第31話 仮面の下
――街へ行くか?
ずっと、このまま腕の中の温もりを抱いていられたら……。
そう願う心と裏腹な問いがディートハルトの喉を突いて、声となった。
少しだけ試してみたかったのかも知れない。何かを求めるようにこちらを抱き返したフィオレンティーナの真意を。
結果、我に返ったように彼女はディートハルトの胸を突いて、身を離す。慌てて身を引いたからか、フィオレンティーナは足元を滑らせて雪の上に無様に尻餅をついていた。
「きゃっ!」
担ぎ上げられたときのような、年相応の飾らない声が悲鳴となって響くと同時に、フィオレンティーナは派手に転んで尻餅をつき、背中から雪の上に倒れた。
白い雪の欠片が羽のように宙に舞う。
抱き寄せた際にフィオレンティーナの立ち位置は変わっていたから、崖の下に転落する心配はなかった。それ故にディートハルトは彼女が雪に倒れていく様を悠然と眺めていた。
そんな彼の眼前で、外套がめくれ上がりドレスのスカートが大胆に翻った。華奢な靴が弧を描いて飛ぶ。頭上を越えていこうとしたそれをディートハルトは腕を伸ばして掴んだ。
そうして視線を戻せば、腕の中から失われた温度を寂しがる間もなく、あられもなく剥き出しになった白い腿をドレスの裾で覆い隠すフィオレンティーナがいた。
そんな彼女の慌てぶりに気がつけば、ディートハルトは腹を抱えて笑っていた。
「わっ、笑わないでっ!」
上半身、雪まみれになりながら顔を真っ赤に染め上げたフィオレンティーナは、今にも泣き出しそうな恥辱に歪んだ顔を見せる。
「何がそんなに可笑しいのっ? 酷いわっ!」
手に掴んだ雪をこちらに放り投げて、抗議してくる。
今まで取り澄ましていた仮面が剥ぎ取られていた。
フィオレンティーナ本人にそんなつもりはないのだろうが、無意識に装っていた仮面がとれたことによって――目の前の少女が、幼き日の無邪気な皇女と重なった。
ディートハルトは懐かしさと愛おしさに目を細めた。
「お前は、今のお前がいい」
「……えっ?」
ディートハルト自身、自分でも驚くくらいの穏やかな声音に、フィオレンティーナが目を見開く。
今まで辛辣な態度をとってきたから、驚かれても当然だろうが。
じわりと翡翠の瞳を濡らす涙は、きっとユリウスを思ってのことだろう、と。ディートハルトは口の中に苦さを感じた。
「……ユリウス様みたいな優しい声」
「俺はユリウスじゃない」
「わかっているわ。なのに、あなたが突然……」
「お前の方こそ、……今までの態度と違った」
「あれはっ!」
先程の醜態を思い出したのか、フィオレンティーナは再び頬に血を昇らせた。赤く染まった頬を隠すように、手のひらで顔を覆う。
「一体、あなたの素顔はどっちなの?」
――冷たかったり、優しかったり……。
そう続けて、フィオレンティーナは自分の発言に戸惑ったように手のひらを口元に持っていった。
「優しく見えるのか……俺が」
自分が優しいなんて言葉を貰えるような人間ではないことは、ディートハルトとて自覚している。
アルベルト辺りが今の発言を聞いたら、きっと唾を飛ばして全否定するだろう。そんな自分をフィオレンティーナは一瞬でも優しいと感じたというのか。こちらの態度を彼女が優しいと感じるのなら、希望があるのだろうか。愛される可能性は……どれほど、あるのだろう?
