人類悪覚醒

 とても大きく、気色の悪い色の花の蕾が膨らんでいる。

 紫と黒と赤、そして藍色が混ざった色のその花は、まるで人を喰いそうなほど大きい。

 だが実際、その花の中には人――神、いや、悪魔が入っていた。

 今にも雨が降り出しそうな曇天の中、その巨大な花がゆっくりと開く。鼻をつまみたくなる異臭を放って咲いたその花の中から、とても可愛らしく美しい少女が生まれた。

 人類悪にして絶対悪――アンラ・マンユ。

 彼女の生誕――いや覚醒と同時、ユキナは目を覚ました。そして同時、太公望が報告に来て片膝を付く。

「ユキナ様」

「えぇ――起きたのね?」

 一歩。一歩。

 まるで地面の感触を確かめるかのように、小さな一歩でフラフラと、アンラ・マンユは歩き出す。その先に咲いていた小さな花を見つけると、しゃがみ込んでその花の中を覗き込んだ。

 どうしてこんな形をしているんだろうとでも思っているのか、ずっと頭の中に疑問符を浮かべている様子で、彼女は花を見つめている。

 そして一瞬――

 立ち上がると同時に花をむしり取って、それを自らの霊力で消し飛ばし、そして頭の中のすべての疑問符が消えたことに感動して、三日月形に口角を持ち上げた。

「アンラ・マンユ」

 ユキナが呼ぶと、彼女はその笑顔のまま振り返る。

 一瞬だが一歩でも近づくことを躊躇した太公望と違い、ユキナは一切躊躇わない。

 そのことにまた疑問符が浮かんだ様子のアンラ・マンユからは、笑みが消えた。

「お目覚めかしらアン。お腹いっぱいだと嬉しいのだけど、調子はどう?」

「う、うん……ママ。お腹いっぱいだよ。大丈夫、ミーリ・ウートガルドだって殺せるよ」

 とても静かな空間に響く鈴のような声をする少女、アンラ・マンユ。

 しかしその言葉は実に狂気的で、一瞬で敵を殺せる力を持っているように錯覚させた。言葉自体にそんな力はないのだが、彼女の存在自体がそう思わせる。

 彼女と相対してまったく引かないし動じないユキナが、異常なのだ。

「アン、もうすぐミーリ達が来るわ。お出迎え、してあげて」

「……わかった」

 そう言って、アンラ・マンユは地面を指差す。

 その指先から走る光が一瞬で召喚陣を出現させると、その鈴の音のような声で詠唱した。

「アーリマン、アハリマン、ダハク、アング・マイニュウス……ゾロアスターの最高神、ズルヴァン・アカラナ様に願い奉る。我は絶対悪アンラ・マンユ。我が四つの名を捧げ、呼び給えび給え。我が右腕我が左腕我が脚よ……我が声に傅き応答せよ。召ばれ、給え」

 血と硝煙、その他一瞬では思いつかない限りの臭いと冷気を発する黒霧が、召喚陣から溢れ出す。そしてそこから赤い眼光が光ると、凄まじい大きさの龍が飛び出してきた。

 黒い鱗に四重に生えた牙。そして左右に八つずつの瞳。その背に灰色の体毛を生やした漆黒龍が、凄まじい声量で咆哮する。

 そしてその直後にまた、召喚陣から現れるのは巨躯の男。

 右手に血塗れの棍棒を持ち、左手に首輪が付いた鎖をいくつも握り締めているそれは、左右の目がそれぞれ別の方向を向いていた。

「右腕は邪龍アジ・ダハーカ。左腕は大魔アエシュマ。そして、我が脚――」

 アエシュマが鎖を引くと、そこから無数の流動体が現れる。

 首と片腕と片脚だけが人型で固まっているそれらは声もなく現れ、アンラ・マンユに膝間づいた。

「ダエーワ。ミーリ・ウートガルド以外の足止めを、頼んだからね?」

 もはや発声器官すらないのか、ダエーワと呼ばれた半熟卵のような怪物らは喋らない。しかしアエシュマに鎖を引かれると怯え、了解したと言いたいのか、ない首を垂れようとした。

