第37話 誓約の口づけ
――神の御前にて、誓約の証を。
円形の天井には、世界創造の神が大地に降り立つその姿が描かれている。神の背中には大きな翼があり、その翼から舞い落ちた羽が数多の神を生み、その神々が大地と結びついた瞬間、命が芽吹いたと神話は語られている。
地から緑が芽吹き、やがて花を咲かせる。極彩色の花々。それは四方の壁に据えられたステンドグラスが外界からの光を取り込んで、幻想的に花を散らしていた。
静謐な神殿内に響く司祭の声に、ディートハルトはフィオレンティーナの頭部を覆うヴェールをめくった。身を屈めて、誓いの口づけを薔薇色の唇に落とす。
唇にフィオレンティーナの熱を感じる。
初めて味わう彼女の唇の柔らかさに、周りのことなど忘れて貪りたかった。
長い飢えに耐えていたところへ差し出された果実。欲望のままに食い尽くそうとする本能を押さえて、ディートハルトは名残惜しみながらも唇をはがした。
ふっとこぼした吐息に、金の睫毛が震える。瞼が開かれ、翡翠色の瞳がこちらを見つめ返してくる。
睫毛の淵に溜まった涙の雫は、誰のためにものだろう。
ユリウスに対する想いか、それともこちらに屈する彼女自身への憐憫の涙か。
――泣くな、と告げたかった。
俺はもう、お前を傷つけたくない。
粛々と執り行われる婚礼の儀式を他人事のように見守りながら、ディートハルトはフィオレンティーナと繋いだ手に力を込めた。
絡まる指先がこちらに応えるように、ディートハルトの手を握り返してきた……そんな気がしたのは、彼の錯覚だったのだろうか。
たかだか数ヶ月で、仇に対する感情が劇的に変わるとは思っていない。
だが、少しずつではあるが、二人の間の距離が縮まっていることは、フィオレンティーナの声がときおり柔らかく響くのに感じていた。
少し前までディートハルトの言葉に返される彼女の声は、清流の水を凍りつかせたかのような声だった。
他意を感じさせない透明な清さ。だけど歩み寄ることを拒絶する冷たさ。感情を押し殺し、努めて冷静にあろうとしていた。それが崩れる時は、フィオレンティーナが涙を流すとき。
しかし最近では、涙をこぼすとき以外にも感情を見せ始めてくれた。春の兆しに雪が溶けるように、年相応の明るさを感じさせる声を響かせてくれるようになった。
それは不意打ちの、フィオレンティーナの心の準備がなされていないときが多い。
もっと笑って欲しい。感情を見せて欲しい――と。
彼女の素顔を垣間見たくて、ディートハルトとしてもつい、からかってしまう。儀式の数刻前にも、からかっては怒らせてしまった。
その膨れっ面も愛らしいと思ってしまうのだから、重症だ。こんなに彼女に一喜一憂されるとは想像していなかった。
ただ、思うのだがフィオレンティーナの切り返しはときおり的を外している。もう少し男心を理解していたら、ユリウスの愛情を疑わずに済んだのだろう。それはそれで、ディートハルトにとっては困りものではあるのだが……。
式が執り行われ、宴が終わるまで、ディートハルトはフィオレンティーナと手を繋いでいた。
彼の方が放さなかったから、彼女もまた放せなかったのか。
目まぐるしく繰り広げられる催しに目が回っていて、忘れていたのか。
――まさか、フィオレンティーナも皇女である。王族の結婚式がどんなものか、承知しているだろう。
王と王妃を乗せた馬車を護衛するよう騎馬兵が隊列を成して、城下町に出る。
普段は雪に沈んで静寂な街並みも、王の結婚に振る舞われる祝い酒目当てか、野次馬根性か。
こんなに多くの人間が生きているのかと驚くほどの群衆が沿道を賑わせていた。
帝国を憎んでいたはずの国民たちだが、ディートハルトの隣にいる花嫁が帝国の皇女であったことを忘れているのだろうか、沸き立つ歓声は王の結婚を祝っていた。
それとも、帝国が完全にシュヴァーンの手中に落ちたことを喜んでいるのか。
熱気にあおられ、浮かれた街を一周し、宮殿へと帰れば、今度は宴だ。
国内の貴族だけではなく、諸外国の王族も列席していた。知らせを出してひと月という期間にしては、よく集まった方だ。
シュヴァーン国内の雪も薄くなってきたし、真冬は氷が浮かんで使えない海路も今は開かれているから、ディートハルトが予測していた以上の来客だった。
それは玉座を奪ってから帝国との戦争に明け暮れていたシュヴァーンの新王の顔を拝むための目的だろう。
時間がないので、一言二言、祝福の言葉を口にして、彼らは用意された席へと戻って行く。
ヴァローナの国王であり、ディートハルトの伯父であるレオニードも挨拶を終えた後は盃を重ねながら、こちらを窺っていた。フェリクスが傍らにより、相手をしている。余程、敵に回したくないらしい。
婚礼の儀が始まる前に、ディートハルトはレオニードと言葉を交わしていた。
『――お前は、何を求む?』
薄く嗤い、こちらを試すようにレオニードが問いかけた声を思い出す。
烏の濡れ羽色のような黒い瞳がじっと見据えるのに対して、
『……俺が求めていたのは最初からただ一つ。……フィオレンティーナだけだ。帝国の領土も玉座も勝手に付いてきただけだ』
ディートハルトが返す言葉はそれしかなかった。
そう、記憶を失う前から、記憶を失っても、自分が求めたのはただ一人だけだ。
