§2ー4 田端兄弟
嵐がやってきたのはその日の午後だった。
あたしたちの中学の校舎は正門のすぐ横に建っていて、廊下側の窓からは大きなバス通りが丸見えだ。
「へんなひとが覗いてる」
掃除時間に廊下の窓を拭いていた小春が、そっとあたしの袖を引いた。
「見て、あれ躑躅丘学園の高校生だよ。中学とはネクタイの色が違うもん」
あたしも窓越しに見おろした。
高校生の男がふたり、正門の前でぶらぶらしている。
たしかに小春の指摘どおり、真南と同じ制服だけれどネクタイが紺色じゃなくて臙脂色だ。
「こっち見てる。あやちゃんやばいよ」
小春が力を込めてあたしを引っ張ろうとする。
「あ……」
ふたりと目が合った。たしかにあたしを見ていた。そしてその片方に見覚えがある。
「またあのひとだ」
「え?」
「ちょっと行ってくる。今度こそちゃんと話さなくちゃ」
あたしは小春に雑巾を渡して、階段目指して駆けだした。
「ちょっとあやちゃん、待って、――えぇええ?」
小春の声が追いすがってくるけど気にしない。
二階の廊下から見おろすと、死んだはずの奈那さんがふたり並んでいるように見えた。
でもすぐそばに駆け寄ると、それはただの錯覚だった。
同じ制服姿の高校生男子がふたり。
ひとりは肩幅が広くて陽に焼けている。大げさに身を屈めてあたしを見下ろした。
「うわあちっちゃいなー、ねえねえ身長何センチ? 140くらい? 燎平さんはこの子の身長知ってる? この子何かに似てるよなあ、ぷるぷるしてる感じがウサギかなあ、ほら口のあたりがちょーウサギっぽい。少女雑誌を研究して美少女を意識してみました感があざといわー」
たぶん何か部活をやっているひとだと思う、いかにもって感じのスポーツマン。きりりとした顔立ちで、外国の映画俳優みたいだ。格好いいけど味が濃すぎる。
猫みたいな半笑いの表情であたしの顔をからかっている。
あ、やっぱり外国の俳優っていうよりも、ギリシャ彫刻のほうがイメージに近いかも。
「えっと聞こえてる? きみ若月菖蒲ちゃんだよね?」
あたしは返事をしなかった。
猫顔の男は困った顔をして肩をすくめる。
「ねえ燎平さん、かわいいうさこちゃんから無視されてるんだけど? あんたには懐いてるんだろ、通訳してくんない?」
彼が燎平さんと呼んだのは、隣に立っているもうひとりの男だ。こっちも身長は高いけれど、全体的に細い。
このひとだ。
今まで二回、あたしの前に現れた。そしてお菓子を押しつけて去っていった。
どうやって訊けばいいのかわからない。あたしたち前に会ったことあるよねなんて、口に出したらきっと笑われる。
前にもあたしの前に現れたよね?
そしてあっという間に目の前から消えたよね?
何が何だかまったくわからない。
「うーん。なんというか初めまして、若月菖蒲ちゃん。オレは田端翔馬です。飛翔の翔に馬ね。それからこのひとは田端燎平さん。オレたち高校生で、兄弟です」
田端翔馬が懲りずに、今度はさっきよりももっと優しい猫なで声で自己紹介してきた。
田端。
田端といえば心あたりは一つしかない。
奈那さんの元の旦那さんの名前だ。奈那さんのお葬式のときに、いろんなひとが噂話をしていた。奈那さんは田端ナントカってひとと子どもを置き去りにして愛人女に走ったのだと。
「あんたたち、もしかして奈那さんの……?」
「母がお世話になりました。オレらは葬儀には参列してないけれど、いい天気だったそうでよかったね」
回りくどくてべたべたした口調だ。優しい顔と優しい声をしているけれど、たぶん田端翔馬はあたしのことを良く思っていない。
田端翔馬が頭を下げる。
田端燎平はまだ動かない。
「あたしに何か用事ですか。今は掃除の時間だし急に来られても困るんですけど」
あたしは冷たい声で言い返した。大人になるために日々精進しているのは、こんなときに打ちのめされないためだ。
いっばい背伸びをして負けないぞ。
正々堂々と論破してやるんだ。
「それにあなたがた、学校はどうしたんですか。高校をさぼってるんですか」
「さぼりたくてさぼってるわけじゃねえよ。御用があるから来た」
田端翔馬の言葉にはまったく重みがない。あたしに対する礼儀がなってない。
あたしを舐めているのだ。子どもだと思って、小学生だと思って、女の子だと思って。あたしの存在を軽視しているのだ。
「おれは止めたんだけどねえ」
ぼそりと、のんびりと、田端燎平がはじめて口を開いた。
「ここにいる弟の翔馬がね、えっと、我々を置いてトンズラしたあげくぽっくり逝ってしまった母からきみが莫大な遺産を受け取ったはずだと思い込んでるんだ。そんなものは受け取っていないってきみからも説明してやってくれる?」
――声にも覚えがある。
間違いない。でも証拠がない。
この不思議な感覚。どうしよう。
それ以上に、この男が話している内容がわからない。
「遺産って何ですか? あたしはそれほどお金に困っているというわけではなかったけれど、それはちゃんと節約して生活していたからだし。たしかにママが奈那さんに託していたあたし名義の通帳は受け取りました、でも伯父があたしの養育費と学費にすると約束してくれてます。そもそもあたしは奈那さんの単なる同居人でしたから相続権はないんですよ。高校生のくせに法律もご存知ないの?」
