第10話 甘い夢



 ――ユリウス様。


 夏に咲くは黄金花おうごんか。その花は天に輝く金色こんじきの太陽のよう。陽光をいっぱいに授かった緑の葉は濃く、青臭い夏の香りを室内に満たした。

 両手いっぱいに向日葵ひまわりの花を抱えて現れたフィオレンティーナに、ユリウスは僅かに目を見開き、ゆるりと紐解くように、唇をほどく。

『ああ、ティナ。まるで、花の妖精のようだね』

 手が届く距離に近づいた彼女をユリウスの瞳は眩しげに、見つめた。

 やがて伸びてきた指先がフィオレンティーナの蜂蜜色の髪をひと房、掬い絡めて、ユリウスの唇が口付けする。

 彼の手のひらの中でさらりと流れる髪の末端にまで、神経が通っているかのように、落とされた小さな熱をフィオレンティーナは感じた。

 ほんの些細な接触にも、心が躍り、身体の内で体温が上昇してしまう。

『僕の妖精は、また一段と美しくなったようだ。昔のように、抱きしめて良いものか、迷ってしまうよ』

 伏せた面を上げると、彼はからかうように首を傾げた。白銀の髪が秀麗な額で揺れた。

 ユリウスに抱擁されることを彼女が嫌がっていないことを知っていて、そんなことを言うのは意地悪だと、フィオレンティーナは少しだけ薔薇色の唇を尖らせた。それは花の蕾のような形になる。

 先の逢瀬から、約三ヶ月。エスターテ城への滞在は、婚約者といえど、年に数回しか許されない。その機会を待つ間は、一日がひと月にもふた月にも感じられた。

 恋をしていると、自覚するほどに、ユリウスへの想いはフィオレンティーナの中で確実に息づいて育っていった。

 成人を迎える十八歳の誕生日が、待ち遠しかった。

 彼のために花嫁衣装を着飾る日を夢見ることが、当時の彼女にとって日頃の楽しみだった。

 もちろん一番の幸福は、ユリウスと触れ合える時間であったことは語るまでもない。

『フィオレンティーナは、ユリウス様のものです』

 翡翠色の瞳で彼を見上げれば、彼こそが太陽のように思える眩しい笑顔を見せてくれた。

『僕も君のものだよ。君から抱きしめてくれる?』

 両腕を広げるように差し出す彼に、フィオレンティーナは抱えていた花束をテーブルの上に置いて、ユリウスの胸に飛び込んだ。

『お逢いしたかったです、ユリウス様』

『君の心が僕と同じで、嬉しいよ。ティナ』

 蕾が僅かにほころべば、彼は花びらの感触を味わうように、口付ける。

『…………甘い……』

 ゆっくりと顔を上げたユリウスは、フィオレンティーナの艶めかしく濡れた唇を指先でなぞり、吐息をこぼすように言った。

みつを……』

 ユリウスを驚かせようと唇に蜜を塗ったこと告白しようとして、フィオレンティーナは己が彼から口付けされることを見越していた事実に、恥ずかしさを覚えた。

 まるで、ユリウス様からの口付けを欲しがっていたみたい……。

 羞恥に頬を染めるフィオレンティーナに、ユリウスが翡翠の瞳を覗き込んで問う。

『……蜜を?』

『蜜が肌に潤いを与えると聞いて……』

 慌てて言い訳めいた言葉を並べながら微笑んだ。

『本当に花の妖精になってしまったかと思ったよ』

 蜜の味を確かめるつもりか、小鳥が餌をついばむように、ユリウスの唇が再びフィオレンティーナの花びらに触れる。

『もしも君が花ならば、僕は蜜を求める蜂鳥かな。――花がなければ、生きていけない……』

 背中に回ったユリウスの腕がきつく、フィオレンティーナを抱きしめた。

 逢えなかった日々の寂しさを埋めるよう、腕にこもる力に締め付けられて、フィオレンティーナの身体は歓喜に震えた。

 自分だけが恋をしているわけではないと、感じられる強さがあるように思えるのは、うたかたの幻想だろうか。

 二人の気持ちだけで結ばれる関係ではないけれど、心はしかと結ばれていると、信じることは愚かだろうか。

 愚かだと嗤われても、心をユリウスに捧げ、彼の腕の中で甘い夢を見ていたい――と。

 ユリウスに身体を預け、そっと目を伏せるフィオレンティーナの耳に、

『ゴホン』

 という、わざとらしい咳払いが響いた。

 我に返った二人はその音の発信源を辿り、戸口で居心地悪そうに佇んでいるフィオレンティーナの兄、リカルドの姿を見つけた。

『……人の恋路に首を突っ込めば、馬に蹴られて死んでも文句は言えないのだろうが。……し、しかしだね、ここで私の存在を告げておかないと……何だか、目撃しちゃいけない光景を目にしてしまうのではないかと……お兄ちゃんは心配になってだねっ!』

