HappyEndⅣ ― BAD END ―





「どういうことでしょうか?」


 坂上先輩から隠すように、叶ちゃんを背後に下がらせ、彼と対面する。

 因縁のあるこの先輩が僕らを敵視しており、隙あらば貶めようとしている事は少し考えれば分かったことだ。

 だが当時の僕がどんな考えでいたのか、それとも何も考えていなかったのか、いくら考えても出てこない。

 ただ、過去いくつもあった分岐点のことごとくにおいて、自分が選んではいけない選択を選んでしまってきていたことだけは理解でき、内心で歯がみする。


「見たんだ! こいつらがバケモノになるところを。この女だ! この女がバケモノで、元凶だったんだ! こいつとこの女が結託して、俺たちをこの世界に閉じ込めているんだ」

「違う! 僕らはただ、二人で過ごしたいだけです」


 言い訳じみた言葉で取り繕ってみるが、見られてはいけないものを見られてしまったという事実が僕の余裕を無くしていく。

 焦りを見透かされたのだろうか? 荒唐無稽な主張ではあったが、坂上先輩には絶対的な確認が存在しており、その確信から来る自信が周囲への説得力となっている。


「知っているぞ、その女はバケモノなんだろう?」

「彼女は人間です。それに、あなたには関係ないでしょう」

「そいつがこの現象を引き起こしているんだ! 隠したって無駄だ!」


 説得することは無理そうだ。

 興奮が高まっているのか、今まで見たこともないような表情で口からツバを飛ばして激高している彼に、もはや対話での解決を期待するのは不可能に違いない。

 となればこの場からなんとかして逃げなければいけないが……果たして叶ちゃんを連れてこの集団から逃げおおせることができるのだろうか?


「そいつを殺せば皆助かる!」

「なにを言って!?」

「俺は見たんだ、そこの女が馬面を殺すところを! ソイツが元凶に違いない! 今まで何をやっても駄目だったのは、ソイツが人間のふりをして俺たちを騙していたからなんだ!」


 叶ちゃんが背後で息を呑む。

 僕は震える彼女に視線を向けると、大丈夫と彼女だけに聞こえるように言葉をかける。

 だがその言葉も今の叶ちゃんに聞こえているかどうかは不明で、ただ極寒の最中で震えるかのようにおびえる彼女を慰めてやれないのだけがもどかしかった。


「皆聞いてくれ! ソイツだ! その女が原因なんだ!」


 どうするべきか。

 不思議なことに、危機感は覚えているものの、恐怖は何もなかった。

 僕が今までに出会ってきた超常の存在が、この程度の恐怖などものともしないような精神を育んでくれたのか、それとも僕の心もどこかで壊れてしまっているのか。

 同時に、遠くで何かが聞こえた。

 嘶きだ。人をどこまでも憎しみ、そのあらん限りの憎悪をぶつけようとする人外の嘶き。

 馬面に気付かれた。


「ひっ! 来た! やっぱりだ! やっぱりこいつらが呼び出したんだ! こいつが元凶だ! こ、殺すぞ! そうすれば助かるかもしれない!」


 僕らを囲む生徒たちに緊張が走る。

 彼らの持つ手製の武器が掲げられた。

 言いがかりも甚だしい言葉だった。

 これだけ人が集まって騒がしくしていれば馬面が嗅ぎつけるのは必然で、少し考えればその理屈も分かりそうであったが、今の彼らにそれを理解するのは難しいだろう。

 狂っているのだ。

 頭のてっぺんから、つま先まで。

 もはや数えるのも馬鹿らしいほどのループの果て、人は正常な精神を保つ事ができなくなっている。

 むしろこの様に会話らしきものができていること自体が奇跡で、本当ならば会話もままならぬほどだろう。

 口々に何かを言っているが、すでに精神が崩壊した彼らではお互い意思の疎通が難しいらしく、ただ言葉にならない喃語めいた言葉で不快な歌を歌うだけだ。

 だが、坂上先輩の言葉の意図だけはなんとか伝わったようで、こちらに敵意を向けてくる。

 彼らは自分の心を守るために狂って、そして自らの世界に閉じこもっている。


 向けられた敵意は、もはや何階になったか分からない校舎の窓から跳躍し一気に中庭まで飛び降りてきた馬面によってかき乱された。

 数はきっちり六人……いや、六匹といった方がよいだろうか?

