36. Light and shadow - 光と影
突然部屋の中に違う空気が流れ込んだように感じ、ラムカは顔を上げた。
同時に「フィル!」というキャサリンの声が響き、その場にいた全員が入口の方へと視線を向ける。
ただいまとおかえりのキスをキャサリンと重ね、その場の面々との挨拶もそこそこに、フィリップはミゲルを伴い、2人で書斎へと姿を消した。
何となく人の気配を感じ、キャサリンが玄関のほうへと行くと、そこにはフィリップの秘書、ヴァレリーが立っている。
いくつかの書類やデータをフィリップから受け取るために寄ったのだと言う。
あなたもゆっくりして行って。お食事もまだなんでしょう?――そういうキャサリンの言葉に彼女・ヴァレリーは礼を言いつつ、忙しいからと言ってキャサリンの誘いをやんわりと断った。
そのうちにキャサリンの携帯電話が鳴ったので、失礼、と言って彼女は廊下の方へと歩き出し、違う部屋のドアを開けてそこへ姿を消した。
――「ヴォイテック社の情報収集はどんな具合だ?」
「Yeah、想像以上にハードルが高いよ。広報の人間も政府機関で働いてたって言うかなりのやり手だし、セキュリティ・システムも万全で、どんな些細な情報のリークも許さない構えだな。まあ表向きは、と言うべきだが」
「And?」
当然ながら何も収穫無しってわけじゃないんだろう?――フィリップがそう言いたげな瞳をミゲルに向ける。
「ひとつだけ判ったことがある。どうやらB&W社を買収しようと動き始めたらしい」
「!」
「B&Wというのはリーク対策のためのガセで、実際は違う会社という可能性もある。まあ今のところ、五分五分ってところだな」
「お前の読みは?」
「Well……俺はガセじゃないかと疑ってる」
「確かに……B&Wを吸収するメリットがいまひとつはっきりしないな……」
「まあB&Wを吸収すれば、中西部のシェアが一気に上がることにはなるんだ。だからあの会社を欲しがる企業は恐らく他にもある。ただ……」
「B&Wの近年の業績から言って、ヴォイテックがそんなリスクを負うとは考えにくい、そういうことか?」
「……OK、引き続いて情報収集にあたってくれ」
しばらく考え込んだあと、フィリップがそう言って振り返ると、ミゲルが軽く頷くように了解した。
「……それはそうと……」
「?」
「例の男の件はどうだ。あれから進展は?」
「いや……」
例のパーティーで見かけた男のことだ。彼女と一緒にいた、あの若い男。
ただの情夫だとすれば調べる必要もない相手だが、あの時感じた直感のようなもの、それが何故だか引っかかるのだ。
ミゲルによれば、どうやら男は現在国を出ているらしいこと、「彼女」との関係を証拠付けるものがまだ見つからないことなどの他、「彼女」のほうも今のところ何の怪しい動きもない様子だった。
そちらのほうも引き続き情報を集めてくれ、と言うフィリップの言葉に再び頷くと、ミゲルはフィリップへと顔を向けた。
「……フィル」
「何だ?」
「………いや、何でもない。忘れてくれ」
この男が『何でもない』とそう口にする時、その口を割らせるのは至難の業だと痛いほどに知っている。だから余程のことでない限りは、そのまま聞かなかったことにしていた。
だからこの時も彼はそうした。ミゲルの表情から言っても、そう大したことではなさそうに見えたからだ。
「ところで、キャスの客としてお前がここにいるのが不思議でならんのだが」
「不可抗力ってやつさ。まあ、久しぶりにレイに会えたからいいけど」
「ナディアには?」
「会ったよ。もちろん」
「もっと頻繁に顔を出してやったらどうだ。彼女はそんなこと口にはしないが、本当は寂しがってると思う」
「……Yeah」
「ああ、そうだ」
「?」
「悪いがこれをヴァレリーに渡してくれないか。玄関で待ってるはずだから」
「何で俺が」
「いいから」
バスルームに行きたいんだ、と言うフィリップに溜息を吐き、ミゲルがフィリップの書斎を出ていく。
長い廊下を抜けて角を曲がり、玄関の方へ向かうと、ミゲルに気付いたヴァレリーが怪訝そうな顔を向けた。
「ここで何してるの」
「パーティーに招待されてね」
「パーティーですって? Hah! 人が休日返上で仕事してるってのにいい気なもんね」
