47. Upset , sunset - 夕暮れに心は揺れて



 ぐっすりと眠ってしまったレイの寝顔を見つめ、額にかかった髪を優しくかきあげて、ラムカは何とはなしにレイの部屋を見回した。

 ふっと目をやった、背の低いチェストの上に、いびつなハートのような形をした石が置かれてあるのが目に留まる。それは、まだ寒い時期だったか、以前ショーンと三人でセントラルパークへ行った時に、ショーンが見つけて拾ったものだ。

 何気なく目に留まったその石が、いつもと違う場所に置かれていたことと、何やら落書きのようなものがされていることに気付き、チェストに近付いてそれをひょいと持ち上げてみると、何か文字が書かれている。拙い字だが、左右に「Daddy Mom」とそれぞれ書かれてあり、その文字は先日のクリフォード夫妻の諍いの様子を思い出させた。

 このハートの形をした石に「Daddy Mom」と書いたレイの心情を思うと、彼女の胸もきりきりと音を立てて軋んでしまう。

 両親の諍いに胸を痛めない子供なんて、きっとこの世にはいない。彼女自身もかつてはそうだった。両親の言い争う声に何度頭から毛布をかぶり、声を殺して泣いたことだろう。

 レイのような頭の良い子なら尚のこと、余計な知恵が回り、幼いなりに両親に気を遣い、我が儘も言わず良い子を演じ、独りこの部屋で泣くこともあるのではないだろうか。

 やり切れない思いが胸を満たして行くのを感じるが、だからと言って、夫婦のことに首を突っ込むことは出来ないし、そもそもそんな立場にはない。

 出来ることがあるとすれば、雇い主の期待に応えること、レイに惜しみなく愛情を注ぎ、注意深く見守り、彼が少しでも楽しい時間を過ごせるように心を砕くこと。

 彼女はレイのベッド脇にひざまずくように腰を落とし、彼の寝顔を見つめた。父親譲りの黒々と長く豊かなまつげが、目の下に影を落としている。

 せめて夢の中で楽しい時間を過ごせていますように。そう願い、起こさないようにそっとレイの腕に口付けて静かに立ち上がると、その部屋を後にした。





「――いつかはご迷惑をかけたわね。私ったら酔っ払ってしまって」

 ラムカが子供部屋から再びキッチンに戻ると、話し声が外へと漏れ聞こえている。

 キャサリンの声だ。いつもの彼女の口調とは何かが違う。直感的にそう感じるのと同時に、何故だか入ってはいけないような気がして、ラムカは入り口の壁の向うに隠れるようにして立ち尽くした。

 どうしてだろう。心臓がきゅっと締め付けられるようにしぼんだかと思うと、急にバクバクと音を立てて暴れ始めたのだ。

 立ち聞きなんてしちゃいけない。そう頭では解っているのに、一歩もそこから動くことが出来ない。

「……そうだったっけ」

「ええ、恥ずかしい思い出だから忘れてたけど――Oh ! そんなことより、あなたにずっと言いそびれてたことがあったのに、私ったら」

「?」

「良い機会だし、今言わせてもらっても?」

「?  何、改まって」

「あなたの……奥様のことよ」

「……Oh」

「とても素敵なひとだったわよね……今更かもしれないけど、心からのお悔やみを言わせて欲しいの」

「……それはどうも」

 ラムカは立ち尽くしたまま、口元を手で覆った。そうしなければ、声と心臓が口から飛び出していたに違いない。

 奥様? お悔やみ?