 ただ、幾度も繰り返された暴力的な饗宴がまた始まろうとしていた。


 嘶きと暴力、叫び声と人が殴打される音。

 暴力が音となって耳に入り込むと同時に、瞳は今まで僕らを囲んでいた人垣にほころびが生じたことを逃さず捉えていた。

 統率された集団ではなく、ただ声の大きな人物の言葉に群がってきただけだったのが幸いだったのだろう。

 もっとも、強固に統率された集団だったからといって、あの醜悪なバケモノに立ち向かえるとは思えなかったが。


「暁人くん、どうしよう?」

「叶ちゃん、静かに。このまま逃げるよ」

「う、うん……」


 幸いにも彼らの意識はここには向いていない。

 僕らを害しようと思ったのか、それぞれが手製の武器を持っているが、それでなんとか馬面を撃退しようと意味のない奮戦を始めている。

 その隙に僕らはこっそりとこの場から去ろうとする。


「追いかけろ! 逃がすな!」


 背後から声が上がった、途端に狂気じみた声があがり、多くの人の気配が迫ってくる。

 だが入りくねった校舎の構造はすでに建物という存在が持つ意味を放棄するかのように惨雑としており、随所から飛び出す様々な突起物が、走ることはおろか、早歩きすら困難にしている。

 僕ら二人でもこの有様なのだ。

 互いへの配慮など一切ない多数の人間が一気に動こうとするとどうなるかは火を見るより明らかで、少なくとも僕らが逃げる程度の時間は稼いでくれた。


 ◆


 もしかしたら、僕らの物語はこの因縁の場所を起点としているのかもしれない。

 沢山の事がここで起きた。

 叶ちゃんと一緒に世界から逃避したのもここだし、叶ちゃんが悲しい思いをしたのもここだった。

 数々の思い出が走馬燈のように駆け巡り、ただ何を語るでもなく頭の中を流れていく。


 眼前にはこの凄惨な状況など感じさせないほどに澄み渡った青空。

 吹き抜ける風に、小鳥の鳴き声。照りつける太陽。

 学校の変異などみじんも感じさせないような、記憶に残るありし日の学び舎。

 僕らは、手をつないだままに屋上の真ん中で立ちすくんでいた。


「いつのまに……そんな、行き止まりだって言うのに」


 現実めいたその光景は一時僕の心を浄化してくれるが、少しばかり落ち着いた気持ちとは裏腹に状況は芳しくない。

 逃げ場のないこの場所は一種の袋小路だ。

 振り返り校舎に戻る扉を見やるが、おそらくあの場所から他の逃げ道を探す余裕は存在していないだろう。

 一つだけ逃げ場があるとすれば、あの大空へ飛び立つかのようにフェンスを乗り越えて重力に身を任す事だが……。

 だとしてもこの狂ったループからまでは逃げることができない。

 また同じ事の繰り返しだろう。

 それに、僕はもう逃げることなんてしたくなかった。

 隣で震える大切な人の為に。


「僕が叶ちゃんを守ってみせる。絶対にだ。あの時果たせなかった約束を、もう一度だけ果たすチャンスを欲しい」

「暁人くん……」


 エンディングがやってくる。

 決定的な終わりが、二度と元に戻せない、終わりが。


 ――ゴーン、ゴーン。


 もしかしたら最後になるかもしれない二人きりの時間。

 まるでその時間を祝福するかのように、あざ笑うかの様に、久しく聞いていなかった鐘の音が鳴り響く。

 なぜかそれはいつものようにすぐにやむことはなく、まるで今が終わりの時であるとばかりに繰り返し、繰り返し鳴り続けている。

 どこか荘厳な印象があるはずのその音が今だけは煩わしく、僕の焦燥感をより募らせる一因となっていた。


「くそっ、さっきからうるさい! そういうのはどこかの結婚式でやってくれ!」

「……大丈夫だよ、暁人くん。私、答えが分かっちゃったんだ」

「え?」


 叶ちゃんの言葉は突然だった。

 彼女はこちらをじぃっと見つめ、その空っぽの瞳の中に意思の光をともして小さく頷く。

 真剣な表情から、先ほどの言葉が嘘ではないことを悟り、僕はごくりと生唾を飲む。

 答えとは果たしてどのような事なのだろうか?