「じゃあ行ってくるね、ママ」

「えぇ、いってらっしゃい。アン」

 ダエーワの大群とそれを引くアエシュマ。そして漆黒の龍アジ・ダハーカを引き連れて、百鬼夜行とでも言わんばかりの凄まじさを放って、アンラ・マンユはまた笑う。

 さぁ、汚い花火を打ち上げましょう! と、軍の士気を高める一言は不発に終わりながら、それでもその軍の凄まじさは抜けることがなかった。

「今回の戦い、あなた達は待機よ。基本はアン達にやらせるわ」

「かしこまりました」

「それとミーリは少し遅い気がするのだけれど……今どのあたりかしらね」

「はっ。それでしたら――」

 ユキナが瞬時、自分の目の前で弓矢を止める。

 放たれた矢は時限爆破式で炸裂したものの、ユキナに傷一つ付けることができなかった。

 そして同時、ユキナに教えてしまう。自分達が、射程圏内に侵入したと。

 もっともその相手達からしてみれば、来たぞユキナと宣言しているようなものだろうが、とにかくユキナは太公望が答えるより前に知った。

 しかし太公望は気にすることなく、そのまま報告を続ける。

「すでに射程圏内に侵入している様子です」

 恍惚とした表情で、自分の顔を包み込んで、自分の胸を抱き締めて、荒れる熱を吐きだしながら、ユキナはあぁ、あぁ! と崩れ落ちる。

 そしてアンラ・マンユの気色の悪いほど美しい笑みに負けず劣らず、恍惚と憤慨と慟哭を織り交ぜたかのような表情で笑ったユキナは、その昂る胸の内を絶叫した。

「ミーリ! ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ、ミーリ! あぁミーリ! 来てくれたのね?! そうよ私を狙って! 私を殺して! 私を愛してくれる限り、私もあなたを愛し続ける! だから一生、私はあなたを愛してます、ミーリぃ」

 その笑みを望遠鏡で見て、空中庭園のアタランテは背筋に悪寒を走らせた。

 狙撃射程圏内に侵入した直後に標的であるユキナを見つけて威嚇狙撃したのだが、まさか傷一つ付かないどころか止められると思っておらず、そして何故そこまで美しくかつ恐ろしく笑みを浮かべられるのかが不思議でしょうがなくて、アタランテの頭は混乱していた。

 獅子の耳が、ブルルっと震える。

「ミーリ・ウートガルドの言う通り、相当癖の強いやつのようだが……正直相対したくなかったな……あれを倒すのか……」

 アタランテは鳩を飛ばす。

 伝書を携えた鳩は真っすぐセミラミスのいる女帝の間へと抜け、伝書を届けてセミラミスの霊力へと戻る。

 そのすぐ側には、たばこを吹かすシスター、アグネス。

「目標が視認できたって? もっともあの狩人さんの目は、良すぎるがねぇ」

「しかしアタランテの射程圏内ならばそう遠くもない。ミーリ・ウートガルドは」

「あの奥さんと仲良くやってるよ。と言ってもそういう意味じゃなくて……ベアトリーチェの話じゃ、聖約の譲渡に性交して成功したらしい」

「そういう意味ではないか……まぁいいが。嫁も長距離砲が得意だとか言ってたな……アタランテの元へ向かわせ、遠距離砲撃が可能かどうか判断させろ」

「護衛はいらないのかい? アタランテならともかく、あのお嬢さんの射撃可能圏内まで距離を詰めるのなら、向こうからの反撃も考慮しないといけないよ」

「其方はシスターでありながら軍師のような発言をする。しかしその通りだ。ミーリ・ウートガルドに通達し、誰か向かわせろ。庭園に傷をつけるような馬鹿は送るなと言っておけ」