「――嫌だ、どうしよう。あの子ったら変な時間に寝ちゃったわね。食事前だっていうのに」

「じゃあ……遅らせる?」

「あなたは? それでも構わない?」

「ああ、構わないけど」

「じゃあ……そうしていただける?」

 OK、と言う表情のショーンにキャサリンは満足そうな笑みを浮かべると、再びビールを飲んで暫くショーンの仕事を眺めていた。

 そのうち、爪を赤く染めた彼女の指が彼の目の前を通り過ぎ、火から下ろされてあった小さなソースパンの中に浸された。

 彼が、おやおや、という顔を向けると、キャサリンはソースに浸した指を舐めながら上目遣いに彼を見上げている。

「んー、美味しい! 濃厚で、甘くて……そうね……とても官能的な味がする」

「……とてもお行儀の良いひとだ、マダム」

「ふふ」

 彼はナイフを置き、薄い笑みを浮かべてゆっくりとキャサリンの方へ向き直った。

 彼女が彼のTシャツの胸元に付いていた、玉葱か何かの屑をそっと払いながら言う。

「……言い忘れてたわ」

「何を?」

「フィルよ。彼……今夜は帰りが遅いの」

「……Oh yeahふーん? ? 」

「それからもうひとつ、大事なことを忘れてたわ。あの子、一度寝ると、長い時間起きてくれないの」

「……そう。それは困ったな。自慢のインヴォルティーニ*なのに」

「それまでの時間、私たち何をして過ごしたらいいかしら、シェフ」

「Well……何なりとお望みを。マダム」

「ふふ」


 こっそりと覗き見てしまったラムカの瞳に写るのは、色っぽい雰囲気で見詰め合いながら会話をする二人の姿。

 夫の留守中に誘いをかける女と、誘惑されることを楽しんでいるような男。今にも熱いキスを交わしそうなふたり。まるでドラマや映画のワンシーンのようだ。

 思わず覗き見てしまったキッチンの二人にくるり、と身を翻すように背を向け、彼女は背後の壁にもたれて天井を仰いだ。

 同時に、壁を軽く叩くような音がショーンの耳に届き、彼は反射的にその音の方向へと目を向けた。その『音』の正体を覚った彼が瞳を泳がせ、そんな彼の視線をキャサリンが辿る。

 彼の視線の先、キッチンの入り口の壁の切れ端から、ラムカの髪と肩先がほんの少し、はみ出していた。

「シェリー?」

 ――Oh!

 彼女は小さく呟き、慌ててもう一度姿を隠した。壁にもたれた時にうっかり音を立ててしまったのだ。

 聞こえたんだ、どうしよう!――レイの部屋にでも逃げ込みたい気持ちになったが、あっさり見つかってしまったのなら潔く顔を出すしかないのかも、そうも思えた。今さら隠れても遅すぎる。

 そう意を決して身を翻し、キッチンに一歩足を踏み入れると、目の前にキャサリンが立っていた。

「Oh! ご、ごめんなさい、あの――」

「――今日はもう帰っていいわ、シェリー」

「!」

 そう言ってショーンへ意味ありげな視線を送り、キャサリンがキッチンを出て行く。

 その背中を見送り、恐る恐るキッチンの方へ振り返ると、まともに彼と視線がぶつかった。

 気まずい思いのラムカに対し、彼の方は、何か問題でも?とでも言いたげに、軽く眉を上げて肩をすくめてみせただけだ。

 何よ!――余裕ある彼の態度に子供扱いされたような気になり、彼女の中にむくむく、と反発心が湧き上がった。

 信じられない! 自分が何を仕出かそうとしてるのか解ってるのかしら、この人! 邪魔者はさっさと消えろってことね!?

 椅子の上に置いてあったバッグと上着を勢いよく手にし、彼女は逃げるようにその場から立ち去った。



 一刻も早くこの界隈から逃げ出してしまいたかった。それが一体どうしてなのか、何故こんなに苛々とした気持ちを抱えてしまうのか、その理由などさっぱり解らないが、とにかくさっさと家に帰ってしまいたい。

 いや、「どうして?」などと考える冷静さや心の余裕が今の彼女にあろうはずもなく、その証拠に彼女は、どういう訳だか地下鉄の駅までの道のりとは違う方向へ歩き出してしまい、まるで初めての街で道に迷ったように立ち往生してしまった。

 何しろ動悸がして、ほっぺたやら耳やらがと熱くて、足がふわふわと宙に浮いているような、世界がぐるぐると回っているような、どうにも奇妙な感覚なのだ。

 Oh God !ああもう!  一刻も早くここから逃げ出したいのに、私ったら一体何やってるの!?

