第一章 3 優先順位
しばらくして待ちに待った夕食になった。
ゲオルの若い女房のフィオナが、ふだん居間にしている部屋に三人を呼び入れた。
湯気のたつ鍋から、床の上にじかに並べた皿の上に、ふかしたイモを取り分けてくれた。
そこにハーブを効かせたとろりとした肉の煮汁をかける。
「さあ、お腹いっぱい食べてちょうだい。ちゃんとした食事なんて久しぶりでしょ」
その後ろから、ゲオルが、蒸し焼きの骨付き肉を山盛りにした大皿を両手で自慢げにかかげて入ってきた。
「あんたたちは運がいいよ。ちょうど二日前に、脚を怪我した羊を一頭つぶしたんだ。どうせ帰りの山道で動けなくなるからね。でも、おれたち二人じゃとても食いきれないと困っていた矢先に、あんたたちが来てくれた。こんなところで客を迎えて大盤振る舞いできるなんて、思ってもみなかったよ。さあ、遠慮なくやってくれ」
「ありがとう。やっぱり、持つべきものは友だよ」
フィオナから、とっておきの酒をコップになみなみと注いでもらったステファンは、もう酔っぱらったかのように調子よく言った。
「スピリチュアルのお姫さまには、こんな野蛮な食べ物は、お口に合うかどうかわからないけど、がまんしてくださいね」
まだどこか少女のあどけなさが残るフィオナが、いかにも人のよさそうな笑顔を浮かべてカナリエルに話しかけた。
カナリエルの眼から、突然涙がつたい落ちた。
「あ……ありがとう。予告もなしにいきなりやって来たというのに、こんなに親切にしてもらって。なんて優しい方たちなんでしょう」
フィオナはゲオルと顔を見合わせて、照れくさそうにほほ笑んだ。
「とんでもない。あたしたちは、人里離れたさみしい場所で何か月も暮らしているんです。お客なら、迷子の子リスだって大歓迎したいくらい。なのに人助けにまでなるんですから、こちらこそお礼を言いますよ」
ステファンが、ブランカからの逃避行であることを手短に説明しておいたのだ。
彼らには、難しい話はよく理解できないだろうし、深く知りすぎないほうが当人たちの身のためでもあった。
詳しい事情を詮索する様子もなかったし、ましてやブランカに密告しに行くことなど、彼らには思いもよらないにちがいなかった。
それでも、田舎育ちのフィオナにとって、これほどきれいで気品のある女性を眼にするのは、生まれて初めてだった。
カナリエルの横にぴったりくっついて、まるで宝石でも眼の前にぶら下げられたかのように、いつまでもうっとりとあこがれの表情で見とれている。
「いっしょに山越えをしてもらえないかな」
食事が一段落し、場がゆったりとなごんだところで、ゲオルがその話を切り出した。
「おれたちは、急いでいる。そうしてやりたいのはやまやまだが……」
ゴドフロアは、慎重に答えた。
「食糧を分けてやることなら、まだつぶした羊の肉もたっぷり残っていることだし、十分できるよ。だけど、抜け道は、説明してもなかなかわかりにくいんだ。途中にいくつも分かれ道があって、ひとつまちがえただけでとんでもない山奥にまぎれこんじまう。でも、おれたちといっしょならだいじょうぶだ。もし、あんたたちが帰り支度や荷造りを手伝ってくれるというなら、急げばなんとか二、三日中には出発できるよ」
ゲオルは、ゴドフロアを伏し拝まんばかりにして言った。
彼らにしてみれば、ゴドフロアのような剛力の同行者がいることは、なによりも心強いにちがいない。
羊をねらうオオカミなどの襲撃に、つねにびくついている必要がなくなるばかりか、多人数で群れを取り囲みながら進めば、はぐれる羊が出る心配も少なくなる。
そうなれば行程もだいぶはかどることだろう。
「なあ、助けてやろうよ。道中はにぎやかなほうが楽しいしさ」
ステファンは、酒のせいもあってすっかりその気になっている。
「いや……」
ゴドフロアは羊の骨を片手の指の間でパキッとへし折り、皿の上に投げ捨てた。
