魔法世界の猫魔女
儀式開始まで、あとおよそ三時間。
ケットシーの家では、ウィンが珍しく本を開いて調べ物をしていた。
家にはパソコンもあるのだが、起動魔方陣がどうのこうので、どうやら使用するのに魔力とやらがいるらしい。単なるパスワードやパスコードならば前回一度だけ使用したハッキングソフトを使って楽々――まぁやったあとで、ミーリに怒られるとは思うから、どうせやらないが。
そうまでしても調べたいのは、ロンゴミアントに成り代わっている紫髪の女についてだ。
ロンゴミアントと同じ顔、脚以外同じ容姿。そして霊力。明らかにロンゴミアントと関わり合いのある神かその時代の人間だと考えたのだが……。
生憎と、この世界に神話や伝説の類を記した書籍は少ない。書かれていたとしても、まるで根も葉もない噂レベル。真相は誰も知らないと言いたげな、研究者の個人見解が並べられたものばかりだった。
これはまさに、神々がいる世界とそうでない世界の決定的な違いだろう。
そもそも
真に神を信じる者は、
故に読んでいる本の内容は大半が神の紹介というよりも古代の奇跡の解明が主で、現代の魔法がいかに古代では奇跡と呼ばれていたかを知らしめるためのものだった。
故に彼女についての記述はまるでなく、それどころか聖槍であるロンゴミアントの存在すら記されているものはなかった。
「っ、使えねぇなぁ」
ウィンは本を元の棚に戻し、舌を打つ。
持っている生徒証の検索機能を使っても、彼女についての記述はほとんどない。
彼女は結局、
それ以上のことは、どの資料を探してもない。彼女は余りにも、神としても先人としても無名過ぎる。
ここまで調べて何も出てこない人が、何故神としてこの世に、しかもこの魔法世界に転生したのかまったくわからない。今まで会った魔神とは、まるでないパターンだ。
「ただいまぁ」
昨日の夕方に急に女の子一人を抱えて跳び出していった――なんて言ったらもう犯罪者の所業に聞こえてしまうかもしれないことをしでかしてきた主人が帰ってきた。
その主人のことが心配で、わざわざ読みたくもない本をあいつに習って読んでいたなんて恥ずかしくてたまらない。
故にウィンはすぐさま散らかしていた本をすべて片付けると、ずっとゲームをしていましたと言わんばかりの態度でソファに寝転がった。
「ま、マスターそのお怪我……それに、霊力が……」
レーギャルンが迎える。かなり心配している声だ。怪我などと言っている。
外で何かあったのだろうか。でもまぁ、帰ってきたということは無事だったのだろう、心配することは――
「あぁ、ボーイッシュ。もしかして寝てた?」
「あぁ、まぁな――」
ミーリの姿を見たウィンは絶句した。
体のところどころが斬られ、吸血鬼の血によって塞げたのだろう傷跡が痛々しく残っている。とくに腕についた傷の数が圧倒的で、左腕に関しては手首が深く斬れていた。最悪命に係わる場所だ。
「おまっ! 大丈夫か?!」
思わず声が出てしまった。しかも立ち上がり、斬れた左手首を持ち上げて傷口を眺めてしまう。さらにはあまりに痛々しいその傷を見て、まるで彼を心配する彼女のような潤んだ瞳で見つめてしまった。
「何してんだよ、バカ……」
「……ごめん」
ウィンがそんな反応をするとは思ってもおらず、ミーリは困惑する。
その様子を見たウィンが自分の今の惨状に気付き、すぐさま手を離して背を向けた。強く、潤んだ目をこする。
「敵か! 修行か!」
「しゅ、修行です……」
「強く……なったんだろうな!」
「た、多分」
「なら、勝つぞ! 説教はその後だ……ただし、俺にじゃねぇぞ? あいつに……槍脚に、帰ってからたっぷり叱られやがれ! このバカ!」
「ご、ごめんなさい……」
ミーリが謝ったことで、なんかスッキリした。
何故か出そうになっていた涙は引っ込み、元のウィンフィル・ウィンへと戻っていく。ミーリのために調べ物をしていたことなど、もう恥ずかしくもなんともなかった。
「儀式まであと三時間。さっさと飯食って寝て、霊力を溜めやがれ。せっかくてめぇのためにありったけの魔弾を用意したんだ。これで負けやがったら、ぶっ殺すからな、ご主人様よ」
「……うん、ごめんね」
「おぉ」
お互い、いつも通りの笑みを浮かべる。白い歯を見せるウィンの笑顔はいつも通りの輝きを取り戻し、ミーリも困惑から解き放たれた。
そこにネキがやってくる。目の見えない彼女はミーリの背中に触れて初めて傷に気付き、そっと指先でおもむろになぞった。
「主様、どうかお一人で戦わないでください。私は、主様のお役に立つために主様の武装となりました。どうか、激戦の戦火の中でもお使いください。私達は自身が傷付くのは耐えられますが、主様が傷付くのは、耐えられません……」
「うん、ごめんねネッキー。今日はうんと頼らせてもらうよ、みんなにね」
「はい、どうか主様に神のご加護があらんことを」
光を吸い込めない虚ろな瞳を潤ませて、ネキは微笑む。
