0話「クアナ」

 昼の者たちが寝静まり、夜に祝福された者たちが蠢き始める時間。

 森林に囲まれた大きな湖には夜空が反射して映り込んでいる。

 その畔には集落が点在し、そこに住む人々は湖からの恩恵を授かって暮らしていた。


 点在する集落の中でも一際目立つ湖の岸に隣接するように建てられた大きく古い家。

 その中の一室で一人の少女が目を覚ました。


「今のは・・・・・・?」


 混乱する頭を振るい、未だ睡眠を欲している身体に鞭を打ちながら寝床から起き上がる。

 彼女は魔法の光を指先に灯すと、その小さな灯りを頼りに部屋の戸を押し開いた。

 月明りも差さない廊下を、魔法の光と手探りでゆっくりと進んでいく。

 ふと灯りの当たっている胸元に視線を落とすと、寝間着姿のままで部屋を出てしまったことに気が付いた。

 しかし今更である。何とか体裁だけでも整えようと、乱れている青色の髪を手櫛で梳かしてから再び歩き始めた。

 しばらく進んで目的の部屋の前に着いた彼女は、そこにある戸を控えめに叩き、中に呼びかける。


「あの、巫女様・・・・・・。」


 まだお眠りになっているかもしれない。返事が無ければこのまま自室に戻って目を閉じてしまおう。

 そんな彼女の淡い期待は、中から返ってきた優し気な皺枯れ声に打ち砕かれた。


「クアナかい? 入っておいで。」

「・・・・・・失礼します。」


 部屋の中に入ると、一人の青髪に白髪の混じった「巫女様」と呼ばれた老女が寝床から身を起こした態勢で魔法の灯りを灯して待っていた。

 クアナと呼ばれた少女は巫女様の寝床へ近寄り、傍らで両膝をつく。


「巫女様。私、今――」

「あなたも感じたのね、クアナ。」


 巫女様の言葉に頷くクアナ。


「ではクアナ。あなたには夜が明けた後、お迎えに上がってもらいます。」

「わ、私が・・・・・・ですか?」


「私ももう歳ですから。あなたの巫女見習いとしての仕事はこれで最後になるでしょうね。」

「でも、私なんてまだ――」


「そんなことはないわ、自信を持ちなさい。さぁ、もう部屋に戻ってしっかり休むのよ。明日は大変でしょうから。」

「わ、分かりました・・・・・・。」


 ぺこりとお辞儀をしてクアナは部屋を後にした。

 クアナを見送った巫女様は、戸が閉まるのを確認してから小さく溜め息を吐いた。


「あの子には重い使命を背負わせることになってしまったわね・・・・・・。もう少し鍛えてあげたかったけれど、こうなってしまっては仕方がないわ。私も最後にもうひと踏ん張りしましょうか。・・・・・・まぁそれはそれとして、私も休みましょうか。」