 彼女は額に手をあてて立ち止まり、ふーっと大きく息を吐き出した。

 何度かそうやって気を落ち着かせ、ようやくいつもの道へと戻って来たのだが、もはや数ブロック先の駅まで歩く気力もなければ、その時間さえもどかしく思えて仕方がない。それで彼女は通りでキャブを拾った。

 夜中でもないのに、こんな場所アッパーイーストからキャブに乗って帰るなんて。普段なら自分にそんな贅沢は許さないのだが、これは非常事態なのだ、そう自分に言い訳をしてキャブに乗り込んだ。

 運転手に行き先を告げ、それからベティに電話をかけ直そう、とバッグを漁り、そして気付く。しまった! キッチンに忘れて来た! 

 引き返そうかと一瞬思ったが、すぐにその考えを捨て去った。勢いよく飛び出したのに、その直後に彼とまた顔を会わせるなんて、そんなの気まず過ぎる。何よりも、今戻ればもっと気まずい場面に出くわすかもしれない。

 ベティには家から電話をかければそれで良いのだし。そう思い直し、携帯電話のことは忘れてしまうことにした。


 ところが渋滞の時間帯にぶつかってしまったのか、ダウンタウンに差し掛かった辺りから車が進んでくれない。迂闊だった。これでは地下鉄で帰った方がよっぽどましだ。

 ここで降りて近くの駅まで歩こうかな――そう思いついたところで、今朝デーヴィーの餌が切れてしまったことを思い出した。

 彼女の住む街は治安の良い場所だが、先日十数年ぶりに、いつも行く近くのマーケットの駐車場で、金銭の強奪未遂事件が起きたばかりだった。

 犯人は直ぐに捕まったけれど、あそこに行くのはちょっとまだ怖いし、少し遠いけど別のマーケットの方に行こう、と思い直した。

 それで彼女はやはり地下鉄を諦めて、このまま渋滞の流れに身を任せることにした。

 そして温和そうな運転手なのを確認して、すまないけれど、この先のブルックリンのマーケットで買い物がしたいから駐車場で待っていてくれるように頼み、ミルクやデーヴィーの餌、その他に沢山のものを買い込んで、待っていてくれたキャブに再び乗り込んだ。

 帰りはキャブだから重くなっても平気と思ったのか、それとも気が動転していたのか――後ほど、私ったらこんなもの買ったっけ?と覚えもない商品でテーブルの上が埋め尽くされることになるのだが、取りあえず今のところ、彼女は窓の外を眺めながら、家までの道のりをキャブの中でやり過ごしていた。




 やがてようやくキャブがアパートメントの手前に到着し、通常の二倍ほどのチップを含んだ額の支払いをして、彼女は車を降りた。

 ふう。やっと着いた。すっかり落ち着きを取り戻した彼女は、大きな紙袋を抱え、安堵の息を吐いてゆっくりと歩き出した。

 同時に、「Hey !」と呼び止める声が聞こえた気がして立ち止まる。

「シェリー!」――それを確かめようと、彼女が振り返るのを待たずして辺りに響く、聞き慣れた声。彼女は今度こそ素直にその声に振り返った。

 次の瞬間、暮れかかったセピア色の世界の中で、彼女は信じられないものを目にしていた。

 まるで彼女を何時間もそこで待ち続けていたように、停めたバイクに横向きに腰掛けたショーンが、目の前にいたからだ。

 これって現実!? それとも、幻!?

 確かに、間違いなく、仕事中の彼を残してあの家を飛び出したはずなのに! それなのに、どうして彼がここにいるの!?

