第135話 雪の衣

「……」

 朱凰が固まったままなのを見て、駛昂はサクサクと雪を踏む音を立てながら近づいて来た。そして、自分が纏っていた外套を脱ぐと、それを無造作に朱凰の肩に着せ掛けた。 そこに残っていた男の体温が、冷え切った彼女の体をほんのりと心地よい温かさで包み込む。


 その温もりが、朱凰の硬直していた体を溶かした。朱凰は、駛昂の存在を無視したまま、窓枠に片手で掴まって立つと、そのまま、ストンと庭に下りた。 片腕の利かない体で、上手く均衡が取れずによろめいた朱凰を、駛昂が咄嗟に支える。だが、それを鬱陶しげに払いのけると、朱凰はそのまま、駛昂に背を向けて雪の中を歩いて行く。


「おいっ、ちょっと待てよ」

 その呼びかけにも応じず、無言で雪を踏み分けて行く朱凰を、駛昂が慌てて追い掛ける。

「今日は又、一段とご機嫌が悪いんだな、璋家のお姫様は。お散歩ならば、お供いたしますよ」

 そう言って駛昂が朱凰と肩を並べると、朱凰の足が止まった。

「……るな」

 朱凰が、何事か小さな声で言った。

「お。やっと声が出たな。で?何だって?小さくて良く聞こえなかった……」

「付いて来るな、と言っている」

 今度ははっきりと、しかし、多分に苛立ちを含んだ声で朱凰が言った。

「相変わらず、つれないんだな」

 そう言いながら、駛昂が含み笑いをしている様子に、朱凰の中に猛烈な苛立ちが湧き上がる。

「お前のせいで台無しだっ」

「台無し?」

「折角の雪が、お前のせいで台無しだ。何故貴様は、こんな所にいる?」

「雪遊びすんだろ?なら、一人よか二人の方がいいんじゃないかなと……」

「馬鹿か。誰が雪遊びなどするか。私が聞いたのは、お前が何で西畔にいるのかという事だ」

「ああ、何だ。そっちね」

 駛昂が又、軽く笑う。朱凰が怒りに満ちた目で見ている前で、不意に駛昂が姿勢を正し、真面目な表情になった。あまり見慣れないその顔に、朱凰は思わず、その姿をまじまじと見上げる。


……こいつ、こんなに大きかったか……


 背丈、も、そうだが、以前の青年特有の線の細さが消えて、その佇まいは堂々とした大人の男のものになっていた。

砂宛さえんに国を作った。で、俺はそこの国主になった。砂宛には今、華煌京を焼け出された人々が続々と押し掛けている。 国が出来たばかりで、そんな人々を養うだけのものがうちには足りないから、こちらの広陵の国主様に、食料諸々、援助の依頼に来た」

「劉飛様に……」

「で、こっちに来たら、久しぶりにお前の顔が見たくなってな。広陵国主も多忙らしくて、面会に時間が掛かりそうだって言うから、こっちに寄ってみた訳だが」

「無様な姿を哂いに来たか」

「無様?」

「だってそうだろう。こんな姿で、満足に動く事も出来ないのだぞ……」

 そう言って食って掛かった朱凰を、何も言わずに駛昂の腕が引き寄せて、そのまま強く抱き締めた。


「何の真似だ。離せ」

 抗う朱凰に、しかし彼女を捕える駛昂の腕はびくとも動かない。以前の自分なら、こんな真似を許したりはしなかったのに。 自分はこんなにも、弱くなってしまったのか。悔しさに唇を噛んだ朱凰の耳に、普段の軽薄さなど微塵も感じさせない駛昂の静かな声が聞こえた。

「……無様だなんて、言うな。お前は、お前の大切なものを守り抜いたんだろう」

「……」

 言われた瞬間に、涙が溢れ出していた。そんな弱い自分を朱凰は又疎ましく思い、自らを卑下する様に身を竦める。

「でも、私にはもう、何も……」

「その傷の一つ一つを誇りに思え。騎馬の民じゃ、男も女もなく、体に刻まれた傷痕は名誉の証になるのだぞ」

「この体を誇りに……」

「もし、お前が、ここが窮屈なのであれば、砂宛に来ればいい。お前には、こんな場所よりも、広大な砂宛がお似合いだ。俺の所に、嫁に来い」

「ばっ……馬鹿を言うな。お前、今、どさくさに紛れて何を……」


 駛昂が朱凰の身を離した。そしてその両手を朱凰の肩に置いたまま、今度は朱凰の瞳を見据えて再び同じ事を言った。真剣な光を帯びたままの駛昂の瞳は、それが冗談では無い事を告げていた。

「……私がこんな体になって、同情したのか。以前の様な力も失い、弱り切っている所に、その様に……人の弱みに付け入る様な真似をするなど、お前、卑怯にも程があるぞ」

「卑怯は心外だな。強い女を口説き落とすのに、こちらは精一杯の虚勢を張っているというのに」

「強い?この私がか?すでにお前の腕を振り解く力もない、無力なこの私が?」

 朱凰が自嘲する様に哂ってみせる。

「お前は、以前と何も変わっていない。変わらずに、気高くて強い。弱くなどなってはいない」

「いい加減な事を言うな」

「本当の事だ。いいか?よく聞けよ。お前が弱くなったのではなく、この俺が強くなった。そういう事だ。お前は変わってない。何も。何ひとつだ……」


……何ひとつ……

 本当にそう信じていいのか。


「第一、この俺様を罵倒しようなんて女は、後にも先にも、お前だけだ」

「何だと?」

 自分を睨みつける朱凰の目が鋭い光を帯びたのを、駛昂は満足げに眺めている。そこへ、姿をくらました駛昂を、従者が探す声が聞こえた。

「俺も、国が落ち着くまでは何かと忙しい。その気になったら、砂宛に来い。お前ならば、何時でも歓迎する」

 そう言い残して、駛昂の姿は降り落ちる雪の向こうへと消えて行く。その背中を、朱凰は少し混乱した思いを抱きながら見送った。




 再び戻った静けさに、遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。駛昂は、何時でも直球の珠しか投げて来ない。何より遠慮がない。 投げかけられる珠を必死になって受け止めている内に、自分が何に悩んでいたのかすら、忘れてしまっていた。

「……それにしたって、嫁に来いはいきなり過ぎるだろう」

 そう呟いた朱凰は、その口元がいつしか緩んでいる事に気付いた。

……こんな私でもいいのか……

 降り落ちる雪に問うても、答えはない。だが、絶える事なく降り続く雪の中で、黒く淀んでいた心が白く染め直されて行く……そんな気がした。 大きく吐き出した息の白さに、朱凰はこの地に本格的な冬が到来した事を感じていた。

「…冬か」


……冬は、春を待つ仕度をすべき頃合いなれば……


 ふと、幼い頃に聞いた歌が頭に浮かんだ。昔、母が好きだった歌だと、茉那様が教えてくれたものだ。その続きは確か……


……君に嫁すべき雪の衣を織る。


 記憶の底から浮かび上がって来た一節に、朱凰は人知れず頬を染める。


……恋愛歌だったのか……


 あの頃は、意味も知らずに口ずさんでいた。

 そして今……その意味に気づいて、朱凰は改めて言葉を紡ぐ。


 雪の衣を纏いながら……そして君を思いながら。 繰り返し、繰り返し……

 そうするうちに、その身に絡みついて体を縛り上げていた絶望の糸が、少しずつほどけていく……そんな気がした。



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