デメテルの娘メドゥーサの息子

アズマ60/東堂杏子

§1 永訣

§1-1 奈那さんが死んじゃった



 畜生、ゲロ吐きそうだ。



 奈那さんが死んじゃった。

 孤児になっちゃった。

 畜生、ゲロ吐きそうだ。

 あたしは小六で、十二歳で、すでに人生の半分を終えた、たぶん。


 奈那さんが死んじゃった。

 孤児になっちゃった。


 昨日から大人はあたしに、がんばれあやめちゃん、負けないであやめちゃん、って言う。あやめっていうのはあたしの名前だ。

 クソが。

 クソが。

 クソが。

 それでようやく薄々気づいた。気づいたというかとっくに知ってたけど、どうやらあたしはこの町で一番かわいそうな少女らしい。

 今のあたしは悲しみ王国の王女、プリンセスオブ悲しみ。

 悲しみって英語で何ていうんだっけ、脳味噌が疲れてる、海馬がぐったりしていて思い出せない。


 奈那さんが死んじゃった。

 孤児になっちゃった。


 あたしは髪に手をやって頭をかき混ぜた。

 ますます気分が沈んだ。

 沈んだというのも変な話で、そもそも気分の浮き沈みっていうのは何が基準なんだろう。ここが底だなと思ってもまだまだ沈んでく。底なし沼だ。悲しみの底なし沼。ていうか底なし沼って何処に繋がってるんだろう。

 地球の中心のマントル的な? 

 まって今あたし何を考えてたんだっけ。もうぐっちゃぐちゃ、精神的にぐっちゃぐちゃだよこの野郎。

 かわいそうなあたしは明日からどうしたらいいんだろう、畜生、風が冷たい、ゲロ吐きそう。

 奈那さんが死んじゃった。

 孤児になっちゃった。

 もうやだあたしも死にたい。痛いのはやだ。苦しいのもいや。だから死ねない。奈那さんはきっと痛かっただろうに苦しかっただろうに。つらい。ゲロ吐きそう。

 




 斎場の外は良いお天気だった。

 夏の終わりの空気が透明で胸に沁みた。

 澄んだ空に浮かぶ薄い雲、ただ、ただあたしはひたすらに悲しい。

 でも悲しい悲しいって口の中でずっと呟いていたら変な感覚になってきた。「悲しい」って何だっけ、いったいどういう意味の単語なのか自分でもわからなくなった。

 それであたしは、悲しみとは何か、どうして今こんなに悲しいのかをひとつずつ考えてみた。

 ひとつ。風が吹いて爽やかだから悲しい。

 ふたつ。空の青色は寒色だ。寒色を眺めると体温が下がる。体温が下がるということは脳味噌の温度も下がる。脳味噌の温度が下がるということは、心が冷える。心が凍えているから寂しい。寂しいから寒い。寒いから悲しい。

 寂しさと寒さは同じ意味だ。

 みっつ。でも気温が下がって心が凍えていようが今のあたしには関係ない、もともと、今、あたしの心は麻痺している。なぜかというとそれは、

「なぜかというとそれは」


「何ぶつぶつ言ってるの? 大丈夫?」


 小さな笑い声にかき消され、あたしは小さく息を呑んだ。

「ひっ……」

 聞かれていた。

 やばい。

 誰かに独り言を聞かれた、延々と呟いてたのを聞かれてしまった、恥ずかしい。背中の中心が冷たく痛んで鼻の頭が熱くなる。

「いいよ続けて、聞いてあげるから。ほんと寒いよなあ、葬式日和とはまさにこのことだ」

 あたしの隣には若い男の人が立っていた。

 背の高いひとだ。たぶん大学生くらいだと思う。

 そして額には血の滲んだ包帯、右手にギプス。

 絵に描いたような怪我人だ。でも表情は怪我人っぽくない。ぜんぜん痛くなさそうだし辛くもなさそう。

「あ……はあ、」

 あたしは曖昧に返事してしまった。

 アッハーて何だ我ながら謎。陽気なアメリカ人か、アーハン、パードゥン?


 ──誰だよこいつ。


 誰だろう、というか、何者なんだろう。

 異質の存在だった。

 ここは斎場なのに喪服を着ていない。そして怪我をしている。白いセーターにジーンズ姿。肩をすくめて背中を丸めてる。

 寂しそうに見えるから悲しそうに見える。

「あの、ここはお葬式をするところですよ。部外者は入っちゃいけないんですよ。怪我してるんですか? 大丈夫ですか?」

 あたしが声をかけると、男の人はさらに屈んであたしの顔を覗いた。

 一瞬、言葉が通じてないのかと不安になった。

 王子様みたいだ。

 不思議な色の眸。

 真っ黒ではなくて茶色でもなくて灰色に近い。

 あたしはこの眸を、このひとを知っているような気がする。

 思い出せない。

 テレビで見たんだっけ。芸能人だっけアイドルだっけ俳優だっけ仮面ライダーのあのひとだっけ、ちょっと似てる、いや違うな。

 脳味噌が弱ってる、海馬がぐったりしているせいだ、あぁこれさっきも思った。睡眠不足のせい、昨日から一睡もしていないから。肉体は疲れているのに魂がぐるぐる回ってる。瞼を閉じれば緑と赤の幻が瞼の裏側をはしる。ぐるぐるちかちかサイケデリック、あたし脳味噌の病気になっちゃったかもしれない。

「あのう。あたしに何か?」

「ユーアーノットアローン。この意味は?」

「え?」

 急に何なんだろう。簡単な英語のテストを出されてしまった。

 このひと人間の軸が故障しているのだろうか。

 宇宙から電波を受信しているタイプか。

「……『あなたは、孤独、ではない』。ですか?」

「へえ、小六のわりには賢い」

「小六でも簡単な英語くらいわかります。どうしてあたしが六年生だと知って」

 質問しようとしたら、男の人はいきなりあたしを左手で抱きすくめた。

 ぎゅっと抱きしめられて彼の胸に顔が埋まる。

 えっ何これ。

 乾いた血と埃の匂い。

 そしてこういっちゃなんだけど汗臭い。生身の男の人の匂いがして、これは夢ではないのだとやけに冷静に把握した。

 でも、夢ではないとしたら、何。

「ちょっ、なに、何するんですか、放して」

「おれやっぱりやめた。おまえを殺さなきゃならないんだけど」

「へ?」

「殺さなきゃならないんだけど、やっぱり、やめたんだ」

 男の人はあたしにそう告げると、そっとあたしの躰をほどいた。

 それから左手の指をぱちんと鳴らす。種も仕掛けもない場所からいきなりその手に紙袋が現れる。

「え、え? やだ何、手品?」

「弟に渡そうと思って買った金沢名物の和菓子。たぶん羊羹的なやつだと思うけど、移動中はバタバタしてたし傷も酷かったしでとりあえず手に入る物を買ってきた。おまえにあげる。甘い物を食べなさい、元気になるから」

 そう言って彼はあたしに紙袋を押しつける。いえそんな、何なんですかと拒んだのに、気づくとあたしの左手におさまっていた。

 殺すとかやめたとかお菓子とか。何。気持ち悪い。気持ち悪いんだけどあまり気持ち悪くない。不思議。アッごめん嘘ですやっぱり気持ち悪い。

「あの……」

「それじゃまた」

 そして謎の青年は、


 ふわっと消えた。


「──はい?」

 いきなり何?

 何なのこれ?



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