33. Appetizers? No, Main dish ! **- メイン・ディッシュから始めよう
ウエスト・ヴィレッジ 10:15 a.m.
昨日の夜、思いの外飲み過ぎてしまったせいで、いつも以上に遅い時間まで眠りを貪っていた彼は、電話の音に起こされた。
どうもここのところ、酒の量は増えていく一方で、なかなかすっきりとしない朝が続いている。
電話はアマンダからだった。例の取材の件で話がしたいからと、その日のランチへの誘いの電話だった。
『取材は気が乗らないよ』と言ってはみたのだが、アマンダが取りあえず話だけでも聞いて、と言うので、仕方なくランチに出かけることにした。
彼女が指定した店はソーホーにあった。いかにもソーホー界隈をうろうろしていそうな、モデル風情やファッション・アディクトな人間、アートディーラーっぽい人種が列を成していて、入り口はかなりの混雑を見せている。
『ご予約のお名前は?』と聞かれ、アマンダの名前を出すと、軽く20人以上並んでいた人々を出し抜いて、すぐに席に通された。
なるほど、その仕事ぶりから言って、アマンダはこの業界において、かなりの影響力を持っているらしい。そして、同じようなパワーを持ち合わせた女を、彼はもう一人知っている。
そのもう一人の女の顔を思い浮かべて小さく息を吐いた時、「待たせたわね」と聞き覚えのある声が背後から彼の耳に届いた。
「Hi」
「Hi Sean , 長く待った?」
「いや、さっき来たばかり」
「そう、良かった」
軽い話をしばらく続けた後、彼は薦められるままに適当にメニューを選び、とりあえずアマンダの言い分を聞くことにした。
彼女は、そう大きな特集ページではないし、数人の人間に取材をすることになるだろうから、ほんの小さなカットしか掲載されないかもしれない、と言った。
だからそこまでプレッシャーを感じる必要はないのだと言う。
それはそれで、せっかく取材を受けるのなら、大きく扱って欲しいと内心で思ってしまうのが人間だとも言えるが、彼は、顔や名前を売ったりすることにはあまり興味がない人間だったから、やはりあまり乗り気にはなれなかった。
そしてそれは、彼の自信の無さを表しているとも言えた。彼は、自分程度の料理人など、掃いて捨てるほどいる、そう思っていたし、ただ単に料理を作ることが好きなだけの、どこにでもいる普通の男だと思っている。
いや、そんな彼にもチャンスが巡ってきたことがあるにはあった。名店と言われる店でスー・シェフになれた後、新しくオープンさせるレストランのシェフとして働かないか、と引き抜きにあったのだ。
結局はその時の経済状況と経営側とのタイミングが上手く合わず、その話は撤回されてしまった。
あの時に覚ったのだ。やはり自分はそういう「華やかなビジネス」向きの人間ではないのだろうと。
彼は、好きな料理が作れるなら、場所やシチュエーションはどこだろうと何だろうと構わないのだ。
「――どうしてそんなに自分を低く見てるの?」
「そう見える?」
「そうとしか思えないわ」
アマンダは、取材を拒もうとするショーンに、理解出来ない、と言いたげな瞳を向けた。
「低く見てるつもりはないよ。身の程を知ってる、それだけだ。俺はピエール・ガニェールやアラン・パッサールにはなれないし、なりたいとも思わない」
「じゃあ言い方を変えるわ」
「?」
「協力して。私を助けて欲しいの」
「What?」
「知ってると思うけど、今雑誌は昔ほど売れない時代なの。このご時世に廃刊にならないだけでもありがたいことだけど」
思いもよらないアマンダの言葉に、彼は瞳を見開いた。
「インターネットでのアプローチももちろん大切な要素だけど、私は昔ながらの紙媒体が好き。ページをめくるたびにわくわくするような、そんな雑誌作りをずっと目指してきたの。この雑誌は私の全てと言ってもいいわ。一人でも多くの人に手に取って欲しいし、素晴らしい店や料理、器、コーディネート、それを作った人、生産農家、それらに関わった人たち。一人でもたくさんの人に知って欲しいし、もっと『食』の大切さに目を向けて欲しい。そんな思いで毎日駆け回ってるの」
