第161話 君のそばにいたいから
……愛している……愛しているから……お前を失いたくない。ずっと俺の隣にいて、俺を支えて欲しい……八卦の力などなくとも、お前がここにいてくれるだけで。俺は、それだけで、いい……だから……
その意志に反して次々に溢れ出る記憶が、あの時、強引に交わされた口づけの熱さと、体を押し包んだ熱い空気の感覚を呼び覚まし、鴉紗の心をかき乱す。
「……勝手なことを言うな。私は八卦師なのだぞ……」
うわ言のように、あの時と同じ言葉を繰り返す。力あればこその八卦師なのに。
私は、その力で、お前の役に立ちたかった。並んで、大地を駆けていくことが嬉しかった。難しい顔をしているお前を、天を見上げ、最良の道を示すことで、笑顔に出来るのが嬉しかった。そう、ただそんな事が、嬉しくて、幸せだったから。それだけが私の望みだった。
それなのに、今更。その力を不要だと……
……好きだったんだよね?……
もう一人の自分が言う声がした。
好き……そう、好きだった。
頼られることが嬉しくて。
傍にいることが楽しくて、仕方がなかった。
ずっと傍にいて、ずっと燎牙の片腕でいるのだと思っていた。
それなのに……。
……ああ、そうか……
「……最初に裏切ったのは、私だ」
奏として、白星王に選ばれたのだと知って、自分はそんな気持ちを忘れてしまったのだ。嬉しさに舞い上がって、何も見えなくなっていた。そして、自分がこんなに嬉しいのだから、燎牙も当然喜んでくれるものだと。そう思っていた。
だって私達は、いつもこんなにそばにいて、どんなに辛い時も、どんなに悲しい時も、共に困難を乗り越えて来た仲間だったのだ。言いたいことを何でも言い合える仲で。 互いに、その思いは同じだと思っていたから。だが、そうではなかった。私はそれに失望して……その失望があまりに大きくて、気付くことができなかった。
……私は、お前の思いに気付くことが、できなかった……
多分、皇帝になるよりもずっと前から、燎牙はその思いを抱き続けていた。それでも、自分の思いを通せば、私が八卦師としての力を失うことを知っていたから。 何事も無いような顔をして、それを押し殺していたのだ。その思いをずっと……。
そばに居られれば、それだけで良かった。あいつはきっと、本心からそう思っていた筈なのに。そういう奴なのだと、誰よりもこの私が分かっていた筈だったのに……。
……私はそんなおまえの思いを、分かろうとしなかった……ただ、失ったものばかりを嘆いて、本当に大切なことに気が付かなかった……
「……愛されていたのに。気付くことができなかった」
目の前の月光姫の顔が滲んだ。鴉紗の手が力なく、ぱたりと落ちた。
「こんなに……好きだったのに……愛していたのに……私は……取り返しの付かないことを……」
次々に脳裏に押し寄せる思い出は皆、柔らかな光に包まれて、その中で彼はいつも、こちらに優しい笑顔を向けていた。
……こんなにも愛されていたのに……
鴉紗の口から嗚咽が漏れ、やがてそれは、その思いの丈を吐き出す様に、号泣へと変わって行った。
……大丈夫……
その哀しみを癒すような柔らかい声が……もう一人の自分の声が言った。
……あなたは、気付いたんだもの。だから、もう、大丈夫……
「……でも、私は……」
……『私は』ちゃんと、好きって……ううん、大好きって、言えたから。だから、大丈夫……
「え……」
……そう、あの人もまた、別の生を生きて、私達のそばにいてくれた。そして変わらずに、ずっと愛してくれていたんだもの……
鴉紗が顔を上げて、藍星王を見た。
同じように華梨の声を聞き、鴉紗に問う様な視線を向けられた藍星王の顔にも、困惑の色が浮かぶ。
「まさか、周翼は……」
それを行ったであろう冥王に確認するように問う。
「そうだったのか……李燎牙の生まれ変わりだったのだと……」