その頭を撫でたミーリは、すぐ側でレーギャルンも何か言いたそうにしているのに気付き手招きする。やってきた彼女を優しく抱擁すると、その頭に手を置いて滑らせた。
「ごめんね、心配かけて」
「いえ、いえ……マスターなら大丈夫と、信じています。でもどうか、無理だけは。マスターはもう、一人ではないんですよ?」
「うん、そだね」
「おぉ、帰っていたか」
階段から降りて来たのは、珍しく上着を完全に脱いだリスト。
いつもは胸部にしか布をまとっていない露出度の多い上半身だが、背中を隠すためかこのときは袖なしのシャツを着ていた。それに合わせて、下もかなりルーズなパンツに変わっている。
上の部屋で筋トレでもしてたのか汗だくで、パンツの尻ポケットから尻尾のように下げていたタオルで汗を拭う。
「随分と傷だらけだな、先駆者よ。だが、妙に清々しい顔をしている。さては、我々に隠れて強くなったな? 図星だろう」
「どうかな。確かにこの何時間か特訓したけど、さすがにものにできたとは思ってないから」
「そうか。だが、私は信じているぞ? おまえはその強さで、おまえが守りたいもののすべてを守り抜く。かつてはその強さがおまえを孤独にするなどと言ったし、今もその目は変わらん。が、それでも……私は、おまえを信じている」
いつもは死神の一番弟子だとか死の力がどうとか、また子供みたいなミスを犯す彼女だが、このときはなんだか頼もしく感じた。
いつもこうだといいのだが、しかしそれでは
だからこそ、このときこの言葉が響いたのは、言うまでもない。
「リスッチ……今日は勝つよ。全力で」
「おぉとも! 豪華客船世界一周二年間の旅にでも出たつもりで任せるがいい!」
リストと拳を交わしてソファに座ると、ずっと寝ていたのだろうヘレンがやってくる。ミーリの傷を見るとゆっくりと歩み寄り、手を持ち上げて甲に口づけした。
「今度は、誰と踊るつもりなの? 首のない鶴かしら、それとも脚のない鳩かしら。いいえ違うのね、あなたが踊ろうと手を取るのは、恐れ多くも空の女神様たった一人」
「えぇぇっと……怒っ、てる?」
寝ぼけているのか、ヘレンの頭の中はおそらく半分は夢の中だ。そういう発言をしている。
だがそれでも、まるで彼女が怒っているようだと思い、ミーリは訊いた。が、ヘレンは不思議そうに首を傾げて、トロンと眠そうな目で微笑む。
「何故? 誰だって踊りたい人間くらいいるわ。みんな、踊りたい人と好きに踊ればいい。それが舞踏会でしょ? だから好きに踊ればいい。でも、あまりステップを踏み過ぎるのはよくないわ。脚を挫いては、ドレスを着ることすら叶わないのだから」
「や、やっぱり怒ってる?」
「そう感じるのなら、次はどうすればいいのかわかるでしょう? ステップの練習ばかりでなくて、たまには音楽を耳に馴染ませなさい。それが、上手に踊るコツよ」
「……うん、ごめん」
「フフ、謝ってばかり。楽しい……人、ね……」
ヘレンはまた、力尽きたように眠る。座るミーリの膝に頭を乗せて、スゥスゥと小さな息を漏らして安堵したように眠っていた。
他のパートナーは、とりあえず手当しようとか飯にしようぜとか、それでどんな特訓をしたのだとか、まずは寝ましょうだとか、まったくバラバラなことを言っている。
しかしながら、それを遠目から見るケットシーの目には、等しく彼女達がミーリの身を案じて、そして信頼しているように見えた。
それはまさに、自身の理想と強く重なる。
周囲のみんなに認められて、信頼されて、普通の人間として生きる。それが単に魔力を持つ猫である、少女の夢。
そう、ケットシーはただ認められたいのではない。猫ではなく、人間として認められたいのだ。
単なる魔力を持った猫ではなく、人間の魔法使いとして認められたい。でなければ、自分はただ人間の姿を与えられただけのただの猫だ。ただ人間に憧れているだけの、あの日棄てられた猫なのだ。
そんなのは嫌だ。せっかくあの人に、この体を与えてもらったのだ。せっかく、人間として生きる道をくれたのだ。
もうあの日のように、雨に濡れて助けを乞うだけの存在に戻るのは嫌なのだ。もう、あの日に戻りたくはない。
そう、他人から認められたいという欲求の根源は、そこにある。
ケットシー・クロニカ。ただの猫だった彼女は人間に憧れていた。
艶やかな髪を揺らして、二足で軽やかに足音を立てて歩く。多種に
その他一切が羨ましく、憧れていた。それを猫の仲間に伝えても、わかってくれる猫はいなかった。故に認められなかった。
おまえは猫じゃない。仲間じゃない。群れの中で孤立して、日に日に弱っていた。
餌が取れないときに思った。人間なら、簡単に取れるのに。
高い場所に上れないときに思った。人間なら、届くのに。
一匹になったとき、強く思った。人間だったら、もっと友達ができるのに。
孤立する原因にもなった人間への憧れは、孤立することで日に日に増していく。弱っていく体と心に比例して、人間への憧れは強くなっていった。
