第2話 ~祐樹《おれ》と優希《わたし》~
『七〇六
その扉の前で、たしかに少女は俺を「ユウキ」と呼んだ。
だが、その表札が示す名前に覚えはない。確かに“ユウキ”ではあるが“優希”ではない。
俺は
決して他のことが思い出せなくても、大塚祐樹としてのアイデンティティーは持ち合わせている。だからこそ今まさに自分の身に起きている、身体が女になってしまったという訳の分からない状況に混乱しているのだ。おまけに綺麗さっぱり記憶が抜け落ちていて、もう何がなんだかさっぱりだ。
「なんだか元気そうだね、よかった。先生の言っていた通り、今日問題なく退院出来そうだね」
コツン。少女のローファーの音が、一歩ずつ距離を詰めてくる。
「うふふ、久しぶりだなあ、ユウキが家に帰ってくるのっ。楽しみだなー。……そうだ! お祝いに、晩ごはんはユウキの好きなもの作ってあげよっか?」
両手を後ろ手に組み、ルンルンと陽気なステップを踏んで、少女は小首を傾げた。
「オムライス? 肉じゃが? それとも――」
「ちょ、ちょっとまって。そんなことよりさっき、ユウキって言ったよね?」
詰められた分の距離を戻すように、無意識のうちに後退する。
「え? うん。そうだよ」
「ユウキって、お――わたしのこと?」
とっさに俺という一人称を訂正した自分に、少し驚いた。別に少女二ノ宮優希を演じようとしたわけではない。ただ、発するたびに聞こえる優希の声には、その方が整合性が取れていて自然だと思えたからかもしれない。
よくよく考えるとバカらしい質問だったが、少女は特に
「そうだよ。ユウキはユウキだよ」
そう言って、笑った。
やはり、彼女は俺のことを“二ノ宮優希”として認識しているようだ。名前の字は違えど、音は一緒……なんという偶然。
とはいえ、残念ながら
俺は男だ。そう意識すればするほど、違和感が纏わりついてきた。女性独特の丸みを帯びたラインが、なんとなくだが衣服に擦れる感触から伝わって来る。唯一見える手のひらは小さく、角張ったところは一切なくしなやかでそれでいて柔らかい。
そもそもなぜ女になったんだ? 名前の読みが同じなのは、何か関係があるのだろうか……いや、そんな因果関係で性別が逆転するとは考えにくい。
じゃあ、この少女は何か知っているだろうか。
「どうしたの、ユウキ?」
最初に見せた寂しげな表情とは一変して、少女は本当によく笑っていた。かと思いきや、考え込んでいた俺を見て、今度は心配そうな表情で見つめてきた。
少しだけ胸の奥がうずく――いや、彼女が見ているのは優希だ、俺ではない。
少女は至って平静だった。この状況に何も異常性を感じ取っていない。なんの害もなさそうなこの少女が、俺の身に起こった境遇について何か知っているとは到底思えない。余計な混乱を避けるためにも、迂闊に俺の身に起こったことについて周りに話すのは控えた方がよさそうだ。
この手の話は笑い飛ばされるか薬の使用を疑われるか、有無を言わさず連行されると相場が決まっているのだから。
「ねえ、かがみ……持ってる、あ、いや……ますか?」
そういえば未だに自分の姿を確認していなかったことを思い出し、この身体の知り合いらしき少女にお願いする。
「うん。持ってるよ」
「か、貸して……ください」
視線を泳がしながらもお願いすると、少女は手に提げていた鞄から折り畳み式の鏡を取り出し、俺と鏡を変わりばんこに見てから鏡を差し出した。
「はい」
「ありがとう――」
手を伸ばして受け取ろうとした――その瞬間。
いきなりぐらっと視界が揺れたかと思うと、強烈な光が網膜に射し込んできて、頭の中をジリジリと焼き焦がされるような感覚に襲われた。
現実から意識が急激に引き剥がされ、見たこともない映像――記憶の
ほんの一瞬。しかしとても長い時間神経が
パリン。
何かが砕けた音で、今度は急速に現実に引き戻される。
だからと言って症状が好転したわけではなく、激しい頭痛と胸痛に襲われ、いつの間に床に崩れ必死で息を吸っては吐いて、吸っては吐いてを繰り返した。
「うっ……ぐっ」
く、くるしい……ッ。
うまく事態を把握できない。身体が、脳がただひたすらに酸素を欲している。全神経を持っていかれているせいか、意識が散漫とする。
狂ったように、
いつも当たり前のようにしている呼吸が、どうしてこんなにも辛いのか。
味わったことのない身体の暴走に、必死で耐えて、耐えて、耐えて…………――
そのまま幾許かの時間が過ぎ去っていった。数分かもしれないし、数十分かもしれない。
時間の経過と共に症状が落ち着き始め、なるべく深いところで息をするように心掛けていると、少しずつ自制が利くようになり、同時に失った理性を取り戻していった。
(なんだったんだ……今の)
考える余裕は戻っていたが、先ほど見た記憶の断片は見覚えがない。……いや、見覚えはないはずだが、俺はその光景を知っているような……そんな気がした。