「……ああ、そうだ。死者の魂を扱うのは、冥府の王の権限だからな。黄星王の罪を償う為には、どうしても鴉紗の魂を浄化しなければならなかった。 感情の行き違いがあったとはいえ、元々は、相思相愛だったのだ。私は、二人の魂をもう一度出会わせてやることが、互いのわだかまりを解消させる、最も有効な方法だと考えただけだ。 もっとも、それも思うようにはいかなかったが」
最初は上手く行く様に思われたその計らいも、周翼が八卦と出会い、その修行にのめり込んでしまったことで、華梨から離れて行くことになった。その読みは裏目に出た訳だ。
かつての李燎牙と同じく、周翼にも覇王の資質があった故に、八卦という力を得たことで、混沌とした世を何とかしたいという思いに囚われた。 だが、彼がその道を行けば、華梨と結ばれる事はなく、その魂は完全に浄化できないということになる。それどころか、華梨に絶望を与え、その魂に傷を付けることにもなりかねなかった。
……それが、周翼が命を落とした本当の理由か……
周翼を覇王の候補から外す為に。冥王は、その魂を一度、冥府に召喚した。華梨の為に。そして、鴉紗の為に。そして、とりも直さず、それは……。
「訳もなく好き勝手にやっていた訳でもないのだな……それも又、黄星王の為にか。全く、呆れる」
「当然だろう。それは私が償うべきものでもあるのだからな」
……こいつら……
傍で見ていて馬鹿馬鹿しくなる程に、想い合っている。それで振り回される方は、全くたまったものではない。
「……黒星王」
その真意を知り、月光姫は言葉を失った。
自分の失態は、自分にしか償うことが出来ない。だから頑なに、一人で何とかしようと足掻いて来た。 差し伸べられる救いの手を取るべきではないと、拒み続けて来た。それなのに彼は、それでも常に、そんな自分の側に寄り添おうとしてくれていたのだ。
「そなたがどう思っていようと、私の想いは変わらない……そう申したであろう」
冥王が月光姫の側に寄り添い、改めてその身をしっかりと抱き締めた。彼女がその温もりを拒む理由は、もうなかった。
「華梨……」
藍星王がその名を呼んだ。
その瞬間、鴉紗は自身の中で、周翼への想いが膨れ上がるのを感じた。
……好き……あなたが好き……大好き……周翼……
その思いは、それに戸惑う鴉紗の心と混ざり合っていく。
……コレガ、ワタシノ、キモチ……
……好き……あなたが好き……大好き……燎牙……
それが、間違いなく自分の本心なのだと、鴉紗はそう悟った。
そんな彼女に、藍星王が語り掛ける。
「……かつて、私が周翼を冥府に迎えに行った時のことだ」
冥王の意に逆らい、定めの輪を外れ、仮初めとは言え、再び生を得る。それは、決して平坦な道ではない。課せられる使命も、想像を絶する程に重いものになる。
「それでも、お前は地上に戻りたいか?……と、私はそう訊いた」
……生きたいです……俺は。まだ生きられるのなら。生きたい……華梨のそばにいたいから……
周翼の声が、その耳にはっきりと届いた。
「……ああ」
こんなにも自分は、愛されていた。その瞳に浮かんだのは間違いなく、喜びの涙だった。複雑な運命に翻弄されてなお、その思いは消えることはなかった。そして今、ようやく彼女の元に届いたその思いは、間違いなく、固く閉ざされていた心に光を差しかけたのだ。
その体が、鮮やかな瑠璃色の光に包まれていく。
その光の中で、重たかった心がどんどん軽くなっていく。
……これでやっと、終わらせることが出来る……
そんな安心感に満たされて、彼女の顔はいつしか穏やかな微笑みを湛えていた。
かつて自分が心奪われた、美しい瑠璃色の光を放つ宝玉が、そこにあった。
蒼星王は、目の前で起こった奇跡に感慨深い思いを抱きながら、その玉をそっと拾い上げた。
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