 巫女様は魔法の灯りを手のひらで包むようにして消すと、再び寝床に横になった。

 部屋を出たクアナは、来た時と同じ様に魔法の光を頼りにして自室へと向かっている。

 巫女様が溜め息を吐いていた同時刻に、クアナもまた同様に溜め息を漏らしていた。


「はぁ・・・・・・。本当に私で大丈夫なのかな?」


 拭えない不安が、胸元から溢れ出る様に零れ落ちる。

 その不安を振り払うように頭を振ったあと、クアナは表情を引き締めた。


「ううん、私が頑張らなきゃ。・・・・・・うぅ、でも明日は森へ行かなきゃいけないのかぁー・・・・・・。」


 クアナが引き締めた表情は、いくらも保たずに崩れてしまった。


「そういえば森の魔物は最近討伐して減らしたし、しばらくは安心だよね・・・・・・?」


 ホッと胸を撫でおろすクアナ。

 とある世界では”フラグ”と呼ばれる言葉であるが、それを指摘するものはここには居ない。

 自室に入り寝床へ辿り着いたクアナは、指先に灯した魔法の灯りをフッと吹き消し横になった。


*****


 翌朝。クアナは窓から差し込む陽光を身動ぎして避け、眠りに浸っている。

 いつもなら目が覚めている時刻だが、昨日は中途半端な時間に目覚めてしまったため、まだ起きれずにいた。


「何時まで寝ているの、クアナ!」

「ひゃ、ひゃい!?」


 巫女様の一喝にクアナが飛び起きる。

 慌てて外を見ると陽が昇っていることに気付き、彼女は「失敗した」と表情に現した。

 叱られると首を竦めるクアナだったが、昨日の事情を知っている巫女様はそれ以上言及せずに、折り畳まれた布をクアナに手渡した。


「これに着替えなさい。」


 受け取ったクアナは首を傾げながら手渡された真新しい布を広げて驚きの声を上げる。


「巫女様、これって・・・・・・!」

「まだ見習いと言っても、いつもの見習い装束でお迎えに上がっては失礼ですからね。」


 白地に青い刺繍で文様が施された礼服。

 それはクアナの隣にいる巫女様が着ている正装と同じものである。

 クアナは息を呑んでその礼服をしばらく眺めたあと、礼服を丁寧に畳み直して立ち上がった。


「禊ぎに行って参ります、巫女様。」

「あぁ、行っておいで。」


 凛とした表情に変わったクアナを満足げに眺めたあと、巫女様は優しく微笑んで頷いた。


「さて、私は朝餉の準備でもしようかね。」


 クアナの背に急かすような言葉は掛けず見送った巫女様は、今日くらいは少し豪華な朝食にしても良いかもしれない、そんなことを思いながら彼女はその場を離れた。


 一方、クアナは折り畳んだ礼服を大事に抱えながら廊下を進んでいた。

 湖のすぐ傍に建てられた代々の巫女が住むこの家には、湖を利用した沐浴場がある。彼女の目指す場所はそこだ。

 沐浴場の戸を開けると、晴れ渡った青空と澄んだ湖面が迎えてくれる。

 周りから見えないよう簡素な木壁で囲われているが屋根は無く、静まり返った水面が陽光を反射して輝いている。


 クアナは入り口近くに備え付けられた棚に折り畳んだ礼服を置き、自身が着ている寝間着に手を掛けた。

 各所を留めている結び目を解くと、全身を覆っていた寝間着が風が吹いたようにフワリと乱れる。

 最後の結び目を外すと寝間着はハラリと地面に落ち、クアナの一糸まとわぬ姿を露わにした。

 陽の光が照り返す張りのある瑞々しい素肌は彼女の若さを象徴し、重力に逆らってツンと上を向く控えめに膨らんだ胸はこれからの成長を期待させている。


 ゆっくりと湖に向かって歩き、その身を沈めていくクアナ。湖は一歩進む度に深くなり、彼女の身体を飲み込んでいく。膝、腰、胸、肩、首・・・・・・そしてその身を全て水の中に浸した。

 クアナは水の中でたゆたいながら身体を払うように撫でていく。彼女が幾度となく繰り返してきた、穢れを落とすための儀式である。

 全身の穢れを隈なく払い落し、湖から上がったクアナはその身をブルリと震わせた。


「この時期だとまだ少し寒かったかな。」


 全身に張り付いた水を魔法で集めて祝詞と共に湖へと返したクアナは、棚に置いていた礼服を広げ袖を通していく。

 冷たさで尖る様に固くなってしまった女の子として成長した部分に擦れてしまい小さな悲鳴を上げてしまったりもしたが、無事に礼服を着付けることが出来た。

 全身を覆う礼服には所々切れ込みが入れられており、クアナが思っていたよりも身体を動かしやすくなっているようだ。

 振り返って水面に映る少し大きめの礼服を着せられた自分の姿に思わず苦笑してしまう。


「やっぱり巫女様のようにはいかないかぁ・・・・・・。」


 クアナが沐浴場を出ると、朝食の良い匂いが鼻をくすぐった。

 同時に空腹を訴える腹の虫が声を上げ、思わずお腹を押さえる。


「もう、締まらないなぁ。」


 匂いを辿っていくと、巫女様が用意した朝食が四人掛けほどの机に所狭しと並べられていた。

 クアナの好物ばかりで巫女様が祝福してくれているのだと知ると、思わず破顔してしまう。


「さぁ戴きましょう、クアナ。今日はこれからが本番ですよ。」

「はい。ありがとうございます、巫女様。」


 好物をお腹いっぱいに詰め込んだクアナは巫女様に髪を結ってもらい、身支度を整えて集落の入口に立っていた。

 クアナ達に気付いた見張りの男が話しかけてくる。


「おや、巫女様に巫女見習いのクアナ。そのような恰好でどうされたんです?」

「これからクアナに大事なお役目があるのです。私はその見送りに来ました。」


「それでは護衛に付ける者を呼んできます。」


 駆け出そうとした見張りの男を巫女様が呼び止めた。


「いえ、今回のお役目はクアナ一人で行います。」

「え!? しかし彼女一人では――」


 巫女様が首を振って男の言葉を遮る。


「問題ありません。この子の魔法の腕はあなたも知っているでしょう? それに、武器を持った護衛が居ると警戒なされるかもしれませんから。」

「は、はぁ・・・・・・? 分かりました。ではお気をつけて、巫女見習いクアナ。」


「ご心配ありがとうございます。それでは行ってきます、巫女様。」

「行ってらっしゃい、クアナ。方角は分かるわね?」


 クアナは巫女様の言葉に困惑しながらも頷いた。


「森に近づくにつれ、私を導くような・・・・・・そんな力を感じています。」

「その導きに従いなさい。きっとあなたを引き合わせてくれるでしょう。」


「・・・・・・はい!」


 巫女様にお墨付きをもらえたクアナは今度こそしっかりと頷いた。

 そしてクアナは導かれるままに、森の中へと一歩踏み出した。

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