 セミラミスの伝言を承ったシスターは、ミーリに伝えに行く。

 ミーリは空虚うつろと共に面と向かい合い、座禅を組んで精神統一をしていた。

 集中していたので、シスターが来ることも外でアタランテが試し打ちしたことも知っている。故にシスターが伝えるよりまえに、わかったと頷いた。

「空虚、ここから狙撃をお願い」

「構わないが……私は正直、対象が一体だけのヘッドショットの方が得意だ。今回のように、同時に大勢を狙うのは不得意なのだが」

「相手の掃討はアタさんにやってもらう。空虚は自慢のヘッドショットを決めて。標的は一人、アンラ・マンユ」

「大将の首を取れということか、了解した」

「護衛を誰かつけないとね。向こうから遠距離攻撃来ないとも限らないし……ヘレン。ヘレン!」

 夢遊病で寝ながらにして部屋をフラフラ歩いていたヘレンを呼び起こす。

 目を覚ましたヘレンは寝ぼけ眼をさすると大きくあくびし、うんと背筋を伸ばした。

「教会の鐘が鳴ったの。私は白のドレスがいいわ。美の象徴って、大体白だもの。だから白は奇麗なのよ」

 相変わらず、私には何を言っているかわからんな……。

「ヘレン。空虚と一緒にアタさんのとこ行って、二人を護ってあげて。君は今回お留守番だよ」

「そう……残念。じゃあ帰りに何か買ってきて? 紅茶に似合うものがいいわ」

「わかった。少し待っててね」

 やっぱり私にはわからん……。

「行きましょう、花嫁さん。テントウムシが教会で待っているわ」

 寝ぼけているときのヘレンの意味深的意味不明発言についていけていない空虚。天と戦の二人も連れて、緊張の面持ちで向かって行った。

「ボーイッシュ」

「おぉ」

 帽子を目深に被り、ウィンは準備を整えた。

 戦闘準備は万端。すでにいくつかの弾に霊力を込め、魔弾と化した。いついつでも出撃可能な体勢だった。

 ミーリの肩に、ロンゴミアントが上着をかける。

「ロン、ネッキー。庭園のことお願い。レーちゃん、地上までみんなを送ったら、庭園ここに戻ってくるんだ。いいね。リスッチ、君はレーちゃんの護衛ね。一緒にいてあげて」

「任せるがいい! レーギャルンは私が護る!」

「よろしくお願いします、リストさん」

「ウム! くるしゅうないぞ!」

 リストがいつもの調子なのは正直、精神的に助かる。

 ずっと緊張状態が続く中で、こういうムードメーカーは大切な存在である。

 こういう存在を欠くと、意外と兵士達を疲弊させるものだ。

「じゃ、神を討つ軍シントロフォス進軍開始で行こうか」

「あ、あのマスター……」

「なぁに、レーちゃん」

「すみません、ちょっと気になって……オリンポスの方々は、まだこの場に来ていないのでしょうか? 私達より、先に行ったと思っていたのですが」

 ゼウスとの交渉が決裂し、仲違いのまま終わったあと、ゼウスは自らの全軍を引き連れて先に行くと言い残し去っていった。

 だが確かに、まだ数キロ先の話ではあるが、戦場にオリンポスの神々の霊力を感じられない。世界で最も高位な神霊達だ、霊力が小さすぎて感じられないなんてないだろう。

 もっとも、死にかけているのなら話は別だが――しかし、彼らがそう簡単にやられたとは思えない。

 四つの柱を欠いているとはいえ、まだ八柱もいる一二の最高神。とくにゼウスを筆頭として、ハデス、そしてポセイドンの三柱はそれぞれ陸海空を統べる最高神である。人類悪などたかが悪魔と呼び捨ててもいい彼らが、そう易々と負けることなどあり得ないだろう。

 しかしならば解せない。先に向かった神々の姿が、見えないというのは。まさか自分達より遅いなんてことはあるまいと、思うのだが。

「神様達の狙いはユキナだからねぇ……わざわざ人類悪を真正面から攻略する必要性ないし、後ろからユキナの本体を――そういうこと?!」

「ま、マスター?」

「だとしたら……!」

 ミーリは部屋を出て、そのままセミラミスのいる大広間まで急ぎ足で抜けていく。

 王座にてセミラミスが戦場に飛ばす鳩を用意しているところに入り、集中しているのだがと咎められそうになるが、しかしそんなことより調べて欲しいことがあると言わせもせずに押した。

「ここから半径四〇キロ圏内の霊力反応を探知、探索してほしいんだ、セミさん! もしかしたらあの雷様、ユキナだけじゃなくて、人類の軍まで焼きかねない!」

「待て、落ち着くのだミーリ・ウートガルド。それだけの範囲となると少し時間が掛かる。今すぐにとはいかん」

「ならできるだけ急いでほしい! 特にここから北側には集中して目を向けておいて! 陸から攻めるならそっちからしかない!」

 ゼウスの考えがもしもユキナ・イス・リースフィルトの殺害だけでなく、今後の戦争を再開させるための口実作りを狙っているとすれば、それは最悪だ。

 今回の人類悪殲滅に関して、人類が対神学園の生徒まで集って軍を組織していることは知っていた。それは神を狩るための組織。双方の取り決めによって、停戦中に人類の敵となる神が攻撃を行った際、人間には狩る権利が与えられる。

 だがその逆もまた存在する。

 神を掃討しようと試みる人間がいれば、これを神が狩る権利もあるのだ。

 お互いが正当防衛を主張して、度々争うこの境界線。以前ルシフェルが暴走させられた時も、神と人間のいさかいは危く戦争再開となる勢いであった。

 今回は神の側からも開戦の発端となる刺激を与え、戦争を起こそうと言うのか。

 そうなれば人類に対策はない。今回の人類悪殲滅に、人類軍がかなりの戦力を集中させているのを知っている。

 人類悪を打倒するのに戦力を疲弊させたところで再開する戦争。人類は確実に絶滅へのカウントダウンを歩んでいく。

 ゼウスの攻撃に耐えればいいなんて甘いことは言ってられない。仮に耐えられたとして、人類の怒りまで治められるわけがないのだ。確実に火種は燻り、自滅すらあり得る。

 ならばどうするか。

 人類悪を目の前に対峙している今、迂回してゼウスに追いつくことなどできない。

 人類悪を倒し、さらにゼウスの攻撃を止めるしかない。人類軍が来るよりも早く。

「人類軍が今どこにいるかも知りたいけど……時間ないしなぁ……」

 比較的柔い台詞を使っているが、ミーリからどんどんと余裕が削がれているのが見て取れる。

 ロンゴミアントら武装はなんとかしたかったが、ミーリの不安を解消できる術を思いつかず、ただ混乱するミーリを見て歯痒い思いをするばかりで悔しかった。

 そんなとき、扉がノックされる。入って来たのはドゥルガーで、二本の手で漆黒の蝶を運んできた。

 それを見たミーリは、瞬時にドゥルガーの用件を悟る。そしてそれを確かめるように、ドゥルガーは用件を口にした。

「ミスター・ミーリ。ミス・スカーレットより、連絡の蝶です」

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