「すまんが、おれたちは、やっぱり明朝出発することにする」
ボソッと言うと、立ち上がって居間を出ていった。
気まずい空気だけが残った。
カナリエルはいたたまれなくなって、ゴドフロアの後を追った。
ゴドフロアは荷物を置いてある部屋にいた。
窓からの月明かりだけをたよりに、寝床にする毛布を敷いているところだった。
夜明けとともに旅立つつもりなら、そろそろ眠らなければならない時刻だった。
カナリエルは、じゃまにならないように壁ぎわをつたって窓辺まで行った。
月はブランカのある山の高い頂を楽々と越え、中天に冴えざえとした色をしてかかっていた。
「ねえ、ゴドフロア」
居間にいるゲオルたちに聞かれないように、声をひそめて話しかけた。
閉めるべき扉などとっくに朽ち果ててなくなっており、窓はもちろん吹きさらしだった。
「わたしたちは、もともと助けを求めてここにやって来たわけでしょ。あの人たちがいっしょに行かせてほしいと言うのなら、おたがいさまじゃない?」
ゴドフロアは黙って作業をつづけた。
部屋の隅に立てかけてあったカプセルの包みを抱えてきて、そっと毛布の中央に横たえた。
昨夜の野営までと同じ形で寝る態勢を作っているのだ。
それは、ゴドフロアのかたくなな意思表示に見えた。
しかし、カナリエルは言わずにはいられなかった。
「一刻も早くブランカから遠ざかりたいのは、よくわかるわ。わたしだって、ロッシュが追ってくると思うと気が気じゃないもの。でも、ゲオルたちも同じことよ。わたしたちが立ち去った後に、追っ手がここにやって来るかもしれないわ。情け容赦なく問いつめるにきまってる。けっきょく、二人を危険の中に置き去りにすることになるわ。それというのも、もとはといえばわたしたちがここに来たせいなのよ」
カナリエルは、ゴドフロアの広い背中にむかって言った。
「やって来るかもしれないし、来ないかもしれない」
ゴドフロアが無表情な声で言った。
「それは、もちろんよ。でも……」
「おまえは、優先順位をつけられるか」
「どういう意味?」
「いざとなったとき、おれはだれを助ければいいんだ。おまえか? それとも、あの二人のほうか?」
「そんな……」
「おれはおまえを守るために雇われたんだ。建前や言い訳で言ってるんじゃないぞ。ステファンはああ見えても、自分で自分のことを守れないようならそれでしかたないという覚悟ができているだろう。だから、おまえ一人を守るのなら、おれが迷うことはいっさいない」
ゴドフロアは言葉を切り、立ち上がって窓辺のカナリエルの横に来た。
「だが、守るべき相手が三人となったら、話はまったくちがう。たとえば、こうだ……あの二人か、そのどちらかが命の危機にさらされたとして、おれがそっちを助けにむかってしまうと、こんどはおまえのほうが危なくなることが明らかだとしたら……さあ、おれは、いったいどうすればいい?」
ゴドフロアの言葉は、重く鋭い刃物のようにカナリエルの心臓に食い込んだ。
「わかったか。戦いにそなえるということは、ただ覚悟ができていたり、細心の注意をおこたらないだけではだめなのだ。どう動くかをあらかじめ決めておかなければ、つねに受け身にまわってしまう。けっして相手より有利になることはない」
カナリエルは、青ざめた顔でうなずかざるをえなかった。
「……そのとおりね。追跡隊を振り切ることができたのも、あらかじめステファンが馬を用意していたからだし、あなたが湖を泳ぎ渡ることに決めていたからだわ」
「そういうことだ。今のおれたちは、他人の好意にすがることはできても、とても他人のことまで思いやるような余裕はない。おまえは、それでもいいというのか?」
カナリエルはおずおずと、しかし決然として言った。
「いざとなったら、あなたがとっさにいちばんいいと感じたように行動してちょうだい。あの二人も旅の仲間になるのよ。わたしとなんの区別もいらないわ」