辛口のコメントで有名な彼女の口から、これほど熱い言葉が出てくるとは思いもしなかった。
好意的とは言えない評価をする人間、それが彼女について回るパブリック・イメージだったからだ。
だが、彼女の言葉でひとつ解ったことがある。パブリック・イメージなどと言った実体のないものなど、信じるに値しないものかもしれないと。
「……訊いていいかい?」
「どうぞ」
「以前に比べて『ジジ』が落ち始めてる、この間そう言ったよね?」
「ええ」
「たった1回の食事でそう思った?」
「No , 1度だけなら運が悪かっただけと思うわ。たまたまシェフが不在だったとか、コンディションが悪かったとか、作るのは機械じゃなくて人間だもの。そんな時もあるでしょう。でもね――」
「?」
「料理だけを言ってるんじゃないの。電話の応対やサーヴィスの質、従業員の態度、全てにおいてどんどん劣化してきてる。何て言うのかしら……全てが悪循環に陥ってるって感じね」
「じゃあ、それを記事に書いたとして――」
「――実際書いたわ」
「そう、じゃあそういう時、君の中に躊躇いは一切ないの?」
「あるわよ、もちろん。私だって悪口なんて書きたくないもの。ただ、大好きだった店が落ちて行く姿をただ見てるだけなんて、そんなこと私には出来なかった。何とか立て直して欲しいと思って書いたの」
「そうか……」
「悪く書かれそうで心配なのね?」
「No……no , そんなこと、考えてもないよ」
いたずらっぽく上目遣いで笑う彼女に苦笑を漏らし、彼はグラスの水をひと口飲んだ。
「……君を知りたかった。ただそれだけさ」
「Well , それって……この会話を違う方向へと導こうとしてる?」
「はは……まさか」
再びいたずらっぽい瞳で見上げる彼女に笑みを返し、彼は軽く肩をすくめた。
結局、彼は彼女に、返事は待って欲しいと伝えた。
その後、彼女と別れてから仕事に向かう途中に立ち寄った、小さなチーズ専門店。
その店のレジの横に、『私たちの店が雑誌に掲載されました』という文字とともに、アマンダの雑誌のページが飾られていた。
そのページを読む彼に、店の店主が少し照れくさそうに、けれども誇らしげな笑顔を向けた。
そして彼は、店を出た後、アマンダに電話をかけて、『さっきの話、受けることにするよ』と伝えた。
彼女の熱意に動かされたことも大きいが、自分の身の程を知っていると言うならば、これくらいのことなどきっと何でもないはずだと、そう思えたからだ。
店の中を外から覗くと、さっきの店主が彼に気付いて、しわだらけの笑顔を向けて手を振った。店主に笑みを返し、彼はバイクのエンジンをかけて、ゆっくりと北へ向かって走り出した。
ミッドタウン・ノース
その日、仕事を終えたミシェルがスタッフルームへ行くと、先にその部屋に来てメイク直しをしていたベティが、彼に気付いて振り返った。
「ミシェル、この後エミたちと飲みに行くけど、あんたも来ない?」
「あー……ごめん、これからミゲルと会うんだ」
「マジで! へえー、順調じゃん」
「ふふっ、まあね」
「やだー、彼氏出来たの?」
その部屋にいた仲間のロドニーが声を上げた。
「ひどいっ! あたしというものがありながら!」
「Oh , sorry honey , 確かに君という大切な存在を忘れてたよ」
「ぶっ」
ゲイ、ストレートを問わず、男性スタッフ全員に「好き、好き」とアピールしてはいちゃいちゃしたがるロドニーを誰も本気で相手にしないので、毎回こういう会話が繰り返されているのだが、そのロドニーが大げさな嘘泣きを始めたので、ベティが笑いをこらえて肩を震わせた。
その場にいたランディもぶっと噴き出し、ミシェルと一緒にやれやれ、という顔で肩をすくめている。
「そうだ」
ベティが思い出したようにミシェルを振り返る。
「ねえ、いつ彼に会わせてくれるのよ」
「んー、そのうち!」
「早いとこ会わせてよ。逃げられる前にさ」
ベティの軽口にふん、と軽く鼻で笑い、手にしていた仕事道具やルイ・ヴィトンのメイクボックスをロッカーに仕舞うと、彼はくるり、とベティのほうへ向き直った。
「そのメイク、ケバすぎない?」
「は!?」
