第147話 女神のたなごころ

 夜更けに、周藍は杜陽の天幕を訪れた。

 杜陽はひとり酒を飲んでおり、丁度話し相手が欲しかった様で、顔を見せた周藍を、上機嫌で迎えた。 しばらくは、互いに酒を酌み交わし、他愛もない昔話などしながら、時を過ごした。そうして、場が和んだ所で、やがて周藍が話を切り出した。


「杜陽、奏に星を読ませてやっては貰えないか」

「奏に?星読みを?今更そんなものが必要ですか?」

 万全の態勢で臨む戦だ。言ってしまえば、負け様のない戦である。

「天の星を読み、物事の先触れを知るということは、大切なことだ。この世に、絶対などというものはない。絶対的な存在であった帝国でさえ滅んだのだぞ」

「それでは伺いますが、周藍様には、一体どんな未来が見えているというのですか?」

「私には何も」

 そう答えて周藍は頭を振った。

「……何も?」

 怪訝そうに自分を見る杜陽に、自嘲めいた笑みを浮かべて、周藍は答える。

「私にはもう、八卦を扱う力はないのだ。だから、未来の事は分からない。ただ、今、天空でお前の守護星である天闇星に、天暮の蝕が現れている。その星見の結果だけで考えれば、このまま兵を進めるのは不吉だということになる」

「は……何をおっしゃるのかと思えば……」

 杜陽は少し苛立ったように、杯をあおった。

「ここまで来て、引き返せと?そのような些細な事を根拠に、国家の大事業を中止せよと言われる?」

「それ故、奏に星を、と言っている。奏ならば、精緻に未来を見通すことが出来る。お前を正しき方へ導くことが出来るだろう」

 真摯な目を向ける周藍を、杜陽はしばらく押し黙ったまま見据えていた。

 そして……



「……成程、奏の言うことならば、こやつは聞くか。考えたものだな」

 不意に、天幕に赤星王の声が響いた。それと共に、杜陽の瞳は深紅の色に染まっていた。

「……赤星王様」

 周藍はその威圧感に気圧されながら、その場に頭を垂れて畏まる。

「湖水が奏を送り込んで来たは、杜陽を手懐けて、その意のままに操る為か?」

「その様なこと、滅相もなく」

「そなたも、今やあやつらの駒の一つ。その思惑など知らされてはおらぬのだろう。哀れなものじゃわ」

「……私はただ、必要のない戦によって、無駄に国を、民を疲弊させるべきではないと」

「必要のない戦と申すか?」

「はい。あなた様が望むのであれば、今すぐにでも詔をお渡しする用意は出来ているのです。戦などせずとも……」

 周藍の言い分を、赤星王の嘲るような笑い声が遮った。


「これは、杜陽が覇王となる為には、いずれ、避けられぬ争いなのじゃ……こ奴は、自分と同じ力を持つ者が、この地上にいることが我慢ならないのだからな」

「あなたは、戦がなさりたいだけなのでしょう」

 そう言った周藍を、赤星王は哂う。

「誰が見ても明瞭な圧倒的な勝利。覇王となるには、それが不可欠なのだと言っている。裏でこそこそとお膳立てを整えて、擁立された王など、所詮、ただの王。覇王とは違う」

 赤星王の気に僅かに怒りの気配が混じり、周藍に更に大きな威圧感が圧し掛かった。

「それに、数百年もの間、戦に明け暮れ、人々の怨嗟が積み重ねられた結果、今やこの地上は瘴気に覆い尽くされている。それをきれいに祓い清める為には、それなりの犠牲が必要だ。違うか?分からぬとは言わせぬぞ。お前たち八卦師が、天の摂理に逆らい、星を動かし歪めた大地の理。それを元に戻す事こそが、我らの使命なのではないのか。今更、きれい事を申すな」

「……天に天暮があるのです。冥府の王の気配が……圧倒的な勝利どころか、このままでは、杜陽は全てを失いかねません」

「笑止。我を誰だと思っておる。我の邪魔をするというのなら、冥王とて、紅炎の餌食じゃ」

 その言葉と共に、熱気を帯びた空気が、嬲る様に周藍を押し包んだ。周藍は息苦しさに、浅い呼吸を数度繰り返す。

……やはり聞く耳を持っては頂けぬか……

 頭を垂れたまま、周藍は絶望的な思いに苛まれて唇を噛む。



 先刻、劉朋に連れられてやってきた猩葉の傷痕を見た。そこに刻まれていたのは、あろうことか冥王の刻印だった。その傷を負った状況を鑑みれば、猩葉の体には、恐らく九星王剣が封じられている。黒鶯が、自信満々に赤星王のことは、こちらに任せろと言ったのも、その存在ありきなのだと察しがついた。

 恐らく、劉飛自身が、その剣を使い、赤星王を封じる。そういう筋書きなのだろう。一番あって欲しくない方向へ、事態が流されていく……それをどうすれば止められるのか。


 ふと、赤星王の威圧感が緩んだ。周藍がそっと顔を上げると、目の前の杜陽は、酒に酔い潰れて寝入っていた。周藍は立ちあがって、杜陽の寝顔を見下し、心にまた、同じ問いを繰り返す。

……どうすれば止められるのか。

 幾度も幾度も。繰り返し繰り返し。 だが、赤星王の気に当てられて、疲れ切った頭には、何の妙案も浮かんでこなかった。やがて周藍は諦めた様に深いため息を落とすと、重たい体を引き摺るようにして、天幕を出て行った。





 杜陽が目を覚ますと、すでに周藍の姿はなかった。酒を飲みながら、いつの間にか寝入ってしまったのかと思う。

 蝋燭の炎は僅かに残った蝋を舐めつくし、丁度消えようとしている所だった。新しい蝋燭を手に取り、そこに火を移そうとして、杜陽はふと手を止めた。その小さな炎が消え行く様に、何となく気を引かれて、それをぼんやりと眺める。普段は気にもしない炎の存在が、しかし、それが次第に小さくなっていく様は、その先にある消失という定めの儚さ故か、実に美しく愛おしく感じられた。

 やがて、じゅっという軽い音を伴って、蝋燭の火は消えた。天幕がたちまち闇に支配され、蝋の匂いが辺りに立ち込める。杜陽は手にしていた蝋燭を傍らに投げ捨てると、立ち上がって天幕の外に出た。



 蝋燭が燃え尽きた頃合いを考えれば、もう夜半過ぎだろう。兵達もすでに寝静まっていた。 見張りの兵が数人、篝火の側に立っている他は、起きている者はいないようだった。ふと思い立ち、杜陽は湖岸の方へ足を向けた。


 篝火の光の届く所より先は、闇の支配する世界である。

 ただ闇と、天の星が支配する静寂の世界。

 そこは果たして、神と人との境界が曖昧になる狭間の世界なのか。いつしか深紅の光が杜陽の体を包み込み、すぐ傍に、これまでに感じたことのない大きな存在を感じた。


……これが赤星王か……


 我が身に宿る、烈火の女神。杜陽は今、はっきりと、その存在を感じ取っていた。水が岸に寄せる音を頼りに、草を踏み分けて行く。……と、

「杜陽様」

 闇の中から、思いがけず声がした。



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