「なんというクソ生意気なお嬢ちゃんだ!」
言い返してきたのは田端翔馬だ。
「あいつは少なくとも南国の超高級リゾートマンションが即金で買えるくらいの金は仕事で稼いでたはずだ、燎平さんとオレの相続分が少なすぎるんだよ。ぜったいおまえに渡ってるはずなんだ。生きてる間にごっそりと譲られたんだろう?」
「仕事って何ですか、奈那さんはただの絵の先生です」
「え、聞いてないの?」
翔馬が目を丸くしてあたしを覗く。
「あんな奴がヘッタクソな絵だけで生活できるわけないし。あいつ本当は、っていうかおまえだっていつかは」
何か言いかけた田端翔馬の肩を、その兄の燎平が強く掴んだ。
「いいよ、OK、了解。翔馬の負け。何度も説明したようにこの娘に相続権はないんだよ。もう帰ろう」
「燎平さん、おかあさんが遺した金があればあんただって」
「そんな金はないって若月菖蒲嬢は言ってるよ。おれ判ってたもん」
燎平が穏やかな声で宥めても、翔馬はなおもあたしに飛びかかろうとする。
「やいゴラてめえオレらの母親の金返せよ! 燎平さんが相続する金を全部返せつってんの、どこにあんだよ貸金庫か? 金塊にして埋めてるのか? 自分が独り占めして使おうと思ってるんだろうがおまえが持つべき金じゃねえんだからなこの泥棒、地獄に堕ちろよ極悪鬼畜幼女!」
「なんなのこの変態! ロリコン! おまわりさん呼びますから!」
「いいから翔馬は引けって。おまわりさんを呼ばれたらアウトだし、何なんだよその極悪鬼畜幼女とかいう造語は。八歳男児センスかよ」
「あたしちっちゃいけど小六ですから! 幼女じゃないですから!」
「オレは燎平さんの為に言ってるのに!」
「悪いけど余計なお世話なんだよね」
ぴしゃんと燎平が言い捨てると、翔馬は肩を落として項垂れた。
何なの。
さっきから金、金、金って、何なのこの兄弟。
「待って」
あたしはふたりを呼び止めた。
「あたしはお金が欲しいなんて思ってない。奈那さんからは思い出をたくさんもらったからお金なんていらない。そんなに言うならあたしの全財産あげる。あんたたちにあげますから二度と顔を見せないで」
「じゃ出せよ。さては何を言われても知らぬ存ぜぬで通せと指図されてるのか?」
もう答える気にもなれない。会話が一方通行だからだ。そっちが一方通行ならあたしだって一方通行で攻めてやる。
「ひとつ質問していいですか。あたしだって訊きたいことがある」
それは、あたしがここにいるのを誰から聞いたのかということ。
それからもうひとつは。
田端燎平が振り返る。
「先に答えてやる。たしかにおれとは初対面ではないよね。おれが助言したとおりにちゃんと甘い物を摂取してる? その様子じゃまともに甘い物を食べてないね?」
心を読まれた?
びっくりして息が止まる。
「でも、あの、どうして」
「翔馬おいで。この子の顔を見て怒鳴りつけたんだからもう気が済んだよな?」
さっきよりも強い口調で田端燎平が命じ、田端翔馬がそれに従う。ふたりはあたしに背を向け、挨拶もなく立ち去った。
――どういうこと?
冷たい風が吹いて、あたしはようやく正気に戻る。
「あやちゃん!」
大きな声で呼ばれて振り返ると、小春が息せき切って飛び出してきたところだった。
「職員室に行って小橋先生呼んできたんだけど……あれ、あの高校生たちは?」
「もう帰っちゃったよ」
小春の肩越しに、小走りで駆けてくる男の先生が見える。
大いなる面倒の予感だ。
「怖いことされなかった?」
いやいやそれはないから。
あたしが苦笑していると、ジャージ姿のいかつい先生が寄ってくる。小春は担任の三井先生ではなく校内でいちばんコワモテな小橋先生を連れてきてくれたんだ。
「おい、不審な高校生というのは何処だ」
「すみません、遠い親戚のひとでした。私がこっちに引っ越してきたことを聞いて、心配して顔を見に来ただけだそうです」
あたしはつらつらと嘘をついた。たぶんうまく騙せたと思う。
「躑躅丘の高校生という話が本当なら妙な輩ではないとは思うが、一応、向こうの学校に電話しておこうか。彼らだって学校を抜け出して徘徊していたのだろうし」
「そんなたいしたことじゃないので、いいです、大丈夫です。今日は家の用事で早退したって言ってました」
どうしてこんなことで田端兄弟をかばっているのかわからないけれど、つい流れのままさらに嘘を並べ立ててしまった。
「一応、不審者情報として校長先生に報告しておくからな。また何かあればすぐに言いなさい」
先生はこつんとあたしの頭を小突き、職員室に戻っていった。
小春はあたしの顔色をもう一度伺い、「本当に大丈夫?」と言った。
「小春、心配しすぎだから」
「だってあやちゃん、顔色悪いんだもん」
「寒いから」
「うん。寒いよね。教室に戻ろ」
「そだね」
「私はあやちゃんのためなら何だってするよ。親友だもん」
あたしと小春は腕を組んで、寒い寒いと繰り返しながら校舎に戻った。小春は温かかった。
小春に田端兄弟のことを話してみたくなったけれど、まだ勇気が出ない。
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