「でもそれを望んだのは君自身だ。俺のせいじゃない」
今では望み通り第1秘書の座に収まったヴァレリーにニヤリとした笑みを向け、ミゲルはフィリップからの書類を手渡した。
「そして俺を呼んだのはボスの奥方だ。断れると思うか?」
「ふふ、嫌々来たくせに」
書類を受け取りながらヴァレリーが不敵そうに笑う。
「あなたはパーティーなんて大嫌いだもの。そうよね?」
「……」
「でも嫌いなパーティーにせっかく来たんじゃない、今夜もまた酔ったせいにして誰かと寝れば? あの夜みたいに」
彼女は笑顔でそう言うと、ミゲルの視線を捉えたまま、彼の頬に手のひらを置いた。
「……ヴァレリー、君が俺を恨むのは仕方ない。それは解ってる。だけど――」
「――恨んでなんかないわよ」
「ミゲル?」――その時、ミシェルの声が玄関ホールに響き、ハッとしたように2人が体を離す。
「ここにいたんだ」
声をかけた時、ミシェルからはヴァレリーの姿は見えなかったのだろう。ミゲルのほうへ近付いて、ようやくミシェルが彼女の存在に気付いたように瞳を丸くした。
「Um……ミシェル、こちらヴァレリー。仕事の同僚だ。ヴァレリー、こちらミシェル」
「Hi , 初めまして」
「よろしく、ミシェル」
にっこりと笑って握手をする2人を内心苦々しく思いつつ、ミゲルはいつものように取り澄ました顔を保ち続けていた。
だが、ヴァレリーが何かを言いたげに、ほんの少しだけ眉を上げた表情をミゲルに向けた瞬間、この女にはきっとお見通しなのだろう、そう覚った。
ヴァレリーに限ったことではない。この先、こういう反応を向けられる場面は嫌と言うほどに増えていくだろう。
ミシェルと一緒にいる限り、避けられない反応なのだから。
エレヴェイターに乗り込むヴァレリーを、ミシェルが笑顔で見送る。そんな彼を見つめ、ミゲルは彼に気付かれないくらいの小さな息を漏らした。
「――先に戻ってて!」
唇に軽くキスを残し、ミシェルがバスルームの方へと姿を消した。
その後ろ姿を見送ると、ミゲルはもう一度小さく息を吐き、リヴィングルームのほうへと踵を返した。
彼女が仕事の電話をようやく終えて廊下へ出ると、ちょうど寝室から夫が出てくるところだった。夫はスーツを脱ぎ、先日彼女が拝借したあの淡いピンク色のカシミヤのセーターに着替えている。そのピンク色のセーターは、クローゼットで見た女からのメッセージを思い出させるのに充分だった。
あの時のことを思い出すと、一瞬にして目の前の夫への不信と憎しみに似た感情が沸き上がってきてしまう。いや、あの時のことを思い出さずとも、ここのところ、彼女の頭の中はあの女のことでいっぱいなのだが。
「レイはまだ起きてるよな」
そう言って息子の部屋へと向かう夫を見送る。咄嗟に笑みを張り付けたが引き攣ってはいなかっただろうか。
やがて息子を連れ、フィリップがリヴィングルームへと姿を現した。
大人たちに可愛がられ、楽しそうにはしゃぐ我が子の顔を見つめる時、その時だけは彼女はふっと柔らかな気持ちになれる。
リヴィングルームのすぐ隣、メインダイニングに行く途中の、部屋とも呼べないが通路と呼ぶには広すぎるスペースがあり、そこにピアノが置いてある。
レイを膝の上に乗せたミゲルがピアノを弾き、ラムカが隣に座って連弾のようなことを始めたので、ミシェルが瞳を輝かせてミゲルを見つめ、そんな彼をベティがからかった。ベティには、ミシェルの瞳がハートの形に変形したように見えて仕方ないのだった。
そのうちに、空いた大皿を手に、ショーンがそのピアノの横を通り過ぎる。通り過ぎる時、ちらりと彼女を見ると、楽しそうに笑ってピアノを弾いていた。
こんな笑顔は未だに自分のために向けられたことがないな――そんなことを頭の隅に思いながら、彼はキッチンに向かった。
「――ねえ! あとひとり足りないよ!」
突然レイが大きな声を上げた。
「レイ?」
「あと一人? 誰が?」
ミゲルとラムカがレイに声をかけると、レイはミゲルの膝を下りて父親の足元へと走った。
「ねえダディ! あとひとりなんだ!」
「What ?」
「もうひとりで『ぜんいん』そろうんだってバディが言ってる」
「全員揃う?」
時々こういう不思議なことを言い出す息子にキャサリンもフィリップも慣れてはいたが、正直言って対応に困ってもいた。