ゴドフロアはため息をつき、しぶしぶ首をうなずかせた。
「おまえなら、きっとそう言うと思っていた。では、あの二人にも伝えておけ。おれたちといっしょにいるのを見つかったら、同じように追われる身になってしまう。それを覚悟のうえなら同行しよう、とな。それと、出発はあさっての朝。それがぎりぎりだ」
「わかった。フィオナたちも、赤ちゃんの顔を一日も早く見たいはずよ。急いで準備にとりかかると思うわ。……そういえば、あなたは、この子のことは言わなかったわね。忘れていたわけではないんでしょう?」
カナリエルは毛布の上にそっと腰を下ろし、カプセルをおおっている布をずらした。
灯りは必要なかった。
月光の中に、ぽっかりと女の子の顔が浮かび上がった。
なかばシルエットになったゴドフロアの横顔が、苦笑いするようにゆがんだ。
「この子は……いつもおれといっしょだからな。なぜだろう、それがあたりまえのことのように思えるのだ。人を背負ってるとか、守ってるとかいう実感もないかわりに、じゃまだとも、重いとも感じない。不思議なものだ」
ゴドフロアの眼には、生まれたばかりのフィジカルの赤ん坊と比べれば、整った目鼻立ちはすでに知性をそなえ、しっかりした意思まで持っているように見えた。
これが同じ年格好のフィジカルの少女ならば、いくら天使のような寝顔をしていても、その心の中にはもうさまざまなものを抱えこんでいる。
甘えや、恐怖や、小さな欲望――あるいは、大人からもらう菓子の好き嫌いや、小さな虫をつぶす密かな楽しみだったり、しわ深い年寄りを眼にする嫌悪感だったりするかもしれない。
この子は、そういう目先の雑多で世俗的なものからすっかり自由であるようにも見えるし、悲しいほどに欠落しているようにも見える。
ゴドフロアには、しかし、この子の心がまだ空っぽだとは、どうしても思えなかった。
初めて眼にする者を親だとはっきり認識するということは、『あなたは、自分がわたしの親としてふさわしいと思うのか』と、眼前の相手を厳しく問いつめるように見つめてくるのではないか、という気がするのだった。
カナリエルは、そのまなざしをしっかり受け止める心構えが、もうできているにちがいない。
スピリチュアルであるかフィジカルであるかは、さほど関係ないのかもしれない。
〝母性〟というもののせいだろうか。
女とはきっと、その気になれば完璧に〝母親〟という存在になれるものなのだろう。
では、父親となる男はどうなのか。
スピリチュアルの男なら――あのロッシュなら、この子の眼をまっすぐ見つめ返すことができるのだろうか?
〝刷り込み〟というような、そういう仕組みを疑わなければ、〝父親〟になれるのか。
父親が何者かも知らないゴドフロアには、まったく想像のつかないことだった。
「おまえがブランカから出ていきたいと言ったとき、母親は反対しなかったのか? もう一生会えないかもしれないのだぞ」
「もちろん反対したわよ。でもね、わたしの気持ちはわかると言ってくれたわ」
「しかし、同感するのと、それを実行に移すのを認めることの間には、無限の開きがある」
「たしかに、そうとう悩んだと思うわ。でも、最後にわたしの背中を押してくれたのは、マザー・ミランディア……いえ、母だった。どんっと強くね。『自由になりなさい。そして、何ものにもとらわれない、しばられない眼で、もう一度スピリチュアルをふり返るのよ。やっぱり帰るべきだと思ったら、そうすればいい。わたくしは受け入れます』と」
すべての母親がそんな風に娘に対せるとは思えない。
むしろ、その反対の態度しかとれないのがふつうだろう、とゴドフロアは思った。
「強い母親だな」
「ええ。強くて、そして優しい母よ。わたしも、そうならなくては」
カナリエルは言い、布をカプセルの上に引き上げた。
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