第12話 冬の海

 それはめちゃくちゃ寒い冬で、一月も終わりの頃だった。その年も、いつもの年と同じようにとても寒く。吹き荒ぶビル風は、下手したら北海道よりも寒いんじゃないかと思うほどに僕の頬を切りつけた。

 今日の仕事は、路上での街頭アンケート。会社から支給された背中と左胸にロゴの入った借り物の薄っぺらなジャンパーに身を包み、ビュービューとビル風が荒れ狂う屋外に放り出された僕たちは、ガタガタと震える体を無理矢理押さえつけ、通り行く人たちを捉まえてはアンケートに協力してもらっていた。

 北海道の冬なんてまともに経験したことなどないけれど、本気で北海道並みに寒いと思えるくらいとにかく寒くて、できることならこのペラペラなジャンパーの上に自分の着てきたダウンを着込み、更にその上に別のダウンを重ね着したいほどの寒さだった。なんなら暖房器具を全開にして、周りを囲って欲しいくらいだ。

 なのにフミは、一日中そんなアンケートをし終え、憔悴しきって夜に訪ねて来た僕に、それはそれは恐ろしい提案をしてきた。

「ねぇ。海、観に行かない?」

 夜な夜な勝手に現れ、更に勝手に淹れたあったかいコーヒーでやっと体が温まった僕に向かって、フミは冗談ともつかぬそんな言葉を放った。

 余りの提案に僕は、フラットすぎるくらいフラットな音程で応えた。要するに、棒読みってやつだ。

「今、何月か知ってる?」

 フラットな言い方とは裏腹に、僕は眉根を寄せる。

 だって、こんな都会でも寒くてしんどい思いをしてきたというのに、冬の海になんか行ったら間違いなく凍死する。海は、夏に行くものだ。

 そんな僕の質問などは無視して、フミは出かける準備をし始めた。小さなバッグに財布やポーチを詰め、真っ白なダウンを着込み、手袋とマフラーを手にする。最後に愛車のキーを手に持つと、いまだ何の準備もせずにいる僕を振り返った。

「留守番してる?」

 少しだけ首をかしげて訊かれれば、なんだかちょっぴり寂しさを感じて、あんなに寒くて凍死すると思った外へ難なく繰り出そうとしてしまう。

 これが想いの力か。

「行く」

 短く応え、つい数十分前に脱いだ上着を僕はまた羽織った。

 マンションの目の前にある吹きっ晒しの駐車場で、フミが始動させた愛車の軽に乗り込む。車内はまだエアコンの効き初めで、外よりもましだけれど寒々と冷え切っている。

「さっむっ」

 上着のポッケに両手を突っ込み、僕は助手席で首を埋める。

「直ぐに、あったかくなるからね」

 小さな子供へ言うみたいにして、フミはエアコンの温度を最大限まで上げた。

 シートに埋もれるようにして座り、僕はフロントガラス越しに迫り来る景色に目をやる。

「ねぇ、何で海?」

 まだ暖まりきらない車内で、真剣に運転をしているフミにもごもごと訊ねる。

「冬の海に行きたくなったの」

「何も、こんな寒い中行くことないと思うけど」

 否定的な言葉ばかり投げつける僕にめげず、フミは観たいものは観たいんだ、と言うように軽のスピードを上げた。

 フミの運転は、のんびりとした口調やおっとりとした普段の動作からは想像できない運転だった。乱暴だとか、無謀だとか、そういった類のものではない。寧ろ、上手いドライバーの部類に入るだろう。唯一つ、彼女はスピード狂だった。

 現に高速を走っている今だって、軽だというのに隣を走る車は次々に後ろへ流れて行っている。

「出しすぎ」

 若干の恐怖を覚えて言ったわけだけど、平気よ、この辺は覆面もいないしオービスはもう少し先だからと難なくかわされる。

 そういう意味で出しすぎと窘めたんじゃないんだけど、鼻歌交じりでアクセルを踏み続けるフミは、きっと止められないだろうと諦める。

 軽だからまだそんな会話で済んでいるけれど、この車がもし三ナンバーだったとしたら、僕は強制的に運転を変っていた事だろう。

 例えばこのまま事故にあうなり、いるはずはないと思っていた覆面に捕まるなりして新聞に載ったら、フミなんてワイドショーのいい餌食になるだろうな。想像すると、事故とはいえ二人の名前や顔が新聞に載ることを考えれば皮肉な感情でほんの少しだけ片方の口角が上がった。なのに、紙面やワイドショーを飾るフミと自分の名前や顔を想像してみても、なぜだかいまいち現実味に欠けた。

 ぼんやりとする思考ながらも、フミとならそれも悪くないかもしれないなんて思ってみる。

 ただ、死ぬのはイヤだから、しっかり治る程度の怪我にしてくれ、と誰にともなくお願いしてみた。


フミの運転技術のおかげか、海にはあっという間に辿り着いた。

「さっむーい」

 ダウンに手袋。グルグル巻きにしたマフラーに顔を埋めたフミが、楽しそうに声を上げる。

 あまりの寒さに、僕は今のところ声も出ない。だって、吹き荒む風は、案の定都会のビル風なんて比じゃなかった。北海道の寒さを持ち出したけれど、北海道の皆さん、ごめんなさい。都会の寒さなんて、寒さとはいえないですと謝りたいくらいだ。この海の寒さ、半端ない。北海道は、これよりももっと寒いのだろうか。だとしたら、僕は一生北海道に住む事はできないだろう。今のところ、住む予定はないけれど。

 ビュウビュウと唸りをあげて吹く風は、砂を巻き上げ、僕の髪の毛もグチャグチャにしてくれる。男前だろうがなんだろうが、これだけの風に吹かれていれば、そんなものは全く意味がないなと笑ってしまいそうになったけれど、寒さで頬が引きつり笑えもしない。

 沖から吹く剃刀のような風に耐えながら、荒れ狂う海に向って、僕はさみーっと大声で叫んだ。叫んだからと言って、ピタリとこの切れのいい風が止むわけでも、寒さが和らぐわけでもないけれど、とにかく言わずにはいられない。しかし、冬の海ってやつは、そんな叫び声もあっという間に強風で攫い飲み込んで行く。僕の愚痴のような遠吠えにフミはクスクスと笑っているけれど、それさえも呆気なく掻っ攫われていった。

 フミが僕の真似をして、海に向って同じように叫ぶ。

「さむーーーいっ」

 フミは、満面の笑顔だった。

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