 この絶望しか残されていないような物語に、果たして『幸福論』が望むハッピーエンドなど残されているのだろうか。

 僕の不安はきっと表情に出ていたのだろう。

 叶ちゃんはその不安を優しくぬぐい去るように微笑むと、おずおずと僕の手を取りながら言葉を紡ぐ。


「きっとね、そういうことだったんだね。私もあっけにとられちゃったけど、こんな簡単な事だったんだ……」


 どういう意味かは分からないが、彼女がこの状況を打開する閃きを得たらしいことは分かった。

 それが何なのか? 僕が問いかける間もなく、逆に叶ちゃんから質問が投げかけられる。


「ねぇ暁人くん、どうして暁人くんは私を助けてくれるの?」

「それは叶ちゃんが幼馴染みだから……」


 僕が叶ちゃんを助ける理由は、彼女が僕にとっての幼なじみだから。

 いや違う、そうじゃない。僕が彼女を助けるのは、本当は……。


「その言葉はそれで嬉しいけど、今はその、違う言葉が欲しいな。私の勘違いや、浮かれた思い過ごしじゃなかったら……」


「え……?」


「私だって女の子なんだよ。幼馴染みだけど、ずっとずっと、暁人くんを想っていて……だから、あの時の言葉、もう一度聞かせてほしいよ」


 叶ちゃんへと思いを伝える。

 もう二度と彼女を離さない、離したくないという気持ちは僕の嘘偽りのない思いだ。

 彼女に酷い事をしてしまったその罪悪感から来るものだとしても、僕は彼女と過ごしたあの日々を否定する事などできない。

 だから、告げる。

 彼女への想いを、どんな時でも、いや、こんな時だからこそ。

 それが――――だったとしても。


「叶ちゃん、僕は君が好きだ」

「嬉しい、暁人くん。これですべて終わるんだよ。私、思い至ったんだ。これは女の子の物語なの、恋する子が、いろんな障害を乗り越えて、好きな男の子に告白してもらって、そうして返事をする。恋の物語」


 そこで初めて気付いた。

『幸福論』の目的を、そして叶ちゃんがしようとしている事を。

 それは小さな女の子がいつしか見た光景。その憧れが形を持ったものだとしたら、きっとその目的は望む物語の結末を見る事。

 すなわちハッピーエンドで終わる幸せな結末。

 癇癪を起こしたような今までの行動は、望む結末が起きなかったが故の結果。

 繰り返される時間は、納得する結末を迎えるための手段。

 悪夢『幸福論』は子供だ。

 現実なんて見ようともせず、そして見る必要もない。

 夢の様な物語が現実に起こると心から信じて疑わない。そんな幼い偽りの魂。


 ならば物語のハッピーエンドなんて、だいたい決まっているじゃないか。特に小さな女の子が好むものなんて。

 ――二人は幸せに暮らしました。めでたしめでたし。

 想い合う男女が告白をし、お互いの想いを確かめ、そして幸福のまま終わりを迎える。

 それが、答え。

 ありきたりで、簡単で、陳腐で、けど誰も叶えられなかった。

『幸福論』が望んだ終わり。


「もう大丈夫だよ。これで、きっとこれでハッピーエンドになるんだ。そうすれば『幸福論』は満足してこの世界が、物語が終わりを迎える。皆無事に帰れるんだよ」


 そんな、そんな事だったのか。

 僕の胸中を呆れにも似た感情が支配する。

 同時に、決して気づいてはならない致命的な間違いに気づいてしまった。


「だから、その、私の気持ち、聞いて下さい」


 まて、まてまてまてまてまてまてまて――――

 僕の胸中を言いがたい焦燥感が襲う。

 まさか、だとしたら。

 焦燥感ははっきりとした危機感となり、もはや五月蠅いくらいに警告を鳴らし続けている。

 だとしたらだめだ。

 だとしたら本当にだめだ。

 何度も口を開き、彼女の言葉を止めようとした。だがなんと言えばいいのだだろうか?

 彼女になんと言えば説明できるのだろうか?