『皇女を妃に迎える以外の他意はないということか? それだけのために玉座を欲したという言い訳が、どこまで通じると思っている?』
こちらの真意を探る声は鋭く、剣の切っ先を突き付けられているような気がした。
帝国と並んで大陸で一、二を誇る大国を支配する王者の風格が声に宿って、ディートハルトを圧迫する。ジリっと胃の底が焼けるような熱を覚えた。
ヴァローナの玉座にあるレオニードには、宮中に住まう腹黒狸たちと長年にわたり、腹の探り合いをしてきた。そんな彼に、裏表のない言葉など信じては貰えないのかも知れない。
痛くもない腹を探られ、勝手に企みを持たれていると思われたのなら、それも厄介だ。
国力の差が歴然としている。だからこそ、フェリクスはヴァローナの御機嫌取りに必死だった。
それでも、ディートハルトにはフィオレンティーナ以外の女なんて望めない。
真っ直ぐに返した蒼い瞳の視線を面白そうに受け止めて、
『お前が求めたものが一人の女であったのなら、それはそれで構わん。但し、お前はシュヴァーンの玉座にあり、我がヴァローナとは同盟を結んでいることを忘れるな。敵に回す相手をよく考えるのだな。でなければ、せっかく手に入れた女も失くすことになるぞ』
忠告するように、レオニードはディートハルトに言い放ち、席を外した。
政略結婚を蹴った件はどうやら不問にしてくれるらしいが、二度目はないということか。
今現在のシュヴァーンの財力では、ヴァローナ相手の戦争は難しい。意気込みだけで勝てる子供の喧嘩と、戦争は違う。戦争は何より、金がものをいう。
だからこそ、状況を判断し、ときには媚びへつらわなければならない。
フィオレンティーナの婚礼を正式に決めてから、ディートハルトはその辺りのことを真面目に考えるようになった。
それまでの自分は本当に子供だったと思う。手に入れることだけを考えていた。
だが、手に入れたそこで、何もかもが終わるわけではない。
命が続く限り、日々が繰り返されるのなら、手の中のものをいかに失くさず、壊さず、守り続けられるか。
フィオレンティーナが生きる日々が穏やかなものになるのか、否か。すべてが自分の肩に圧し掛かるとすれば、判断は慎重にならざるを得ない。
宴が開かれ、部屋へと戻り、フィオレンティーナが風呂場へと連れて行かれるのを見送った後、ディートハルトは椅子に腰を下ろして、空っぽになった己の手のひらを見つめながら、考えた。
国の王というのは、家庭の主とかわらないのかも知れない……。
大事な家族を養うために、戦場へと出向くシュヴァーンの男たちと、自分と――何も変わらない。
守りたいものがあるから、自分の命を削ってでも守ろうとする。
ディートハルトにとっての戦場は、王宮。他人の顔色を見ながら、己の利権を追求すべく権謀を張り巡らせる狸たちの巣窟が戦場だ。さらにたちが悪いことに、国内のみならず、他国からの干渉も視野に入れなければならない。
そうして勝利を手にしなければ、フィオレンティーナは守れない。
ヴァローナがこちらに干渉しようとするなら、やはり彼女は邪魔な存在だ。後々、帝国領土の正当な支配権を主張しだしたら……ヴァローナとしては当然、戦うだろう。
しかし、この場合は完全に後手に回る。ヴァローナの望むタイミングで開戦出来ないというのは、不利だ。
二年前のシュヴァーンとカナーリオの戦争も、不意の開戦に帝国の態勢が整わなかったことが、尾を引いている。
元々、平和主義を謳っていた帝国軍の防衛線は、常に帝国内にあった。自国を荒らされては、自足できるものも減る。武器や食料の補給が間に合わなければ、自滅する一途。同盟国への補給路はヴァローナが押さえていた。
同じ轍を踏みたくないヴァローナとしては、同盟を強固なものにするか、何かしらの口実を作って攻め入り、シュヴァーンを支配下に置くかしたいのだろう。
だが、シュヴァーン王国の歴史を振り返れば、ユリウスを人質に捕られた数年の帝国支配以外、他国に侵略や支配を許したことはなかった。
それは他ならぬ、この極寒の地を手に入れる利を、どの国も見出しはしなかったからだ。
シュヴァーンの傭兵は強いが、国土全体を抱き込んで養う必要はない。戦場において、傭兵を雇えば済むことだ。むしろ、戦争時ではないときまで、抱え込むには負担が大きい。
帝国の肥沃で広大な地があれば、また少し話が変わってくるかもしれないが、シュヴァーンとヴァローナが争えば、かつての帝国領土が戦場になるだけだ。それはヴァローナとしても避けたいはず。
ならば――やはり狙われるのは、フィオレンティーナか。
一人になったディートハルトの手から失われた、彼女の温もり。
徐々に冷えて行く指先にディートハルトは呟いた。
「……誰にも、奪わせない」
神の御前で誓った――約束。
彼女を傷つけないということ。
彼女が二度と泣かずにすむように、穏やかに過ごせる日々を。残された帝国の人間ともども――。
破壊し殺すことしかできなかったこの手のひらだが――ディートハルトは拳を握り、誓う。
「何があっても、俺が守る」
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