6-2 暴かれた正体

 火曜日の朝、結は川崎のところに顔を出してから森口の事務所に向かった。


 親密になってみると森口は扱いやすい男であった。暴走すると何をしでかすか判らない怖さはあるが、おだてて気分を良くさせておけば有用な情報をぽろぽろと落としてくれる、まさにカモだ。


「おぉ鈴木。いいところに来た。見ろ、あの女の弱みを握れそうな写真だぞ」


 雑多な事務室の机の間を縫って、森口が上機嫌で結のところへ歩いてくる。手に持った写真を「ほれ」と結につきつけてきた。


 そこに写っているのは、照子がどこかの家へと入っていこうとしているところだ。

 見覚えがあるな、と結は写真を注視した。

 桐生家だ。田村が頭を下げて照子を迎えている。


「……これは?」

「あの女のファンだとかいう小娘の家が、暴力団だったんだ。これをネタに大会辞退を迫れるってことだ。やはり本職の探偵に素行調査を頼んで正解だったな。調査料をしこたまふんだくられたのは痛いところだが」


 暴力団関係者と親しくしていることを公表されたくなかったら大会を辞退しろと言うつもりなのだろうか。

 しかし照子はそれくらいではひかないだろうなと結は思っていた。桐生家は暴力団――彼らはやくざであって暴力団と一緒にするなと言うが――であっても、あやめとは関係ない、とぴしゃりとはねつけそうだ。


 今それを指摘して森口の機嫌を損ねることもあるまい、と結は適当に相槌をうった。


「せっかく手に入れた写真だ。有効に使わねばな」


 森口は、元々人相のよろしくない顔を更に意地悪そうに歪めて笑った。


 もしかして、「おまえが交渉して来い」と命じられるのかと案じた。


 その時。


 事務所の扉が勢いよく開いた。風圧の変化に巻きあがる空気に不穏の臭いがする。

 結は反射的にそちらを見たが、見たくないなという気持ちが後から追いかけてきた。


 果たして予感が当たる。事務所の入り口にはしかめっ面の川崎が、その後ろに涼やかな顔の葉月が立っている。

 二人の、特に川崎の様子はどう見ても親しげな雰囲気ではない。彼は結を見つけると眼光鋭く睨みつけ、ずんずんと迫力のある歩き方で迫ってきた。


 身長ではさほど変わらないが体格では川崎の方が目に見えてがっちりとしている。正面から圧されるように近づかれるとさすがの結も後ずさりたくなる。


「なんだ何事だ川崎。悪そうな人相が更に歪んでるぞ。うちの鈴木が何か粗相をしたのか?」


 いつからおまえ専属になったのだと思わず横目で見やったが今はそのようなことを言っている場合ではなかった。


「あぁ、粗相も粗相、あんまりにもうまくやりやがって腹が立つのもあるが感心もしてんだがな」


 ばれたか、と直感的に察した。だがここで認めるわけにはいかない。


「……あ、あの?」


 遠慮がちに声をかけてみたら、川崎がにやりと口角をあげた。


「よぅ、鈴木。いやそりゃ偽名だな。諜報組織のスパイさんよ。どれだけおれらの情報を掴んで組織に報告した?」


 川崎の顔は笑っているが、目が恐ろしいまでに敵意に満ちている。今までに見たこともない、それは紛れもない犯罪者の顔だ。


「ちょ、ちょっと、待ってください。何のことですかっ」


 結は慌てて手を前に突き出してせわしなく振った。さも心外と言わんばかりに演じてみたが、目の前に迫った男は結の演技を鼻で笑って一蹴した。


「ふん、さすがスパイ。そうやって自然に慌てるふりもお手の物だなぁ」


 ずいと顔を寄せられ、結は大きく一歩後ろに下がる。


「鈴木が、スパイ?」


 森口が顔を青ざめさせて口をわななかせている。

 当然だろうなと結は思った。なにせ川崎の悪口にかこつけて彼の裏社会での活動をあれこれと結に話してしまったのだから。結がスパイとすると、悪口と一緒に、敵に情報を渡したことになるのだ。