「じゃ!」
ベティから何か飛んでくる前に急いでその部屋から逃げ出せたので、閉めたドアにカツン、と何かが当たった。
あの音は何だろう、フェイスブラシか何かかな。彼はふふん、と再び軽く笑いながら店のドアを開き、外の空気を浴びた。そして大通りへ出てキャブを捕まえ、行き先を告げた。
以前、ミゲルのアパートメントからの帰り際に、こじんまりとしてはいるが、なかなかに質の良いワインショップを見つけていた彼は、キャブを降りてまずはその店に向かった。
初めは、ピノ・グリージョか何か、きりりと冷えた辛口の白ワインでも買おうかと思っていたが、結局は店主が薦めてくれたシャンパンにした。
良く目にする銘柄ではなかったが、最近ニューヨークのレストランでも扱われ始めたもので、有名なメゾンのものにも決して引けを取らない、と言う店主の言葉に賭けてみたくなったのだ。
運よく冷えたものが1本だけ残っていたので、それを買うことにした。
『デートには最高の1本だよ』――後に彼は、店主のその言葉を身をもって実感することになるのだが。
ブザーを鳴らした後、ドアを開いた男から、ふわり、といい匂いが漂うのに気付く。
香水やシャンプーといった人工的な匂いではない。ニンニクやハーブが混ざったような、つまり、美味しそうな匂いを漂わせていたのだ。
部屋に入ると、さらにいい匂いがして、キッチンのほうを覗くと、小さな鍋が火にかけられている。
「! 料理するの!?」
「? そんなに意外か?」
「Non , そうじゃないけど……」
でもさすがはイタリア男、って感じだね――ミシェルのその言葉に、男は木製のターナーで鍋の中身をかき回しながら、『半分だけどね』と軽く笑った。
「それは?」
「ああ、この近くのワインショップで」
「ビリーの店のか。じゃあ間違いないな」
Thanks , とミシェルに向かって言うと、男は鍋の火を止め、戸棚から銀色のワインクーラーを取り出して、シンク横の作業台の上に置いた。
「グラスある?」
「ああ」
男は、更に別の棚から細長いシャンパングラスを取り出し、それをミシェルに手渡した。
「ねえ」
「?」
「シャンパンより先に味わいたいものがあるんだけど」
そう言って、ミシェルが男に挨拶のような軽めのキスをした。
「……会いたかった」
ミシェルの言葉に『Me too』という返事はなかった。だが、言葉を返す代わりのように、男はミシェルの頬や唇にいくつかのキスを重ねた。
そのまま貪り返してしまいたい欲望をこらえて、とりあえず、シャンパンを開けることにした。
彼はフランス語で書かれた
次にシャンパンのボトルを斜めに傾け、コルク栓を指でしっかりと押さえる。
決してコルクを回さないよう、ボトルの底のほうを回しながら、音が立たないようにそっとコルク栓を外し、細い糸を垂らすようにグラスに静かに注ぎ入れる。
ミシェルの慣れた手付きに男が『
そして軽くグラスをぶつけ合い、質の良いクリスタルだけが鳴らすことの出来る高く澄んだ音を、まずは耳で味わった。
そこから立ち上るフレッシュな芳香を鼻腔に送り、舌の上にそれを流し込む。ゆっくりと口に含ませて、口内の細胞のひとつひとつにじんわりと沁みこませるようにそれを味わい、そして静かに飲み落とす。
蜂蜜のようなコクと華やかな香りが後から遅れて口内と鼻腔に広がるのを楽しみ、互いに「悪くない」という満足げな表情で眉を上げ、そして再びグラスへと唇を寄せる。
「ん、本当だ。なかなかリッチだね」
「ああ」
「あ、さっきより香りが立ってきた」
「ん……」
男がグラスに唇を寄せるたびに、グラスにさえも嫉妬した。やはり欲望を抑えきれそうにない。ミシェルは、氷を取るために彼の前を横切ろうとしたミゲルを捕え、唇を奪った。
シャンパンの香るキス。吸い上げるような音を何度も立て、男の唇とその中身を味わう。唇を離すと、男の唇が濡れていた。
そしてそれは、ふっくらとして赤みのある、男の形良く丸い唇を、更に欲情的に見せている。それを見てますます抑えが効かなくなったミシェルは、男の手からグラスを奪い、それを軽くひと口含んで、再び男に口付けた。