 二人の視線を前に、リカルドは秀麗なおもてに苦悶の表情を浮かべながら、言い訳がましく声を吐く。

『――リカルド殿下。いらっしゃっているのでしたら、お声を掛けてください』

 少しだけ名残惜しそうに、ユリウスの腕がフィオレンティーナを解放すると、リカルドに向きなおって彼は苦笑した。

 ユリウスの声は穏やかながらも、抗議するような響きが含まれているように、フィオレンティーナの耳には聞こえた。

『最初からいたのだけれどね、ユリウス王子には私の姿は目に入らなかったようだ』

『……それは失礼しました』

 リカルドに代わって、今度はユリウスが居心地の悪そうな顔を見せる。何だかその表情が愛らしくて、フィオレンティーナはくすりと笑った。

『いや、構わないよ。実の妹に存在を忘れられたショックに比べれば……』

 リカルドの目線がフィオレンティーナに流れてくる。

 野暮な真似をする羽目になったことを、彼女と同じ翡翠色の瞳は責めている。言葉通り、忘れ去られてしまったことを非難していた。

 ――フィー、今回の私の尽力を忘れたわけではないだろうね? お兄ちゃんは、君に忘れ去られて、涙がこぼれそうなくらい寂しいよ!

 そう訴える兄の瞳を前に、今度はフィオレンティーナが所在なさげに、顔を伏せた。実のところ、リカルドに目撃されていた羞恥に赤くなった顔を見せたくなかった。

 きっと、帝都に帰れば今回のことでからかわれるだろう。それでも、ユリウスのことを熱心に語る彼女の話をちゃんと聞いてくれる兄が、彼女は大好きだった。

 今回のエスターテ城訪問は、兄が帝国内の北部に視察に向かうのに同行する形で決まったものだ。

 フィオレンティーナの父であるアーネリオ皇帝は、娘が婚約者の元に頻繁に訪れるのをあまり快く思っていない。

 賢帝と謳われながら、裏では秘かに堅帝と呼ばれる――リカルドはこっそり堅物オヤジと言っていた――皇帝は、何事にも堅実であるが故に、娘とその婚約者には結婚するまでは清い関係を望んでいた。

 反面、リカルドは『政略結婚であるけれど、フィーには幸せになって欲しいよ』と、ユリウスに傾いているフィオレンティーナの心を察して、今回の滞在を手配してくれた。

『ちょっとだけ、皇帝陛下の気持ちがわかったよ。二人きりの世界を作られると、第三者としては寂しいね。だから陛下はユリウス王子に意地悪をしてしまうんだ。哀れな父心を寛大な心で理解してやってくれまいか』

 リカルドは、ユリウスの幽閉生活を遠まわしに詫びる。芝居のようなリカルドの言い回しに、ユリウスまた大仰に応えた。

『愛の試練と受け止めましょう』

 捕囚である彼には、何も言える権利はなかったのだが、茶化すことで場を和ませようとしたのだろう。

 その言葉のどこまでがユリウスの本意であったのか、わからない。

 けれども、俯いたフィオレンティーナの手に、ユリウスの手が重なった。握った指先に込められた力に、彼女が顔を上げれば、熱心にこちらを見つめる蒼い瞳があった。

 ――共に試練を乗り越えよう、と。

 瞳に宿る熱が語っているような気がして、フィオレンティーナもユリウスの手を握り返した。

 再び二人だけの世界に浸る恋人たちに、リカルドが呆れたように口を開く。

『あー、お邪魔虫は退散するよ。フィー、四日後には迎えに来るからね。それまでは恋人同士、せいぜい、いちゃついていなさい。もっとも、結婚式を早めるようなことにはならないようにね』

『――お兄様っ!』

 肩越しに手を振って去って行くリカルドに、フィオレンティーナが声を荒げれば、ユリウスの腕が後ろから彼女を抱きしめた。

『ティナ、殿下の御好意に甘えよう。かけがえのないこの時を無駄にはしたくない』

 耳元に息を吹きかけるように囁く甘い声が、フィオレンティーナを夢の世界へと導く。

 いずれ時が来れば、ユリウスと結ばれる。彼の隣で花嫁衣装を着る。

 彼が見せるは幸せな未来の夢。


 それが叶うと信じていられたあの日は、遠い……。


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