ディートハルトは無言でフィオレンティーナに手を差し出した。
ユリウスを殺した男の手を取るか否か――それは一種の賭けのようでもあった。
握り返してくれるのをじっと待つディートハルトに、フィオレンティーナが恐る恐る手を伸ばしてくる。
凍えた指先が触れると、ディートハルトは己の手のひらに包み込んで、彼女を引っ張り立ち上がらせた。そうして、彼女の前に片膝をつくように腰を屈めて脱げた靴を履かせてやった。
こちらの肩を支えにして、フィオレンティーナは靴に足を入れた。
「もし、優しく見えるとすれば……お前だからだ」
立ち上がって、蜂蜜色の髪にまとわりついた雪の欠片を払う。冷たい外気にさらされ、既に髪は凍り始めていた。固まった髪を解きほぐすように、ディートハルトはフィオレンティーナの頭を腕の中に抱き寄せた。
「どうして……?」
胸に頬を当てた姿勢で、彼女が問い返してきた。
「お前は俺の妻になる」
「だから、優しくするの?」
「優しくされるのは、嫌か?」
答えは決まっているだろう問いに、ディートハルトは薄く笑った。酷い仕打ちを好むと言われた日には、どうすればいいのか。
「……あなたは私が憎いんじゃないの?」
「俺が憎んでいるのはユリウスだ」
「でも、私はユリウス様を」
「関係ない」
フィオレンティーナの声を遮って、ディートハルトは彼女をきつく抱きしめた。
「お前が誰を愛していようと、俺には関係ない」
いや、関係はある。彼女の心から、ユリウスを消し去りたい。
でも、それよりも今は……この腕の中で、彼女が生きていることだ。冷たい躯も虚ろな瞳も要らない。
欲しいのは生きている温もり。
「生きて、俺の傍にいろ。今はそれだけでいい」
「……生きる?」
「生きろ。生きていろ」
そうして、彼女に幼い頃の笑顔を取り戻せたら……そこからもう一度、始めよう。
果たして、そんな日が来るのかは謎だが、ディートハルトは腕の中にある熱に可能性を思う。
「それがあなたの復讐なの?」
「復讐ではない。希望だ」
そう、フィオレンティーナは彼にとって希望だったのだ。何も手にすることを許されずにいた幼いディートハルトの前に現われた小さな皇女。その存在はいまや、ユリウスへの憎悪すら、些事に思えてくる。
「…………希望」
フィオレンティーナがどこか呆然と呟く。輝かしい未来を奪われ、絶望しか残されなかった彼女には、縁遠い言葉かもしれない。
「……私は生きてもいいのかしら?」
ぎゅっと、ディートハルトの外套の布地を握り締めて、フィオレンティーナは額を押し付けてきた。
「守るものがあるのだろう? 帝国の人間を見捨てるのか?」
「生きることを決意することと、生を許されることは違うわ」
「許されないと思うのか」
「だって、この国の人たちは私を憎んでいるのでしょう? それは許さないということではないの? あなたがユリウス様を許さなかったように」
フィオレンティーナの言葉が胸に突き刺さった。責められるだけの行いをした以上、この痛みは当然の報いか。
自分を悩まし続けた頭痛はユリウスの呪いではなく、罪を忘れたことへの罰ではないだろうかと、ディートハルトは思った。
汚れた手でフィオレンティーナを手に入れようとした自分への……。
「なら、お前は俺を許さず、殺すか?」
「――いいえ……。私には、あなたを殺せない」
ディートハルトの胸の中で、彼女は首を振った。
「あなたは私にとって、仇。あなたは私から、お父様やお兄様、ユリウス様を奪った。それは許せない。許せないと思うのに、だけど……私はあなたを殺せない」
私はどうしようもなく弱いの、あなたにユリウス様の温もりを求めてしまうの……と、萎れる声でフィオレンティーナは呻いた。
「弱いというのなら、その弱さ故に苦しむのが、お前にとっての罰だろう」
「……罰」
「苦しめばいい。それで生を許されるのなら、お前はお前が守るべき者のために生きろ」
生きてくれ、と心の底から願い、言葉で語りながら、ディートハルトは自らに誓っていた。
フィオレンティーナが自分にユリウスの影を重ね、その度に胸が引き裂かれるような苦しみを覚えたとしても……。
俺もまた、生きて彼女を守ってみせる――と。
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