鮮明な映像ではなかったが、未だに残像が脳裏に焼き付いていた。頭の中には、一人の少女の泣き顔。
――あれは……先ほどの少女なのだろうか。
やがて過呼吸は収まったが、まだ少し頭痛がする。それに胸もなんだかもやもやした。
一人は先ほどの少女だとすぐに分かった。顔のすぐ横に『ユウナ』と装飾文字が施されており、もう一人は『ユウキ』と記されている。二人は、恐ろしいまでに瓜二つだった。
つまるところ、鏡なんかに頼らずとも、俺はずっと自分の姿を見ていたというワケだ。
だが果たして、自分はあそこまで表情豊かになれるだろうか。写真の中の優希同様に、笑える気がしない。
次第に頭痛が収まり、呼吸もすっかり落ち着いたので立ち上がる。大きく深呼吸をした。
どのみち割れた鏡では確認しようもないことだが、半身となるユウナを見ていたおかげか、自分の姿を確かめたいという意欲は失せていた。
どうして二ノ宮優希になったのか、先ほど見たあの記憶はなんだったのか。
いろいろと気掛かりはあるが、何よりも先に確かめたいことが出来た。じっとしているわけにはいかない――
扉の前に少女の鞄が置き去りにされていた。けっこう大きいが、思ったより軽い。
部屋のベッドの上で鞄の中身を出していく。中にはユウナが着ていたものと同様の制服が一式、携帯、白色のフリルのついたふわふわな化粧品ポーチ、財布、そして――
『こんにちは! ボクはゴマたんだよ!』
「ゴマ……たん?」
ゴマアザラシのぬいぐるみ、ゴマたんが入っていた。
話しかけると数種類あるボイスのうち一つがランダム再生されるヨ。お腹を押すことでも反応するゾ。普段は北極圏に生息しているけど、日本の食文化を学ぶためにやってきたのサ。巷で噂の“ごまぐるみシリーズ”の中で、もっとも人気を博しているのが何を隠そうこのゴマたんである!(取扱説明書参照)
試しに腹部に力を込めてみる。
『こんにちは! ボクはゴマたんだよ!』
『こんにちは! ボクはゴマたんだよ!』
ワンパターンかよ。
一体どうして鞄の中にこんなものが。
『ぎゅーって抱きしめてー』
「いやさすがにそれはちょっと……」
さすがにこの歳にもなってぬいぐるみを抱きしめるのは少し抵抗がある。
『じゃあなでなでしてー』
ふむ。
「……それならいいだろう」
『わーい!』
このぬいぐるみ……できる! ……それにちょっとかわいいかも?
思わずぬいぐるみを抱きしめたい衝動に駆られるが、慌てて首を振って自我を取り戻した。アブナイアブナイ。まだ心までは女になりきっていないぞ。
制服は外出用にユウナが持ってきてくれたのだろう。好意に甘え、さっそく着替えることにした。むろん女子の制服だが、トイレでの出来事に比べれば今更恥も外聞もない。
「シントウメッキャクスレバ……ヒモマタスズシ!」
そうして特に手こずることはなく、着替えが無事に終わる。……なんだか着慣れているようで釈然としないが、おそらく身体が覚えているというやつだ。
今まで着ていた施設の服は綺麗に畳んでベッドの上へ。ぬいぐるみに毛布をかぶせ、無駄だとは思うが偽装工作を施す。ベッドの下にしまいこまれていたローファーを履き、散らけた荷物を鞄につめて準備完了。
下がスースーするのは、着慣れないスカートとニーハイソックスから生み出された絶妙なラインがあるからだろうか……それにしてもこのスカート心なしか少し短い。
服装を変えただけだがかなり性別を意識させられ、意味もなくドキドキしてしまう。着替える時に見てしまった自分の体の肉付き加減はやっぱり女の子のソレで。
自分で自分の体に興奮しているというのもおかしな話だ。
ぶんぶんと首を振って邪念を飛ばし、いざ外へ出ようと扉に指をかけた。
『――ちょっとまって!』
そこで誰かに呼び止められた。
とはいっても、振り返っても部屋に誰もいるはずはなく、
「気のせいかな」
再び外に出ようとすると、
『まってまって!』
確かに人の声がする。振り返る。だが誰もいない。隠れられそうな場所といえば――ベッドの下を覗いてみるが、誰もいない。
『ここ、ここだよー!』
さっきよりも近い。耳を澄ませばベッドの毛布の中から声がする。よくみるともぞもぞと中で何かが動いていた。
まさか……ね?
生唾を飲み込んだ。
おそるおそる毛布をつかみ、めくっていく。
そしてふくらみのところへ差し掛かると、勢いよく中から何かが飛び出してきた。
「ひぁっ!?」
『ぷはーっ! やっと出れたー!!』
驚いて尻餅をついてしまった。目の前にはぷかぷかと宙を漂う、
『はじめまして、ボクはゴマたんだよ!』
ゴマアザラシのぬいぐるみの姿があった。
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