そんな人間に、あの日、なってしまった。してもらった。私はあの日人間の言葉を喋り、人間の脚で歩き、人間の視線の高さで世界を見た。
素晴らしかった。猫の時には感じなかった高揚感と、充足感。人間になれた幸運を、その日以降毎日のように噛み締めている。
だが人間になったことで、私は更なる欲求――憧れを抱いた。
人間として認められたい。魔力を持った猫という希少な存在としてではなく、ただの人間として誰かに、この世界に認められたい。
でなければ、また――独りぼっちになってしまうから。
猫だとバレてしまって、受け入れてもらえる自信がない。自分は猫だけど、みんなの仲間なんだと、叫ぶ力が持てない。もし猫だとバレてしまったときの未来は、崩壊しているものしか想像できなかった。
猫の時に味わった、孤独の地獄。誰も助けてくれない。誰にも頼れない。誰とも繋がれない。誰の力も借りれない。誰の体温も感じない。
孤独は辛い。嫌だ、毎日が死へと向かって行く。
生物の生は等しく皆が同じ死へと向かって行くものだが、それでも少しでも満ち足りた生を謳歌しようという欲求が生じる。それが普通なのだ。
猫ですら思う。もっと誰かと繋がりたい。誰かと一緒にいたい。誰かの体温を、温もりを感じていたい。そんな欲求に駆られる孤独を与えられた。
だからだ。だからみんなに認められたい。魔法使いとしてではなく、一人の人間として。
それが、猫魔女ケットシー・クロニカの夢。
その夢をまさに実現している存在が今、目の前で
他者から認められたいという願望を叶えるべく儀式に参加した猫が召喚したのが、皆から認められた異世界の戦士。
なんという偶然だろうか――いや、奇跡か。こんな巡り合わせを運命と呼ばず、なんて呼べばいいのだろう。
「ミーリさん」
ウィンとリスト、ネキが上階へと戻ってミーリ回復のための霊力を溜めに行き、レーギャルンとヘレンが食事の用意をするべく台所へと向かって行くと同時、ケットシーは声を掛ける。
ソファに座るミーリの前に片膝をつくと、口づけをした拳を強く突き出した。
「これが、本来私が呼ぶはずだった召喚獣と交わす、契約の証です……ミーリさん、あなたには目的があるって言ってました。その目的を、あなたはどう果たすつもりですか?
私は……目標のためだったらなんでもする――つもりでした。だけど、私は覚悟が足りませんでした。なんでもするって、決めたのに、私は人を巻き込むことを恐れてました。
ミーリさんみたいに、本当は他の人を巻き込んじゃえばよかったんですよね? 誰かに頼って、誰かの力を借りながら、自分の脚で歩けばよかったんですよね? 私は……あなたを見てそう思いました。私は、間違っていると思いますか?」
ミーリは少しキョトンとした様子で聞く。だが少しするとうぅんと考え込み、そしてケットシーの頭に手を置いた。
「誰かの力を借りて、誰かに頼って目標を達することは悪いことじゃないし、でもいいことでもないよ。結局、やらなきゃいけないのは自分だから。誰かの力を借りてもいいし、誰かに頼ってもいいけど、最後は自分で決めなきゃならない。それが、目標を果たすうえでできる、責任みたいなものだと俺は思う。
だから、他人を巻き込んじゃえばよかったっていう答えが正しいかどうか、それは俺にはわからない」
けど、とミーリは続ける。そしてケットシーが突き出した拳をそっと持ち上げて、優しく口づけした。本来は、その拳に拳を合わせるが儀式なのだが。
口づけをしたミーリは、とても優しい笑みを浮かべて言った。
「誰かを巻き込んででも夢を叶えたいだなんて、君は本当に人間なんだね」
人間なんだね。
その言葉が今どれだけ心を満たし、洗い流してくれたか。人間になって数年、誰かに人間らしいなんて言われたこともなかったのに。
涙が溢れて止まらなかった。頭からシーツを被って、隠れてしまいたかった。突き出している拳を下げて、顔を隠してしまいたかった。
でもそんなことよりも、嬉しかった。
今まで生きてきた中で、最高に嬉しかった。初めて、人間と認められた気がして嬉しかった。だから、泣いていて恥ずかしくはなかった。
「さて、そうと決まったら実行しなきゃ。俺に頼って目標を達成するかどうかは君次第。誰も勧めないし咎めない。君が決めるんだ」
涙を拭って、突き出していた拳をほどく。そしてずっと自分の手を持っていたミーリの手を優しく掴み取り、握り締めた。
「ミーリさん……力を、貸してください……私、認められたい。みんなに、人間だって認めてもらいたい……!」
「……じゃ、まずはありのままの姿になっちゃいな」
「……はいっ」
異世界の青い戦士、ミーリ・ウートガルド。
魔法世界の猫魔女、ケットシー・クロニカ。
二人の契約はこうして、ようやくなされた。
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