 その言葉は決して口にしてはいけないことを、彼女の考えは致命的に間違っていることを。

 その言葉を口にすれば、決定的な終わりが来てしまうことを。

 だって、だって……


「私は暁人くんが、大好き。この想いは本物。誰よりも、何よりも暁人くんのことを想ってる! 私は、暁人くんを愛してます!――」


 君は、叶ちゃんは……。


「これで、ハッピーエンドだね、あーく――」



 もう、死んでいるじゃないか。



 ――イヤアアアアアアアアアアアアア!!!!


 絶叫が世界を満たした。

 まるで何か取り返しのつかない、致死的な間違いが発生したかのような。

 聞いているこちらですら痛みを感じるほどの絶叫だった。

 それが『幸福論』が発した断末魔だと理解するより早く、

 ――世界は崩壊を開始した。


「うわっ!」

「きゃっ!!」


 地震が起こったかの様な揺れが発生し、たたらを踏む。

 立ってられないほどの振動の中、あらゆるものが歪に崩壊していくのが見て取れた。


「なんで!? 私言ったのに! 私ちゃんと言ったよ!告白した! 世界で一番好きな人に、告白した! どうして間違っていたの? でもちゃんと、私は……」


 叶ちゃんが混乱気味に叫ぶ、僕はその結末だけは決して迎えまいと声をかけたが……。

 それより早く僕の目を見た叶ちゃんは、「あっ……」とだけ小さな声を上げた。


 悟られてしまった。

 僕はどうしようもない愚か者だ。

 どうしようもない罪人だ。


 人間じゃないから、狂った。

 ずっと望んだ結果だけを求めてきていたのに、終わりにあったのは全く違う結末。

 そう、ハッピーエンドは人間に用意されたもの。

 男の子と、女の子の物語。


 死んだ人間が、バケモノが、幸せになれるわけない。

 だから、だから全部失敗した。


 がらんどうの瞳が僕をとらえる。

 がらんどうの瞳が僕に問いかける。

 がらんどうの瞳が、僕を映した虚無の海が、全てを悟り……。


 叶ちゃんは一言「そっか……」とだけ呟いた。

 ああ、僕は何度過ちを繰り返せばいいのだろうか?

 だがどうすればよかったんだ。

 ただ二人で静かに暮らしたかっただけなのに、どうしてそれすらも許してくれなかったのだ。

 このまま何も知らぬふりをして、幸せなまま元の世界に戻ってもよかっただろうに……。

 なぜ、世界はこんなにも僕らに辛く当たるのだろうか……。


「そうだよね。そんな都合のいいこと、ないよね」


 僕は何も言えない。

 何も言葉を発する事ができない。

 自分の言葉が彼女をより傷つけてしまうんじゃないかと、そんな臆病な考えに支配されていたから。

 震えるだけで、瞳に涙を浮かべ、ただ漏れそうになる嗚咽を押さえ込むだけで、何もできないのだ。


「もう、死んでいるのに。自分が人間だなんて思っちゃったんだ」


 叶ちゃんは蕩々と語る。

 それは僕に言い聞かせると言うよりも、まるで自分自身に語るかの様だった。


「ずっと不思議だったんだ。なんで生きているんだろうって。なんで死んでいないんだろうって。あれからいろいろ試したんだけど、ずっと疑問は続いたままで、自分の事なのに全然分からなくて」


 終わりがやってくる。

 全ての終わりがやってくる。

 この世界だけではない。

 僕と、僕の大切な幼なじみの関係に、決して元に戻らないような、決して元に戻せないような、致命的な終わりがやってくる。


「だから、大丈夫だったんだって思ったんだ。何か悪い夢だったんだって、きっと私の知らないところで全部がうまくく解決したんだって思っていたんだ。……きっと違うって、違うって思っていたんだけど」