 彼はどうやら本当は魔法使いで、町から町へと瞬間移動が出来るらしい。或いは、もう一人の自分を作る魔法でも使ったのかも。彼女は思わず混乱して立ち尽くしてしまった。

 "どうして!?" ――そんな表情を浮かべる彼女に向い、彼がくすりと笑う。

「実は……緊急でバイク便の仕事が入っちゃってさ」

Wha ?は?

 彼は笑い、上着のポケットから彼女の携帯電話を取り出して、軽く振ってみせた。そして、驚いた顔で立ち尽くす彼女へとゆっくりと歩み寄り、それを差し出した。

「はい、バッテリー切れ」

「Oh」

 あいにく彼女は大きな買い物袋を両手で胸に抱えていたので、代わりに彼がその紙袋を受け取った。

 彼女が電話をバッグに仕舞う間、何気なく袋を覗いた彼は、真っ先に生理用品のパッケージが目に飛び込んできたので、Oops !おっと! と軽く仰け反る真似をした。

 何見てるの!――そう言って彼女が袋を奪い返すと、彼は何食わぬ顔で「猫の餌」と言い放ち、そんな彼に、余裕のない彼女がまたカチン、となる。

 この人のこういうとこ、ほんとムカつく! そう思ったが、取りあえず礼だけは言わなくては、と気を取り直して一呼吸した。

「わざわざ届けてくれて……どうもありがとう、バイク便のお兄さん」

「どういたしまして。またいつでもご用命を」

「……Uumえっと……受け取りのサインもいらないみたいだし……じゃあ、これで」

 それ以上言う言葉も見つからないので彼に背を向けて歩きだすと、「Hey」と呼び止める声が再び聞こえ、彼女はもう一度その声に振り返った。

「それ、部屋に置いて下りて来なよ」

「は?」

「夕食、まだなんだろ?」

「……Oh」

 デーヴィーの夕食は忘れずに買ってきたが、彼女自身の夕食のことなど忘れていた。いや、そんなことは思いつきさえしなかった。

「えっと……それって、つまり……」

 一緒に夕食でもどう?……ってこと? ――躊躇った表情の彼女に、いいから来いよ、というふうに彼が首を傾ける。

「じゃあ……少しだけ、待っててくれる?」

「Sure」

 荷物を持つ彼女のために、彼が代わりにエントランスのドアを開き、「どうぞ」という仕草をしてみせる。

 彼の誘いを断らなかったことに自分自身驚きながら、彼女は彼の腕の下をすり抜けて、中の階段へと向った。




* このお話のあとがきはこちら⇒

https://kakuyomu.jp/works/1177354054892660029/episodes/1177354054892710478



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-第47話 用語解説-(作中*印のついていた言葉)



・「インヴォルティーニ」


Involtini = インヴォルティーニ。

包む、巻く、という意味を持つイタリア料理で、主に薄切りの肉や魚などに何かしらの具材を巻いて調理したもの。「肉巻き」ってやつですな。

地方によって呼び方も変わるようですが、日本でお馴染みのロール・キャベツなんかもインヴォルティーニの一種と呼べるそうな。

ワタクシも豚肉でキノコとかニンジンとかの細切りを巻いて焼いた肉巻きがめちゃめちゃ大好きで、自分ちでもしょっちゅう作ってましたよ。

お酢やポン酢などを少しきかせるとサッパリとして夏の食欲UPなんかにもグーです。甘い味付けでもイケますよ~。じゅるる。

以前、東海地区に住んでいた頃に通っていたイタリアンのお店の「仔牛のインヴォルティーニ」が大好きで、数ある「思い出のひと皿」の一つなんですが、その懐かしいソースの甘い味を頭に思い浮かべてこのシーンを書きました。

久しぶりに食べに行きたいなーと思ってたんですが、残念ながら現在は閉店してしまったようです。ショーンさん、代わりに作ってくれないかなー。


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