エピソード
ワタシは、左目が使えない。
幼い頃、母親に押しつけられた煙草の火のせいで。
火傷で引き攣って醜くなった左目を隠すため、眼帯をずっと着けている。
母親はワタシに大怪我を負わした後、恋人と消えた。
餓死寸前、死の淵に立ったワタシを救ってくれたのは児童相談所の人。
そして、ワタシを受け入れてくれた児童養護施設。
施設での暮らしは快適だった。優しい先生に同じ境遇の仲間……かけがえない家族達で、笑いが絶えず暮らしていた。
皆、大好きだった。でも一番好きな人は――――。
月に一度か二度……姿を見せる黒いフードマントを着た、白い仮面の人。
名前は、アンヤ。とても素敵な声で、本を読み聞かせてくれる人。
お菓子を持ってやって来るアンヤに年下の子達は絵本を持って列を連ねる。
夜遅く、皆が眠るまでリクエストに応えて……翌朝には姿がない。
「――――こうして白雪姫は王子様と末長く幸せに暮らしました……」
ワタシは、童話に飽き飽きしていた。
だから音楽を聞き流すように、話を聞き流していた。
「アンヤあ! つぎは、コレよんでえ!」
「ちょっと待って下さいね」
アンヤは絵本を本棚に戻してから、部屋の隅にいたワタシの前にやってきた。
「どうぞ」
差し出された綺麗な右手には、飴玉が乗っかっていた。
「べ、別にお腹空いてないよ!」
「そうですか? ……うわっ!?」
いきなり後ろからしがみ付いて来てきた幼児数人に押しつぶされたアンヤ。
「こらぁー! 一人に対して卑怯だぞ!」
ワタシも加勢する。
アンヤが声を掛けてくれたのは、一人つまらない顔をしていたから。
その心遣いが嬉しくて……その気持ちに応えたくって精一杯笑顔を浮かべた。
アンヤの事は、大好きだった。でもハッピーエンドの話は嫌いだった。
世の中、幸せばかりじゃないことは……体験した事だから。
都合よく魔女の手から逃れられたりしない。王子様が助けに来てはくれない。
本当の本当に危なくなった時にしか、救いは来ない。
いや……救われない事の方が多い。だって童話の世界とは違うから。
現実の世界は、ハッピーエンドを簡単には迎えられない。
ある日、ワタシは読み聞かせが聞きたくなくって逃げ出した。
ワタシの秘密の隠れ家に隠れていた――――のに。
「ここにいましたか?」
「え!?」
あっさりとアンヤに見つかってしまった。
「ここは木漏れ日が綺麗ですね」
施設の近くにある公園の、茂みの中。
拾って来たブルーシートを敷いて、隠れていた。
アンヤはワタシの隣に腰かけた。
「何でわかったの?」
「絵日記から推測しました」
「よ、読んだの!?」
「いいえ。先生の皆さんが話していたのです。
感受性が豊かで、綺麗な文章を書くと」
この施設に来てから、ワタシはよく褒められる。
先生達の褒め言葉も嬉しいけれど、アンヤの言葉が一番嬉しかった。
「絵本は苦手ですか?」
アンヤは優しく訊いて来た。ワタシは迷ったけれどアンヤなら怒らないで聞いてくれるだろうと、ずっと思ってきた事を話してみた。
アンヤは黙って最後まで話を聞いてくれた後、静かに話し始めた。
「シンデレラ、白雪姫、人魚姫……これらは改変されているのです。
作者が書いた元の原作とは、話の流れや結末が変わっているのです。
例えば、シンデレラ……その名の意味は《灰かぶり》。
上流貴族の令嬢から使用人に成り下がり、常に灰にまみれている主人公を嘲って《灰かぶり》と呼ぶのは、継母と義理の姉二人。
この三人は最後、主人公が飼い慣らした小鳥達によって目玉を抉られて永久に失明します。最後に報復を受けるのです」
美人で心優しく、そして強いシンデレラ……そんな女性だと思っていた。
でもそんな完璧すぎる人が、理不尽な苦境に立たされるのが納得できなくて。
「やっぱり、そうだったんだね」
ワタシは大きく頷いて言った。
「だって、あんなに苦しい思いをしたのに!