子供の頃には不思議なものが見える子もいる。成長するに従ってそういう不思議なものは見えなくなっていくはずだ。
まだ比較的、父親のフィリップはそう楽観していたが、キャサリンには『息子には何かしらの脳の障害があるのではないか』という気がしてならなかった。
それで病院で検査を受けさせたこともあったのだが、その結果、何も異常は見つからなかった。
「――ポールだ! ねえ、ポールがここにいたら『ぜんいん』がそろうんだよ!」
「ポール? ポールって、あのポール?」
ベティとミシェルが顔を見合わせて瞳を丸くした。
そこへキッチンからショーンが戻ってきて、レイの髪の毛に手を置いた。
「Hey , 全員揃ったとして、俺たち一体何のチームなんだい?」
「それはわからないけど、だけどバディがとてもうれしそうだよ」
「バディね……」
「レイ、もうそろそろ寝る時間よ。皆さんにおやすみを」
「おやすみレイ」
「おやすみ」
「あ、私が……」
ラムカがレイの手を引き、寝室まで連れて行く。
毛布をかけ、髪の毛にそっとキスをすると、レイが真剣な眼差しでラムカの瞳をじっと見つめ返した。
「ねえシェリー、ぼくの言ってることしんじてくれる?」
「え?」
「ダディとママにバディのこと言っても、はんぶんしかしんじてくれないんだ。まじめにきいてくれないの。バディはぼくの『しんゆう』なのに」
「……ええ、信じるわよ、レイ」
「ほんとう?」
「Yeah ! 実はね、私の弟にも小さい頃、バディみたいな親友がいたの。緑色の苔に覆われたような、体の大きな不思議な生き物だって弟が言ってた」
「バディは人間だよ。黒いかみのけに白くてみじかいふくをきて、きんぴかの『うでわ』をした男の子なんだ」
「そうなのね」
「きみのおとうとのバディはまだそばにいてくれる? さびしいときにあそんでくれる?」
「……私の弟のバディはもういなくなってしまったの。きっとおうちに帰ったんだと思う」
「いやだよシェリー! ぼくのバディはおうちに帰ったりなんかしないよね? ずっとぼくのそばにいてくれるよね?」
ラムカはレイの額にかかった前髪をかきあげて、彼に静かな微笑みを返した。
「ええ、きっとそばにいてくれる。何故なら、きっと彼にもあなたが必要なのよ、レイ」
「ひつよう? ぼくが?」
「そう」
あなたが彼を必要としている限り、彼もあなたを必要としてくれる――ラムカの言葉に瞳を見開くと、レイは嬉しそうに笑った。
やがてパーティーはお開きの時間になった。ベティ達も、後片付けまでしてから帰る、と言うショーンを手伝うことになり、キッチンがいつになく賑やかだ。
そんな彼らをよそに、ミゲルはひとり、母親のナディアの部屋に向かっていた。
部屋をノックすると、ナディアは、ミゲルの顔を見て一瞬驚いたような表情を浮かべたが、入室を許すように首を軽くかしげてみせた。
母は眠る前の祈りを捧げるところだったのだろう。いくつかのキャンドルを灯し、祖母から持たされたというロザリオを手に巻き付けるようにしていた。
「――そろそろ帰るよ」
「……そう。気を付けて帰りなさい」
「Thanks」
そう言うと、ミゲルは再び母親をハグし、白いものが割合を増してきた彼女の髪に、そっと唇を置いた。
「……マム」
「?」
「……失望させてばかりで……本当にごめん」
「……」
「でも――」
「――本気なのね?」
「……」
母の言葉に否定も肯定もせず、ミゲルは俯いて、ただ母親の腕をそっと撫でさすった。そしてそれは、『解ってほしいんだ』と訴えているように映った。
ナディアの瞳に、そんな息子を責めるような、それでいて、何かを諦めたような色が宿る。
彼女は小さく息を吐くと、息子の顎先をつかむように指をそこへ置いた。
「もう行きなさい」
「……Yeah」
I love you , Mom ――もう一度母を抱きしめ、息子は静かにそう言うと、母の部屋を後にした。
* このお話のあとがきはこちら⇒
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892660029/episodes/1177354054892709730
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