「何かの間違いです」


 結は助けを求める視線を森口に飛ばしてみたが、森口の援護はなかった。おそらく本当に結がスパイであった場合に、川崎に問われるであろう質問の答えを頭の中で必死に考えているのであろう。ヌケたところのある森口だが、保身に関しては頭が回りそうだと結は感じていた。


「間違い、か。この期に及んでしら切る気か」


 川崎が鋭い眼光に更に殺気を込めて左手をすっと伸ばしてきた。

 結はとっさに身をかわそうとしたが、ここで極めし者としての動きまで見せてしまってはスパイであることを更に肯定してしまう、と踏みとどまった。


 その、ほんのわずかな結の体の動きを見てか、川崎は凶悪な笑みを浮かべながら結の胸倉をぐいと掴みあげた。


「今、よけようとしただろ。そのままよけときゃよかったのにな」

「そ、そんな……。とにかく私がスパイなどと、どこの誰が――」

「わたしよ」


 結の言葉を遮ったのは、事務所の入り口のところに立っている葉月だ。部屋全体が荒々しい雰囲気にありながらもなお冷静に状況を見極めんとする目が結ととらえている。


「葉月嬢の情報は、いつだって確かでなぁ。おまえと彼女の言うことのどっちを信用するかってぇと、当然彼女だ」


 川崎の声を聞きながら、結は葉月を見つめた。一体何者なのだ、彼女は、と。


 突然、川崎が結を突き飛ばした。後ろに倒れそうになりながら慌ててもちなおそうとする結に、川崎がまた手を伸ばしてくる。いつもズボンのポケットに突っ込んでいる右手だ。

 何かが握られている、と結が見て取った時にはもう、首元に匕首あいくちの刃がつきつけられていた。


「次はない。とっとと失せろ」


 まさにドスのきいた声で、川崎が短く告げる。

 ここは素直に引いた方が良さそうだ、と結は判断する。元々、上司の西村からそろそろ撤退してもいいと言われていたのだから。


 結は一旦後ろに下がって川崎と距離を空け、相手に攻撃の意思がないのを確認してから横を通り過ぎる。


「……おまえ、あいつに余計なこと、くっちゃべってないだろうなぁ?」


 川崎の声は森口に向けられている。

 森口は何も答えないが、首がちぎれるかと言うほどの勢いでかぶりを振っている気配がする。


「本当かぁ? おまえさん、いつも一言多いからなぁ」

「言わん言わん言わん」


 そんなやりとりを耳にしつつ、結は入口近くの葉月のそばにやってきた。


「いい仕事をしたご褒美をあげるわ」


 囁くような声で葉月が言う。先程までの無表情とは違い、何かを楽しんでいるかのような顔だ。

 彼女がすっと差し出してきたものは、照子が北海道の格闘大会に出て対戦している数枚の写真だ。


「あなたの好きに使えばいいわ。彼女によろしくね、青井結さん」


 耳をくすぐるかすかな声に結はぞくりと震えた。

 葉月は結の手に写真を握らせて川崎らの方へと歩いていく。

 おしつけられた写真を懐にしまいながら、結は事務所を後にした。


 なぜばれたのだろうか。と結は考える。ひょっとして、北海道から帰ったその足で「IMワークス」へ向かったのがいけなかったのだろうか。その時に尾行されたのかもしれない。


 しかしそれならば、彼女の最後の行動は何を意味しているのだろうか。

 森口の事務所を離れ、結は改めて懐から写真を取りだした。


 北海道ペアと闘う照子の姿を遠くから撮っているものと、おそらくは望遠レンズを使ってアップでとらえているものがある。


 はつらつと闘う照子の姿に結は微苦笑する。恋人である自分に内緒で札幌まで行き闇大会に出ている照子。佳以達を相手に苦戦しながらも楽しそうに闘っている姿を捉えた写真を見せたら、彼女はどういう反応をするだろうか。


(いや、今はそれどころじゃないな……)