ミゲルの息遣いとシャンパンの香りとを舌ごと吸い上げ、じっくりと味わうように湿った音を立て続ける。唇を離すと、男は、見上げるような鋭い視線をミシェルの瞳に突き刺した。
彼の心を虜にした、あの日の扇情的な視線と同じ色の瞳。そう、この瞳が欲しかった。この瞳で僕を見て欲しかったんだ。
男の鋭い視線を受け止めたまま、男のシャツのボタンに手をかけ、外していく。
闇色のシャツを肩から剥ぎ取り、男の首筋を唇と舌で甘く犯す。首から頬へ、そしてようやく探し当てた唇を再び奪った。
男はミシェルの髪に手を差し込むと、彼に応えるように激しい口付けを返した。そして同じようにミシェルのシャツのボタンを外し、彼を後ろ向きにして壁に押し付けた。
シャツを肩から脱がせ、背中の羽に唇を這わせ、後ろから乱暴に彼のベルトを緩める。
「あ……」
続けて後ろからミシェルのパンツのフロントボタンを外し、そこへ侵入させた手でミシェルを攻め始める。ミシェルは後ろ手に男の首に指を伸ばし、男の髪と自分の呼吸を乱した。
「ん……」
振り返るように首を傾けて、少しずつ荒くなる息遣いを唇で吸い取ると、2人はそのまま口付けながらベッドまで移動した。
勢いよく倒れこんだ瞬間、ベッドが軋む音を立てる。そのうちに、まるで悲鳴を上げているかのように、更に大きな音でベッドが激しく軋み始める。
やがて、ああ、と言う声と共に、ミシェルの瞳の端からクリスタルのように澄んだものが流れ落ち、次の瞬間、男が溜息と共に最後の瞬間を迎えた。
自分の上に崩れ落ちた男にしがみつくように背中まで腕を回し、肩に口付けながら、指を差し入れるようにして男の髪を撫でる。ミシェルの優しい愛撫に、男は顔を上げて、甘い口付けを彼に返した。
それから体を離して横たわり、唇を重ねた後、ミシェルが『ああ』と溜息を吐いた。
「……ねえ、僕たち……待ちきれずに先にメインディッシュ食べちゃったんだね」
2人は、ミシェルの言葉にくすくすと笑いながら、再び唇を重ね合った。
それからしばらくして、食べるものとさっきのシャンパンを乗せたトレーをミゲルがベッドまで運んで来ると、ベッドに体を起こしたミシェルがギターを抱えていた。ベッド脇に置かれていたものを拾い上げたらしい。
「子供の頃、学校で少しだけ習ったんだけどなあ。もう忘れちゃったよ」
「『キラキラ星』か?」
「Uum……
ギターをベッドに立てかけるようにして床に置き、彼はミゲルがキッチンから運んできた料理を食べ始めた。
「んー、美味しい!」
「だろ?」
ミゲルはそう言って軽く片方の眉を上げると、ミシェルが床に置いたギターを手に取り、ミシェルの横に腰かけて何かを弾き始めた。
スペインかどこかの、ヨーロッパの荒野を思い浮かべるような、少し悲しげで美しいメロディ。
「Oh my God , まだ僕を君にメロメロにさせたいの?」
ミシェルの言葉に男は軽く笑ってギターを弾き続けたが、ふっと指を止め、振り返ってミシェルのほうへと視線を向けた。
「……」
「Wha?」
男は何も答えずにミシェルの瞳を見つめ、『何でもない』と言いたげに小さく首を振って瞳を伏せた。
「What !?」
再びミシェルがその視線のわけを知りたがったが、男は首を振るばかりだ。
「I just……」
「?」
「……just ……nothing……」
こんな時、いくら『教えて』と懇願しても、男は決して何も言ってはくれない。ミシェルにもそれはよく解っていたので、それ以上訊くことはやめた。
この時、男の胸の内にあったもの。それを今のミシェルが知り得ることはない。
けれど、男の瞳の色や表情から、決して悪いことではないのだと読み取ることは出来た。
何しろ男は、今まで見せたことのないような、とても穏やかで優しい色を湛えた瞳でミシェルを見つめていたのだから。
* このお話のあとがきはこちら⇒
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892660029/episodes/1177354054892709580
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