やり返さないなんてお人好し過ぎると思った!」
アンヤは小さく笑って同意してくれた。
残酷な物語は改変された。小さな子供達に夢と希望を与えられるように。
でも、大切な事……作者が伝えたいと思った事は変わってはいないと話した。
「シンデレラの作者、グリム兄弟が伝えたかった事は何だと思いますか?」
「やられたら、やり返せ?」
「そうですね……」
アンヤは違った意味で捉えて欲しかったようだった。
でも、灰かぶりと呼ばれた少女は、強い子だった。
意地悪な三人に苛められても屈しなかった。
『舞踊会に行きたい』という、ささやかな願いをきいた三人は、暖炉に多くの豆を撒いて一時間で全てを拾い上げたら連れてってやると約束して、少女は小鳥達の協力をもってこなしたのに約束を反故にされた。
だからシンデレラは自分で綺麗なドレスや靴を用意して、王子様の所へ向かった。
そう、原作には親切な魔法使いのおばあさんは出て来なかった。
少女は自分一人の力で、逆境から自分を救い出したんだ。
「ワタシも、シンデレラの少女みたいに強くなりたい」
ワタシが言ったらアンヤは優しく頭を撫でてくれた。
「きっとなれますよ」
何の根拠もないけれど、嬉しかった。
それから、アンヤは下の子供達に絵本を読み聞かせて、お昼寝の時間にワタシだけ童話の原作を読み聞かせてくれた。先生達には内緒で。
アンヤは、名前も顔も隠していたけれど、大切な事は隠していなかった。
綺麗事で誤魔化したりしなかった。
「ねえ、アンヤ」
「何ですか?」
二人の秘密の場所で、ある日ワタシは訊いた。
「オイワサン、って何かな?」
「…………それは」
アンヤが言い淀んでいた。
「誰が、言っていたのですか?」
「外の子だよ」
施設から徒歩十五分ほどの近くで、裕福な家が建ち並ぶ住宅街があった。
両親が揃っていて、恵まれた家庭で過ごしている子供達が通学の際に、施設の前を通る。連中はワタシ達、施設の子供達を出来そこないと思って、からかう。
だから《オイワサン》というのも、どうせロクなアダ名じゃないとは思っていた。
「四谷怪談、という怪談があります。
そこに出て来る女性の名が、岩と言います」
「お岩さん……?」
人の名前だと知って落胆した。
「シンデレラみたいなお洒落なアダ名だったら良かったのに。
四谷怪談って、どういう話?」
「岩という名の女性が、夫に毒薬を飲まされて顔が崩れ、狂乱の揚句に自害します。
その後、首謀者の夫と彼を取り巻く関係者に岩の呪いが降りかかって悲惨な最期を遂げます」
「……お岩さん、ね」
ワタシは苦笑して眼帯に、そっと触れた。
「ねえ、アンヤ……呪いってあるの?」
「ありますよ」
「ワタシにも使える?」
「人を呪わば穴二つ……呪いに関わらない方が良いです。
幸せに生きたいのならば」
冷たく言い切られた。
「でもアンヤ……?」
「何ですか?」
「幸せに生きようと思っているのに、邪魔する連中はどうしたらいいの?」
アンヤは答えてくれなかった。ワタシもそれ以上は訊かなかった。
でも施設に戻る道の途中で、ワタシの頭を撫でながら話をしてくれた。
「ワタシは自分の幸せを追求して、全てを捨ててきました。
ワタシは罪深い人間です。
悪いと思っていながら、この暮しを続けているのですから。
この幸せな生活には、誰かの悲しみがある……そんな事を四六時中考えながら過ごすのが、本当の幸せでしょうか?
ワタシは、未だに幸せな暮らしを送れていないのです」
アンヤは咳払いをしてから、ワタシの手を優しく握ってくれた。
「でも、この施設で皆に会う時は素直に楽しいと思います」
アンヤも、この施設が大好きなんだ。それがとても嬉しかった。
ワタシは施設の中だけで、温室のような優しい世界だけで生きていたかった。
無限に広がる外の世界なんか、無くったって良かった。
でも、それは及ばない高望みだった。この世に生を受けたからには、いつかは外の世界に出ていかなければならない。
それは仕方ない事。わかってた。覚悟していた。信じていた。
いや……優しい世界しか知らなかった無知なワタシは、外の世界も同じく優しいと思っていたのだ。その信じていた想いは、呆気なく壊された。
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