 こうして、誰一人幸せになることなく、


「私は――バケモノなんだね」


 物語は決定的にバッドエンドを迎えた。



「バケモノは、人間と幸せになったら、おかしいもんね……」


 つらつらと涙が流されていく。

 握られていた手が離された。

 先ほどまであった温もりが急速に消え、僕が必死に求めたものが同時に消えていくような、魂さえ冷え切るような喪失感に襲われる。


「嘘つき。暁人くんの嘘つき」

「叶ちゃん、僕は……」


 刹那、ゾワリと背筋に冷たいものが走った。

 まるでスイッチが切り替わったかのように、彼女が持つ別の側面が急速にその内から湧きだしてきているような錯覚を覚える。

 否、事実叶ちゃんの声が揺れ、どこか非現実的な音階がその背後にまとわりついている。


「「なんで、なんで期待させるようなこと言ったの?」」


「ごめん」


「「守ってくれるって言ったのに。ずっと一緒になれるって思ったのに、頑張ってきたのに、どうしてこんな事になっちゃうの? 私たちが、なにをしたって言うの?」」


「ごめん」


 僕はただ謝ることしかできない。

 死んでしまった彼女に、彼女の形をしたバケモノに、愚かさによって失ってしまった未来に。

 僕はその全てに向け、ただただ謝罪の言葉を述べた。


「いたぞ! 女を殺せ! 女を殺せばこの世界から抜け出せる」


 坂上先輩達がやってきた。

 ああ、なんて都合の悪い。でも、もういいや。もうつかれた。

 彼らが来たところでもう全て終わりだという感覚しか僕にはない。

 集団の先頭が叶ちゃんに殺到するが、失意によって止まった僕の足はまるで石にでもなったかのように動かない。


「殺せ!」

「「じゃま」」


 掴みかかられた男性をふりほどくような仕草、まるで集まる羽虫を追い払うような仕草で。

 彼女の周りにいた数人が無残な肉片へと姿を変える。

 全て終わってしまったんだ。

 これは終わった後の話。

 だからこの結果も、自然と受け入れる僕がいた。


「私と暁人くんがお話しているの」


 ぼとぼとと、勢いよく頭上にまき散らされた肉片がコンクリートの床へと落ちる。

 本来なら動かぬはずのそれは、地面に落ちるやいなやビチビチと脈動を初め、まるで意志を持っているかのように集まり一つの塊――オブジェへと形を変えた。

 あたりはシンと静まりかえっている。

 誰も彼もが彼女が行った異常な行為を目の当たりにし、どう表現してよいのか分からない恐怖を感じているのだ。

 馬面の様なある種において理解できる暴力ではない。

 もっと悍ましい、人が抵抗することを考えることすら放棄するような、圧倒的な異常がそこにはあった。

 時間にして数秒だったかもしれない。

 空白の時は叶ちゃんを困惑させるのに十分なもので、訝しげな表情を見せた彼女は背後を振り返り、ようやく自らが行った惨状を目にする。


「は? ………死んだの?」


 彼女の言葉通り、名も知らぬその生徒達は死んでいた。

 人間数人分で作り上げられたオブジェクトとなりはてて、ビクリビクリと痙攣しながら。

 バケツをひっくり返したかのようにまき散らされた血は、むせかえる様な生臭さを運び、周りの生徒は何が起こったのか理解することすら出来ていない。


「うそ、ちょっと押しただけじゃん。そんな、ちょっとだけ。ねぇ」


 ふらりと手を上げて、集まった人垣に差し向ける。

 途端に骨と肉がへしゃげる音が鳴り、幾人の生徒がみるみる内に同質量の肉団子へと変質していった。


「「「ひっ!」」」


 生徒達から漏れる畏怖の声音を気にもとめず、ただ唖然とした表情で自らの手のひらを眺める叶ちゃん。

 彼女は僕が知る彼女のどんな姿ともほど遠く、まるで次元の彼方からやってきたかのような異質な空気を放っている。

 事実その瞳は何も映していなく、周りの生徒はおろか僕にすら興味をなくしているようだった。

 いや、はじめから、本当に最初から。

 彼女は僕なんか見ていなかったのかもしれない。

 僕が彼女と話をしていると思い込んでいるだけで、そこには何もなかったのかもしれない。

 ふと、そんな事を思った。


「「ふふふ、あはは……アハハハハハハ!」」


 バクリと、彼女の額が割れ、叶ちゃんが人間であることを否定する現実の理を外れた液体がドロドロと流れ出してきた。

 まるで今まで見てきた彼女が、笑顔が眩しく心優しい彼女が全て嘘だとでも言わんばかりに、その中身が露わになる。


「「そっか、そうだよね! バケモノだもんね! 意味も価値もない、空っぽの人形だもんね!」」


 びしゃり、びしゃり。

 全てが割れる。生徒も、世界も、そして今まで築き上げてきた何もかも。

 世界は相変わらず崩壊を続けている。

 狂った嗤いは、全ての終焉を予感させるに十分なものだ。


「アハはハは! 簡単だ! こんなに簡単に殺せるんだ!

