第2話 絶望への旅路
――ディートハルト陛下が貴女を妻に迎えるとのことです……。
シュヴァーン王国の上級将校が告げたその言葉は、フィオレンティーナの怒りに火をつけた。
――自らユリウス様を見捨てておいて、何を言うのっ!
フィオレンティーナは獣のように怒り咆え、赤毛の将校に噛みついた。
裏にどのような契約がなされていようと、フィオレンティーナはユリウスに恋した。未来の夫を一途に愛そうと、心に誓った。愛していた。
彼がくれた手のひらの温もりや甘い言葉、優しい笑顔。
ユリウス様以外の男の妻になるなど言語道断だと、激しく首を揺さぶり拒絶する彼女の言葉は、しかし聞き入れられなかった。
有無を言わせず、支度は整えられ、フィオレンティーナが馬車へと押し込められて七日。大陸の北に位置するヴァローナの王都へ近づけば近づくほど、寒さが増す。窓の外が白く煙る。荒れ狂う北風が容赦なくシュヴァーン王国の都へと向かう一行を凍える冷気で攻める。
ユリウスから、シュヴァーン王国は、一年の半分近くが雪に覆われていると、フィオレンティーナは話に聞いていた。
農作できる期間が少なく、王国領内はそれなりの広さがあるが、その一部は凍土。年中、凍っている。
肥沃な土地を求めて、九年前にシュヴァーンがカナーリオの広大な領土を欲した理由を、ユリウスは蒼い瞳を悲しげに伏せて語ってくれた。
その戦に負けたシュヴァーン王国は、国の後継者ユリウスをカナーリオ帝国に人質として預け、皇女フィオレンティーナを王子の妃にすることを条件に、降伏を宣言した。
そうして、カナーリオ帝国に迎えられたユリウスは二年前に、シュヴァーン王国の帝国侵攻によって、命を落とした。
彼の命を奪ったのは、シュヴァーン王国の裏切りが原因だった。玉座にあったユリウスの父王マーリウスを
王位継承権も指折り数えるほどに遠かったその従兄ディートハルトは、帝国と国境を分かつもう一つの国ヴァローナ王国と結託し、ユリウスの存在を無視し、帝国を左右から攻めた。
ユリウスという人質を取ったことで、シュヴァーン王国を完全に手中に収めたと安心していたカナーリオ帝国は不意を突かれ、劣勢に追いやられた。
一年間各地で激しく衝突しては、後退を余儀なくされた帝国軍は、帝都に籠城した。そして、半年の抵抗空しく、帝都は陥落した。
捕えられたフィオレンティーナは、シュヴァーン軍人たちが交わす会話から、ユリウスの訃報を聞く。
ユリウスが身を置いていたエスターテ城がシュヴァーンの軍勢に襲撃されたことは、聞いていた。人質を取り戻す目的での襲撃だったのか、その襲撃の真意は帝都にいたフィオレンティーナの耳には遠かった。
彼の安否を祈りながら、シュヴァーン王国の裏切りに先行きの不安を覚え、頭をもたげながら、フィオレンティーナは帝都で息をひそめていた。
ユリウスがいるエスターテ城に滞在することが許されていたのは、年に数回。
『――また、逢える日を心待ちにしているよ、ティナ』
そう耳元で囁いて、頬に口づけしてくれたユリウスに見送られて、フィオレンティーナが帝都に帰った一ヶ月後、エスターテ城が落ちたと聞いた。
それが開戦の
彼の訃報を聞いて、フィオレンティーナはシュヴァーン王国がユリウスを裏切ったことを知った。その頃には、ユリウスが人質であったことを理解できる年齢になっていた。
ユリウスの死は、フィオレンティーナから生きる希望を奪った。
開戦から一年半、帝都は敵の手におち、城の地下牢に皇帝の一家は軟禁されていた。
差し出される食事に口をつけなくなったフィオレンティーナに、兄である皇太子リカルドは『フィー』と兄妹間での愛称を口にし、諦めるなと、諭した。
まだ降伏していない帝国軍がきっと我らを救いに来る――と、皇太子自身どこまで信じているのかわからぬ微かな希望を告げる。
その兄に、フィオレンティーナは小さく頭を振った。
ほろほろと翡翠の瞳から涙の雫を散らしながら、彼女は悲嘆にくれた。
『ユリウス様がいない世に、私ひとりが生き残っても意味がないのよ……リカルドお兄様』
『王子が死んだというのは、あくまで噂であろう。彼もまた、我らと同じく捕らえられているのかも知れない。フィー、諦めるな』
兄の説得に、泣いて縋って、フィオレンティーナは生を繋いだ。
しかし、その兄も父と共に処刑された。斬首された二人の首に、フィオレンティーナは悲鳴を上げ意識を失った。
暗転する視界に、自らの死を予感しながら、フィオレンティーナは意識を手放した。
自分も父や兄たちと共に死ぬのだと確信していた彼女の意識は、強烈な鼻を突く臭いで覚醒させられた。
目覚めれば、フィオレンティーナは天蓋付きの寝台に横になっていた。
見覚えがあるレースのカーテン。薔薇模様を散らした壁紙。壁に飾った額も、身にまとう服も。
それに気づけば、彼女は自分の部屋に眠っていることを知った。
攻め込んだシュヴァーン軍に接収された城のフィオレンティーナの自室。
――夢だったのか? と、記憶を疑うのも一瞬。傍らに控えていたらしい女が外に合図すると、シュヴァーン王国の上級士官の軍服を纏った将校が現れた。
彼女を牢から連れ出した将校は、皇帝や皇太子リカルドの死をフィオレンティーナに突きつけ、意識を失った彼女をこの部屋へ連れ戻したらしい。
何故、このような手間を? と、訝しげるフィオレンティーナに、将校は口を開く。
赤い髪が印象的な、まだ二十代後半だろう巨漢のその将校は、彼女を『シュヴァーンの首都へ連れて行く』と、感情の交らぬ仮面のような表情と、淡々とした口調で告げた。
――ディートハルト国王陛下が貴女を妃に迎えるとのことです。
その後のことは反芻した通りだ。
拒絶するフィオレンティーナの意向は全く無視され、部屋にあった彼女の荷物がまとめられると、シュヴァーン王国への旅路に着いた。
北から南へと大陸の中心に広大な領地を持っていたカナーリオ帝国からシュヴァーン王国への道のりは長い。
道中、ユリウスに殉じようと食を断てば、将校の男臭い太い指で強引に口をこじ開けられ、食べ物を詰め込まれた。
舌を噛み切る恐れがあると、さるぐつわを用意されるに従い、彼女は抵抗を諦めた。
そうして、先行きのわからぬ
己が国の王の首を斬り、ユリウスを見捨て、シュヴァーン王国の王となったディートハルトという人物に、慈悲の心があるとは思えない。
だが、こうして手間を掛けて自分を生かした以上、簡単に殺しはしないだろうと思えば、死ぬことも許されない己が、フィオレンティーナには惨めだった。
その時になって、理解していたつもりの、ユリウスの捕囚としての辛苦を知った気がした。
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