 森口の事務所が入っているビルを出ると、まぶしさを増した五月の太陽が視界を焼く。目を眇めながら、さてこれからどうしようかと結は途方に暮れた。




「……という次第です。申し訳ございません」


 結局、結は勤め先の「IMワークス」に向かい、例の会議室で西村に事の次第を報告した。


「うん、まぁ、仕方ない。君はよくやってくれたよ」


 西村は結を咎めるわけでもなく、逆にねぎらってくれた。潜入先に正体がばれて追い出されたと言うのにいいのだろうか、と思いつつ、結はもう一度、申し訳ございませんでしたと頭を下げた。


「これからどういたしましょう」

「通常の業務に戻ってくれ。まずは今回の潜入捜査に関する報告書を作成すること、かな。あと、もしもこの後であの大会に関して何か掴んだなら、それも頼む。彼女は日曜日の決勝戦に出るのだろう?」


 潜入の仕事がなければ日曜日は青井結として照子の試合を観戦に行ける。西村には結の考えが読めていたようだ。


「判りました。もしも何かありましたら、できる限りのことはします」


 ついでに、照子の試合を自然な流れで観戦できるようにしようか、と結は思いついた。


 何のつもりだか判らないが、葉月が渡してくれた写真を使わせてもらおう。

 結はひとつ、ふたつ、うなずいて会議室を後にした。


    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆


 あやめの家を訪れた次の日の夕方、ちょうど仕事が終わった時間に、照子の携帯電話に結からメールが入っていた。

 会って話したいことがあるから、仕事が終わってから家に行っていいか、という内容だ。


 いつもなら手放しで喜ぶ照子だが、このタイミングでの結の連絡に、不安が沸き上がってくる。


 もしかしてもう大会主催者が結に何かしたのではないか、と思うと胸が痛い。

 メールの文章からは感情が読みとれない。だからなおさら怖い。


 とりあえず、時間は空いているから大丈夫だという返事をしておいた。

 職場からの帰り道、いつもは快適なバイクの運転も、今日はなんだかハンドルが重い気がする。


 一体何があったのだろう。

 いくら考えても判らない疑問に、照子は深く溜め息を漏らした。


 照子が家に帰りつくと、なんと、結が家の門の前で待ちかまえていた。いや、待ちかまえているように感じるのは照子が結に対して後ろ暗いものを抱えているからだろう。

 何でもないふうを装って、照子はにっこりと笑みを浮かべた。


「ただいま、結」

「あぁ、おかえり」

「中で待っててくれたらよかったのに」

「お母さんに気を使わせるのも、どうかと思ってな。もうちょっと待って帰ってこなかったらお邪魔しようと思ってたけれど」

「とにかく上がってよ」


 照子が促すと結はうなずいて後についてきた。

 母が結の来訪を喜んで「お茶淹れるわね、美味しいお菓子があるのよ」などと勧めてきたが照子はやんわりと二人になりたいからと断った。


「じゃあお話が終わったらいらっしゃい」


 母は何かを察してくれたらしい。

 話が終わったら別れてました、なんてことにならなきゃいいけど、と照子はドキドキしながらうなずいた。


 二人は二階の照子の部屋に移った。

 いつもは気にしない階段のきしむちょっとした音さえ不吉に聞こえてしまう。

 照子が部屋に入り、結が後に続く。照子が振り向くと、相変わらず表情の読めない結がそこにいた。


 照子が畳の上に座ると、小さいテーブルをはさんで結が真向いに座る。


「来てくれてよかった。わたしも結に話さないといけないことがあるんだ」


 照子が言うと、結は初めて表情を動かした。少し驚いたように見える。


「なら、おまえから話せばいいよ」

「ううん。結からどうぞ」

「いや、そんなふうに切り出されると気になるし」

「話があるって言いだしたのは結だよ」


 むぅ、と二人して溜め息。


「それじゃ、俺から言う」


 結はスーツの胸ポケットから何やら取り出して、机の上に置いた。


「ぶはっ!」


 それが何なのか判った瞬間、思わず照子は驚きに噴き出していた。

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