死んでる! 沢山死んでる! 殺したんだ! 私が殺してるんだ!!

ねぇ見て暁人くん! 私こんなになっちゃった! 私、こんなことになっちゃったよ!」


 大きく手を広げ、人が死ぬ。

 彼女が嗤い、人が死ぬ。

 その一人一人に人生が、感情が、想いがあるはずなのに、そんなの価値がないとばかりに全部等しく肉塊へと変貌を遂げていく。

 己の死を理解する暇も与えられないほどに、彼らは無力であり、その行為は無慈悲だった。


「「もう戻れないんだ! もうあの楽しかった頃には戻れないんだ! あはハははは!」」


 名も知らぬ女生徒の頭が爆ぜた。

 逃げ惑う男子生徒の身体が千切れた。

 勇敢にも鉄パイプを振りかざした生徒がすりつぶされた。


 その全てが叶ちゃんの意思とは別の力によって行われているようであり、同時に彼女自身の強い想いによって叶えられているようにも感じられた。


「「もう嫌だ! もうなにもかも嫌だ! 私が何をしたっていうの!? なんで私がこんな目にあっているの!?」」


 叫びは果たして彼女のものか、それとも彼女を模したバケモノのものか。

 ただそこにあるのは確かに叶ちゃんの残り香で、だからこそ僕はこの現実を受け入れなければならない。


「死にたくなかった! 生きたかった! 殺されたくなかった!」


 響き渡る慟哭を掻き消すかのように、生徒たちの絶叫が響き渡り、壊れた笑いが世界を満たす。


「あはは! あはははは!」


「嫌だ、嫌だ、嫌だ! なにもかも嫌い! 何もかも死んでしまえばいい! こんなの嘘だ! こんなの現実じゃない! こんなの、こんなの――」



「悪い、夢だ……」


 シンとした、不気味なほどの静寂の中。

 大切なものを無くした少女のように泣く彼女の言葉を聞くものは……。

 もはや僕しかいなかった。


 夢衣は言った。もし魂というものが存在するなら、叶ちゃんは永遠に悪夢に囚われたままになってしまうと。

 バケモノと叶ちゃんの魂が混ざり合い、考えることも悍ましい、地獄すら生ぬるい場所へと引きずりこまれてしまう。

 人の存在を認識していないバケモノ、人を害することに何の意識も持たない虚無の存在〈悪夢〉。

 そして僕の大切な幼なじみ。ずっとずっと一緒だった、かけがえのない人。

 もし魂が存在するのなら、彼女の絶望と苦しみはいかほどのものだろうか?


 全て僕がやったことだ。

 全て全て、僕がやってしまったことだ。

 ずっとずっと、人には魂が存在すると信じてきた。

 想いや願い、人の生きた証は魂に宿ると信じてきた。

 魂が存在するから人は死者に敬意を持ち、そして死したる者の為に生きていけるのだと、そう信じていた。


 だがこのときばかりは、僕は人に魂など存在しないで欲しいと心から願っていた。


「なんで? バケモノなのに、私はバケモノなのに、どうしてこんなにも悲しいの。ああ、心が、痛いよぅ……」



 血と臓物と、そして死しかない場所で、叶ちゃんはうずくまっている。

 あたりにはかつて生徒だったものの残骸がこれでもかとあふれ、この惨状を作り上げた本人は全身を赤く染め上げながらその中心でただ涙を流している。


 彼女のために何かしなくてはという気持ちと、だが僕にそんな資格があるはずないだろうという気持ちがせめぎ合う。

 僕はただ、地獄のような光景を眺めていることしかできない。


 すでにこの世界は原形をとどめていない。

 僕がまだこの世界で生を保っているのも、目の前で小さく泣き崩れる叶ちゃんが自分の世界を作り出してくれているからだ。

 この血と骨と臓物でできた芸術作品の世界で、僕は生きながらえている。

 何もできなかった、何もしてやれなかった情けない僕を、彼女はまだ助けようとしてくれているのだ。

 今はただ、あの肉片になって全てから解放された生徒たちが、少しだけうらやましいと思った。


 こうして、僕らは幸せな結末など迎えることなく……。

 物語は終わりを告げた。

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