ぶ自転車のように喋った。

 途中から小春は両手で顔を覆っていた。泣いているみたいだった。

「そんな、急に早口でわあわあ難しいこといわれたらわかんないよぅ……。ただあやちゃんが私のことすごく嫌いですごく怒ってるってことだけは、すっごく、よく、わかった」

「だいたい合ってる」

 あたしには言葉しかないし、小春には感情しかない。

 あたしの言葉が尖っているように小春の感情は尖っていた。もともとあたしたちは合わないタイプなのだと思う。

 お互いに疎外されていなければ仲良くなることもなかった。

「それじゃ若月くんとのことは置いといて、私が嘘を付くのをやめたらあやちゃんは難しいこと喋るのやめてくれる?」

 小春がぽつんと言う。

「いいよ。努力する」

「私が意地悪をしなくなったら、あやちゃんはもう私を見下さない?」

「見下さない」

「そういうのってすぐにやめられるの?」

 小春が小さく嘲笑う。

 あたしも自嘲して笑った。

「さあ、わからない」

「ほんとうざいよねあやちゃんは。だから前の小学校で無視されてたんだよ」

「小春もずっとぼっちで浮いてたって真南が言ってたよ。それから小春のブログをみて、猫のブランが元気そうでよかったって」

 ベランダから部屋を覗くと、小春の部屋のベッドでキジネコが居眠りしてるのが見えた。あれがブランだ。

 昼寝している猫を眺めると心が和む。

 そういえばあたしと小春はどうして憎み合って怒鳴り合っていたんだっけ? 

 猫の寝顔にくらべたら世界の全部が意味の無い喧嘩に思えてくる。

「私のブログを晒しまくったのは誰?」

「長崎のクソバカ野郎だよ」

「そうだと思った。あいつ超むかつく。復讐してやりたい」

「あいつのスマホ壊してあげようか?」

「できるの?」

「出来るよ。あたし魔法少女だから。ママから引き継いだの、ママの力が遺伝した」

「あは。いいね。羨ましい」

「そうでもないんだよ。これはアタマの病気だから手術しないとあたし死んじゃうんだって」

「それはお可哀相に、ざまあみろ」

 小春がはじめて可愛く笑った。


 声をかけてもらった日のことを思い出していた。机に顔を伏せていたあたしを小春が呼んだ。可愛い笑顔だった。思えば最初から常識外れのお節介だった。あたしのために問題集を買ってきて押しつけてきた。真南と再び繋がりたくてあたしと仲良くしようとしたくせに、どうしてあんなに可愛く笑ったのかな。今も可愛く笑ってる。

 小春は良い子と悪い子の間をふらふらしてる。

 でもそれはあたしだって同じことだ。善くもあるし悪くもある。だから好きだったしだから嫌いだし、だからまた好きになれるかもしれないし。


「魔法少女だから急にここに跳んできたの?」

「そうよ」

「魔法少女だから自殺する私を助けに来てくれたの?」

「そう」

「でも無理。私は死ぬ」

「え、」

「ごめん、やっぱり死ななきゃいけない気がしてきた。空の暗闇が待ってる、さっきからずっと私を急かしてる。はやく死ねって、何、何だろこれ、やっ、こわい、あっちいって」

 小春はいきなり虚空に両手を伸ばして何かを振り払おうとしている。


 あたしはとっさに空を見た。


 視界の端に浮かんでいた黒い影がさらに濃さを増して固まっている。黒い綿飴みたいにふわふわと動いてる。そしてここに向かっている。

 あたしたちのいるベランダに向かって。

 ちがう。小春に向かって。

 この【雲】をあたしは見たことがある。

 何処かで視た。何処で視た?

 記憶を辿ると耳の奥で中年女性の淡々とした声が聞こえた。それはかつて何処かであたしが聞いた声と言葉だった。



『ほら上空に黒い雲の渦が見えますか?』

『あれはクルーダスといって禍いと妖魅の塊の【雲】、大きな事故や犯罪の元凶です。ああして巨大な網を仕掛けて死者の魂を捕食しているのです。クルーダスを破壊するのがHLNSの仕事ですが彼らの活躍を知るものは少なく、現在は決定的な破壊力をもつ【増幅者】が存在しないので戦況は苦しいのですよ』

『HLNSをご存知ですか』



 そうだ思い出した。

 奈那さんのお葬式の日。いきなり燎平が現れていきなり消えた。その直後に斎場のスタッフがあたしを呼んだ。それがあの中年女性だった。エントランスホールのテレビは北陸の土砂崩れを報道していた。そのニュース画面を指さして、そう、黒い雲が見えますかとあの女性が言ったんだ。

 あのときに初めてHLNSという言葉を耳にしたんだ。……

 HLNS。

 燎平の組織。奈那さんとママを死ぬまでこき使った組織。彼らが何をさせられていたのかあたしは瞬時に理解した。

 彼らはあの【雲】と戦っていたんだ。

「ひゃっ」

 小さな悲鳴をあげた小春はベランダの手すりにしがみついていた。顔は恐怖に歪んでいるのにその躰は柵を乗り越えて飛び降りようとしている。

「小春!」

 その腕を捕まえる。両手で力の限り引っ張って小春の躰を引き戻そうとするけれど、どんなに力を込めても小春の躰はは動かない。

「助けてあやちゃん、躰が勝手に動く。私死ななきゃならないの?」

「そんなわけないでしょ。バカ。大丈夫。あたしが何とかする。信じて」

「でも私あやちゃんともいちど友達になりたいわけじゃないから」

「わかってるよ。助けてから絶交する」

「ムジュンしてるよ、自称魔法少女」

「そうだね──って、矛盾の意味知ってるじゃないの。小春の嘘つき」

 あたしは奥歯を噛みしめて小春の腕を引っ張る。小春が痛いと叫ぶ。うるさいよ。あたしだって痛いよ。バカ。小春のバカ。あたしをさんざ振り回して。あたしに迷惑ばっかりかけて。

「あっ」

 強い風が吹いてあたしの手から小春の躰がほどけた。

「小春!」


 落ちた。


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